夏木陽介さんの葬儀|名優の人生と最期、葬儀 作品や愛車についても

公開日 : 2021/1/14

更新日 : 2021/1/14

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2018年に亡くなられた俳優の夏木陽介さん。彼はどのようにして俳優になり、どんな作品に出演したのでしょうか。Gメン'75やゴジラへの出演についても。愛車遍歴とパリダカへの参加も調べました。そして、晩年と死因、葬儀とお別れ会のもようも詳述しています。

公開日 : 2021/1/14

更新日 : 2021/1/14

目次

夏木陽介さんのプロフィール

2018年1月に俳優の夏木陽介さんが亡くなられました。夏木さんは俳優として人気を誇り、スターとしての憧れを集めた人でした。 この項では、夏木陽介さんの生い立ちと、俳優としての活動を見ていきます。俳優としては、数々の話題作に出演し、大きな人気を獲得しました。また、独身を貫いた夏木陽介さんのプライベートも確認します。

芸能界入り

夏木陽介さんは 1936年2月27日に八王子市で生まれました。本名は阿久沢有(あくさわたもつ)です。桜美林高等学校を経て明治大学経営学部に入学しました。在学中に高校の同級生のホキ徳田さんのおばあさんの家に寄宿していた画家の中原淳一さんに、中原さんが発行する雑誌「ジュニアそれいゆ」のモデルにスカウトされ、大学卒業と同時に東宝に入社しました。 この時、「夏木陽介」の芸名を受け、すぐに映画デビューしています。「夏の太陽の下で青い若木よ、大きく伸びよ、伸びよ」という意味を込めて、中原さんが命名しました。当初は軽い気持ちで俳優をやっていたそうですが、物おじしない性格で周囲から一目置かれる存在だったそうです。以後、様々なジャンルの作品に出演し、役者としてのキャリアを積んでいくことになります。

俳優活動

次に、夏木陽介さんの俳優活動を見ていきます。特に、「青春とはなんだ」などの代表的な作品について確認します。また、夏木陽介さんは後進の育成にも熱心であり、その点についても見ていきましょう。

青春ドラマのヒット

夏木さんが俳優としてキャリアを重ねる一方で、映画界が斜陽化の一途をたどり、俳優業への情熱が冷め、ビジネスへと関心が傾いていました。房総半島のレジャーランド計画(行川アイランド)に幹部待遇で迎え入れられて参画していました。 そんな夏木さんはテレビ映画「青春とはなんだ」への出演で大ブレイクを果たします。当初はオファーを固辞していましたが、スタッフの説得もあり、この主人公役を演じることになりました。東宝の助監督だった松森健さんが監督デビューすることになり、主人公の野々村健介役を渋々引き受けました。結果的には、この選択が夏木さんの将来を大きく変えることになります。 この作品は高視聴率を記録し、夏木さんの知名度を引き上げ、学園もののさきがけとなりました。これを契機に青春ものの作品に立て続けに出演し、その人気を不動のものにしました。 その後、1973年に俳優の三船敏郎さんから「力を貸して欲しい、俳優が必要なんだ」と誘われ、三船プロダクションに移り、活躍の場をテレビドラマへと移していくことになります。

「Gメン'75」、「ゴジラ」への出演

夏木さんは、人気刑事ドラマである「Gメン'75」にレギュラーとして長期間出演しました。この作品はプロデューサーの近藤照男さんに「力を貸してほしい」と請われての出演でした。このハードボイルドドラマには、そうそうたる面子が揃っており、夏木さんには「クールな男・夏木陽介」というキャッチフレーズがついていました。切れ者でありながら、熱い一面も持つ警視役を演じ、ドラマを盛り上げました。 しかし、結局はプロデューサーの近藤さんとの喧嘩によって降板しています。撮影の際、中華料理を食べに行った時に、夏木さんが先に会計を済ませたことで、近藤さんが怒りだし、口論になったそうです。その後、夏木さんが辞めると言い、降板のエピソード撮影の打診も拒否しました。このため、夏木さんは突然ドラマから姿を消してしまいました。何物にもおもねることのない、夏木さんらしいエピソードです。 また、夏木さんはゴジラ映画へも出演しています。「三大怪獣 地球最大の決戦」と「ゴジラ」(19 84年版)です。夏木さんはそれぞれ、刑事と博士を演じました。この2作は、いずれもゴジラ映画のターニングポイントになった作品でした。このような話題作に出演していることから、夏木さんの俳優としての人気がうかがえます。

後進の育成

夏木さんは1982年に三船プロダクションを退社し、個人事務所である夏木プロダクションで活動するようになります。そして、自身の活動の傍ら、賀来千香子さん、西村和彦さん、小沢仁志さんら、多数の後進を育てました。芸能界を支えていく後輩を育てることに尽力しました。 この後は、ラリー参戦の為、俳優としてのオファーを断ることが多くなっていきます。多くの情熱をカーレースへ注ぐようになります。

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生涯独身を貫いた

意外なことに、夏木さんは生涯結婚することは無く、独身を貫きました。女性よりも車に熱心と言われていたそうですが、かなりモテていたようです。結婚しない理由として、結婚して、自分と同じような性悪な息子が生まれたら困るという意味のことを語っています。 結婚生活よりもレースのような趣味などを重視したい考え方だったのかもしれませんね。独身であるがゆえに、身軽に様々な活動ができたのではないでしょうか。あのようなダンディーな俳優さんが独身というのも、もったいない気もしますが、それも一つの生き方ですね。

車と夏木陽介

次に、夏木陽介さんと車について見ていきます。無類の車好きで知られた夏木さんですが、それは趣味のレベルを超えていました。愛車遍歴とレースへの関わりを確認します。

愛車遍歴

まずは、夏木さんの華麗な車遍歴を紹介します。16歳でダットサン15型フェートンを愛車にした後は、22歳でMG-TD、24歳でジャガーXK120、その後はアルファロメオ、ベンツ、シボレー、ポルシェなど、様々な高級車を乗り継いでいます。以前は軽自動車が360ccだったことから16歳で軽自動車免許が取れました。免許が取れる年齢になってすぐに車を手に入れたことが分かりますね。当時のスーパーカーを中心に数百台は乗り換えていると語っています。また、かなりの台数の車をコレクションとして所持していました。筋金入りのクルマ好きと言えそうですね。 さらに、79歳でジャガーEタイプを愛車にしており、きちんと手入れをしてドライブを楽しんでいました。高齢になると、運転しやすい軽自動車等を選ぶことが多いですが、夏木さんのような渋いお年寄りが外車を乗りこなしているなんて、かっこいいですね。「女性には淡白、でも車は大事にしてた」とは、夏木さんを良く知る人の言葉です。

レーサーとしてパリダカに参加

夏木さんは次第に俳優業からは遠ざかり、ラリードライバーとして活動するようになります。1985年、49歳の時に自分のチームを結成してパリ・ダカール・ラリーに出場しました。翌年にもドライバーとして出場しています。 パリダカは「世界で一番過酷なモータースポーツ競技」として有名で、1日500㎞以上を20日間以上走り続ける大会です。夏木さんはこの大会に魅入られていたようで、「男の価値は踏んできた修羅場の数に比例する」と語っています。また、後年、夏木さんはパリダカについて、「あれを知ると、たいていのことは我慢できるようになる」とも言っています。

レースの監督としても活動

その後、1987年から1993年までは「チーム三菱・シチズン夏木」の監督を務め、篠塚建次郎さんや増岡浩さんらを出場させています。総合2位の好成績もおさめています。監督としても参加した事は、夏木さんの情熱の強さを表しており、この業界からの評価も得ています。 レースの現場を離れてからも、車のイベントに顔を出したり、車好きとして取り上げられたりと、自動車との縁が切れることはありませんでした。

晩年、そして死去

この項では、夏木陽介さんの晩年と最期を見ていきます。夏木さんは晩年をどのように過ごし、どのように亡くなったのでしょうか。夏木さんの死因についても確認します。

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晩年の過ごし方

夏木さんは2009年に軽度の脳梗塞が見つかり、入院して治療を受けました。翌年には、胆石の経過観察の検査で腎臓に腫瘍が見つかり、摘出手術を受けています。2014年に夏木プロダクションを解散し、翌年に「オフィス夏木」を作って活動していました。 晩年は自身のブログで近況報告をしており、手術のことも記載しています。病気と闘いながらも、前向きに活動していたようです。車のイベントにも参加し、「自分の生まれ年に製造されたクラシックカーでレースに参加したい」と語っていました。

最期と死因

夏木さんは2017年10月に肺炎で入院して、回復後のリハビリ中に倒れ、腎細胞がんが発覚し、再び入院しました。12月末に集中治療室へ移った際には意識がなかったそうです。2018年に入り、一般病棟に移ってからは、一進一退を続けましたが、1月14日に家族に看取られて亡くなりました。享年81歳でした。 2017年8月でブログの更新が止まっており、ファンは心配していました。最後の10年ほどは病気との付き合いが続いていました。夏木さん死去の報が流れ、またひとつの時代が終わったことを世間が実感したのではないでしょうか。

ブログで訃報を報告

夏木さんの訃報は本人のブログで発表されました。友人代表で作家の山川恵一さんが「夏木陽介氏が逝去されました」というタイトルで代筆しました。夏木さんが亡くなるまでの経緯を語っており、驚きと悲しみが伝わってきます。その語り口から、家族のような親密な関係であったことが分かります。 夏木さんと山川さんはクルマ仲間として親交が厚く、10月にはクルマ関係の仲間で集まったことも綴られています。また、このブログには多くの追悼のコメントが寄せられており、夏木さんの人気がうかがえます。

葬儀は家族のみの密葬で

この項では、夏木陽介さんの葬儀について確認します。葬儀は家族のみで密葬として行われました。また、後日行われたお別れ会についても確認します。

家族葬のようす

夏木さんの葬儀は近親者のみの密葬としてとりおこなわれました。喪主は弟の博さんが務め、家族葬の具体的な内容は公表されていません。親しい人々だけでしめやかに行われたと見られます。 夏木さんのような有名人の場合、家族葬にした方が、親しい人がしっかりと追悼することができるのかもしれません。少し寂しい気もしますが、後日お別れ会が開かれたので、そちらに多くの人が参列しました。 夏木さんの死去に際して、各界から追悼の言葉が寄せられました。直前まで元気な姿を見せていたので、驚きの言葉も見られました。やはり人気の高い、大きな存在だったことが分かります。親しかった俳優の原田大二郎さんは「兄貴として接してくれた」と人柄をたたえつつ、追悼しました。 また、事務所スタッフによると、俳優仲間であり2012年に亡くなった佐藤充さんの追悼本を出そうと、佐藤さんの息子さんと相談していたところだったといいます。まだまだ、仕事、趣味などにおいても、やり残しがあったのかもしれません。

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お別れ会のようす

2018年4月12日、「夏木陽介さんをみんなで送る会」が都内で行われました。司葉子さん、宝田明さん、中村雅俊さん、原田大二郎さん、藤田三保子さん、篠塚建次郎さんら、豪華なメンバーをはじめ、320人が集まりました。 東宝の先輩だった宝田明さんは「浮いた噂がなかったけど、(女優の)リンダ・ミラーさんといい仲だったと聞いてびっくりした。英語が上手い原因はそこにあった。」と親しみを込めて話し、笑いを誘いました。また、中村雅俊さんは「いつお会いしても生き方自体がカッコいいと思わせてくれた」と語っています。コメントの内容から、夏木さんの人柄がうかがえますね。この会の準備には、山川恵一さんが関わり、宝田さんらが発起人となり、東宝の協力のもと行われました。 会場には50点に及ぶ出演作のポスターや愛車のジャガーが展示されました。夏木さんの思い出話に花が咲き、終始明るい会になったようです。さらに、宝田明さんは「(天国で)先輩たちともう飲んでいるかもしれない。いい席を用意しておいてもらいたい。」と語りました。最後は「青春とは何だ」の劇中歌である「貴様と俺」の合唱で会を締めくくり、最後まで誰もが明るく、夏木さんを送り出しました。このような、お別れ会の雰囲気も夏木さんの人格を反映しているのかもしれませんね。

夏木陽介さんの旅立ち

俳優の夏木陽介さんの生涯と葬儀について調べてみました。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。俳優として多くの作品に出演して人々を魅了し、レースの世界でも活躍した夏木さんは旅立ちました。多くの人がその死を悲しみ、追悼しました。 夏木さんの活動は作品などの形で残り、それにふれる度、世間の人々は夏木さんを思い出すでしょう。また、特に同時代を生きた人にとっては、自身の思い出と当時の夏木さんの姿をシンクロさせて繰り返し思い浮かべるのではないでしょうか。時代を彩ったスターの旅立ちを胸に刻みたいものです。