元野球選手・衣笠祥雄さんの葬儀|元チームメイトや友人が見送り

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2020/9/8

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2018年に亡くなった、元プロ野球選手の衣笠祥雄さん。その葬儀屋お別れ会には広島東洋カープの元チームメイトとファンが訪れ、早い年齢での逝去を惜しみました。衣笠さんは現役時代、「鉄人」と呼ばれ偉大な記録を樹立した驚くべき野球選手でした。

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2020/9/8

目次

衣笠祥雄さんの経歴

衣笠祥雄さんは京都府出身で、高校卒業後、広島東洋カープでプロ野球選手として活躍しました。カープの黄金時代を担った衣笠さんは「鉄人」と呼ばれ、さまざまな記録やエピソードを持っています。野球を心から愛し、器の大きさからたくさんの人に慕われた衣笠さん。そんな衣笠さんの経歴をご紹介します。

幼少期

1947年1月18日、衣笠祥雄さんは京都府で誕生しました。母親は日本人、父親はアフリカ系アメリカ人であるため、衣笠さんはハーフということになります。この父親は日本に駐留していたアメリカ軍の兵士でした。衣笠さんがまだ幼いころに離婚し、衣笠さんは母方の祖父に育てられることになりました。その後、母親が再婚することになりますが、衣笠さんは家計を助けるために幼いときから新聞配達をしていました。

中学、高校時代

京都市立洛東中学校に進学した衣笠祥雄さんは、野球部に入部します。本当は柔道部に入ることを希望していましたが、同中学校には柔道部がなかったのです。妥協して入った野球部ですが、めきめきと上達し頭角を現すようになります。

 

中学を卒業すると、野球の強豪である平安高等学校(現在は龍谷大平安)へ入学し、ここでも野球を続けます。高校3年時には、春・夏と続けて甲子園に出場し、ベスト8という成績を残しています。このときの衣笠さんのポジションはキャッチャーでした。

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広島東洋カープ入団

1965年、平安高校を卒業した衣笠祥雄さんは、「広島カープ」に入団します。現在は広島東洋カープという球団名になっていますが、当時はまだ広島カープという名前でした。キャッチャーとして入団した衣笠さんでしたが、実際にマスクをかぶったのは6試合ほどです。その後は、当時の監督であった白石勝巳さんの意向で一塁手に転向することになりました。1968年には一軍に定着し、数々の成績を残していくようになります。

国民栄誉賞受賞

1987年、衣笠さんは2215試合連続出場記録を叩き出します。これは、当時記録を保持していたメジャーリーガーのルー・ゲーリッグの記録を塗り替えるものでした。この功績をたたえ、国民栄誉賞が授与されました。当時、野球選手で国民栄誉賞を授与されていたのは王貞治さんだけです。尊敬する長嶋茂雄さんを追い抜いて受賞することになり、衣笠さんは「長嶋さんに申し訳ない」という思いを吐露していました。

引退後は解説として活躍

国民栄誉賞を受賞した1987年、守備が満足にできなくなったという理由から、衣笠さんはついにユニフォームを脱ぐことになります。引退後、ファンからは広島東洋カープの監督に就任することが期待されていましたが、それは叶わぬまま、お亡くなりになりました。

 

引退後は、解説として活躍していた衣笠さん。最後の解説は、2018年4月19日に行われたBS-TBSのDeNAベイスターズ対読売ジャイアンツ戦でした。このとき、体調が思わしくなかった衣笠さんは思うように声が出せず、聞き取れないほどかすれてしまっていました。このことはTwitterなどでも話題になり、ファンから心配の声が上がるほどでした。衣笠さんの体調不良を受け、急遽、槙原寛己さんが解説の補佐に入りましたが、衣笠さんはこのことに深く感謝していたそうです。なんとその4日後、衣笠さんは天国へ旅立ったのでした。

広島東洋カープ時代のエピソード

「鉄人」と呼ばれ、広島東洋カープ時代にすばらしい成績を残している衣笠祥雄さん。実際には、どんなエピソードがあるのでしょうか。

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広島東洋カープの黄金期を築いた

衣笠祥雄さんが選手としてプレイしていたころの広島東洋カープは、黄金時代と呼ばれています。山本浩二さんとアベックホームランを打つことが多く「YK砲」と呼ばれました。これは、王貞治さんと長嶋茂雄さんの「ON砲」になぞらえたものです。三振を恐れず、常にフルスイングであったことが持ち味でした。

 

また、衣笠さんは500本塁打、200盗塁を達成しています。これは日本のプロ野球史上で3人しか達成していない偉大な記録です。ゴールデングラブ賞の受賞歴も3度あり、まさに走攻守そろった選手として知られています。

鉄人と呼ばれたエピソード

少々の怪我をしても、試合に出場し続けた衣笠さん。体が頑丈であり、背番号が28番であったことから、人気を博していた漫画「鉄人28号」になぞらえ、「鉄人」との愛称がつくようになりました。

 

連続試合出場の記録がかかる中、読売ジャイアンツ戦で西本聖投手からデッドボールを受けると、左の肩甲骨を骨折してしまったことがありました。しかし、骨折をおして衣笠さんは次の試合も代打で出場を果たします。打席に立った衣笠さんはフルスイングで球場のファンを沸かせました。結果は三球三振でしたが、「一球目はファンのため、二球目は自分のため、3球目は西本くんのためにスイングしました」という名言が残っています。さらにその翌日にはフル出場をし、周囲を驚かせました。

衣笠さんの家族について

衣笠さんは、正子さんという奥様と、息子さんが一人いらっしゃいます。結婚がいつ頃だったのかは明らかにされておらず、正子さんについても一般人ということでほとんど情報はありません。息子さんは、1977年4月23日に誕生しています。

 

息子さんは衣笠友章さんで、以前は俳優として活躍しており、テレビドラマや映画に出演経験があります。現在は俳優を引退し、会社員として働いています。

衣笠祥雄さんの死因と葬儀

衣笠祥雄さんは2018年4月23日、71歳でお亡くなりになりました。この日は、奇しくも息子である友章さんの誕生日でした。死因や葬儀はどういったものだったのでしょうか。葬儀とは別に、お別れ会も開かれました。

衣笠祥雄さんの死因

衣笠祥雄さんの死因は、上行結腸がん(大腸がん)でした。上行結腸がんで亡くなるのは、男性は女性の2倍とも言われています。いつころから患っていたのか明らかにされていませんが、病気をおしてお仕事を続ける姿勢は、まさに「鉄人」そのものでした。

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衣笠祥雄さんの葬儀

衣笠祥雄さんの葬儀は、4月25日に東京都港区の梅窓院の行われました。密葬だったため、参列者は30人ほど。その中には、元チームメイトの江夏豊さんの姿がありました。また、衣笠さんの訃報を受け、広島東洋カープは28日の試合で喪章をつけてプレイしました。

衣笠祥雄さんのお別れ会

葬儀とは別に、球団のオーナーである松田元さんが発起人となり、2018年6月28日に衣笠祥雄さんのお別れ会が開かれました。球団関係者が800人、ファンが2000人献花に訪れました。献花会場には、交響詩「限りなき挑戦 衣笠祥雄」が流されました。この曲は、衣笠さんの野球人生を元にイメージを作り上げて作曲されたものです。現役時代の数々の写真パネルが飾られ、衣笠さんの功績を改めて感じられるものとなっていました。

緒方孝市さんのコメント

緒方孝市さんは、衣笠さんのお別れ会があった当時、広島東洋カープの監督をしていました。また、現役時代もカープでプレイしており、衣笠さんはチームの先輩にあたります。お別れ会では、「衣笠さんの時代に負けないくらいのカープを作っていきたい」と決意を新たにしています。

黒田博樹さんのコメント

黒田博樹さんは、広島東洋カープからメジャーリーグに渡り、ロサンゼルス・ドジャースとニューヨーク・ヤンキースで活躍したあと、年俸が下がるにも関わらずカープへ戻ってきたことで知られています。ファンの中では伝説的な選手ですが、そんな黒田さんは衣笠さんのことを「偉大な先輩」だと感じていました。衣笠さんが亡くなられたことについて、「非常に残念」との思いを口にしました。

新井貴浩さんのコメント

衣笠さんが亡くなった2018年、まだ現役として活躍していた新井貴浩さん。広島東洋カープから阪神タイガースへ一度移籍したものの、2015年に再びカープへ帰ってきました。広島で生まれ育った新井さんは、幼い頃からカープのファンでした。衣笠さんのことを「自分が小さかった頃のスター」だと追悼しています。

山本浩二さんのコメント

衣笠さんと共に「赤ヘル軍団」と呼ばれた広島東洋カープの黄金期を築き上げた山本浩二さん。衣笠さんのことを「キヌ」と呼び、衣笠さんがライバルであったことで自分も成長することができたと回顧しています。71歳で亡くなったことに対し、「早すぎる。寂しい」とコメントしました。

江夏豊さんのコメント

江夏豊さんは、1978年から80年に広島東洋カープに在籍しており、そのときに衣笠さんとチームメイトとしてプレイしていました。衣笠さんの密葬に出席するほどの仲であり、「自分の人生において、野球を通じて必要な男だった」と語り、お二人の関係の深さをうかがわせました。

達川光男さんのコメント

達川光男さんは、現役時代にキャッチャーとして広島東洋カープで活躍しました。衣笠さんはチームの先輩にあたり、「キヌさん」と呼んでいました。衣笠さんには「感謝しかない」と、涙をこらえて話しました。

いつまでも人々の心に残る衣笠祥雄さん

野球選手としてすばらしい成績を残しているだけでなく、その人柄からたくさんの人に尊敬されていた衣笠祥雄さん。その野球人生は、広島東洋カープファンだけでなく、さまざまな人の心に残っていくのではないでしょうか。