赤木春恵さんの葬儀 |「渡鬼」共演の泉ピン子の葬儀欠席理由は?

公開日 : 2020/5/13

更新日 : 2020/9/10

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2018年11月、ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」で活躍した女優、赤木春恵さんが亡くなられました。「渡る世間は鬼ばかり」のメンバーが葬儀に駆け付けた中で、嫁役の泉ピン子はどうして欠席したのでしょうか。娘さんが生前から準備していた葬儀の内容についてもお話します。

公開日 : 2020/5/13

更新日 : 2020/9/10

目次

赤木春恵さんのプロフィール

「渡る世間は鬼ばかり」のしゅうとめ役で有名な赤木春恵さん。その意地悪な役とは裏腹に、誰にでも優しく、「ママ」、「お母さん」と慕われた素敵な女性でした。そんな赤木春恵さんの人生をご紹介します。

16歳で映画デビュー

赤木春恵さんは1924年(大正13年)3月24日に、3人兄弟の末っ子として満州で誕生しました。1933年に帰国した後、1940年に16歳で松竹にニューフェイスとして入社し、映画「二本松少年隊」で女優デビューしました。女優を志した背景には、助監督をしていた次兄の存在があったようです。

 

「心友」の森光子さんと出会ったのもこの頃です。兵隊の慰問団として活動中に出会った森光子さんは、すでに新興キネマのスターでした。終戦後再会した二人は、お互いを本名で呼び合い、支え合い励まし合う生涯の友となりました。赤木春恵さんは森光子さんを親友を超えた「心友」と呼び、森光子さんはその言葉を生涯大切にしていたとのことです。

20歳で満州へ渡る

1940(昭和20)年2月、戦火が激しくなる中、赤木春恵さんは満州で慰問劇団を主宰していた次兄を追って満州にわたります。しかしその直後に次兄が招集されてしまったため、慰問劇団の団長を務めることになりました。

 

戦争は半年後に終わりましたが、恐ろしい苦難の時代が待ち受けていました。同じ建物内にソ連の進駐軍の駐在地があり、晩に覗きに来ます。若い女性は暴行を受けると聞いていた赤木春恵さんは、皆で示し合わせて髪を白く染め、顔に泥を塗って老婆になり、やり過ごしたそうです。

 

1941年(昭和21)年、引き上げの直前に、赤木春恵さんは軍隊施設にいた次兄と再会します。次兄は衰弱しきっており、日本まで命が長らえるかの瀬戸際でした。赤木春恵さんは慰問劇をおこなうことを条件に、兄を引き取る許可を得ます。その際、不足していた衣装や道具をかき集めてくれたのが、当時16歳の藤山寛美さんでした。

 

慰問劇は成功し、赤木春恵さんは無事次兄を連れて帰国を果たします。次兄は家族に看取られながら息を引き取りました。赤木春恵さんは自著にて、「次兄の(演劇への)志と情熱は心の中で生き続けています」と語っています。

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23歳で結婚、32歳で出産

1947(昭和22)年に、赤木春恵さんは東映のプロデューサーをしていた栄井賢(本名:小田 賢五郎)さんと結婚し、9年後の1956(昭和31)年に長女の泉さんを出産します。赤木春恵さんは出産直前まで仕事を続け、出産して21日目で撮影所へ営業に出向きます。

 

授乳期には昼休みに自宅に帰り、赤ちゃんにお乳をあげていたそうで、「家が撮影所に近かったおかげ」と振り返っています。

 

夫・栄井賢さんは赤木春恵さんの演劇に対する情熱を理解し、生涯応援していました。自身が癌になった際も、赤木春恵さんを気遣い、「俺のことより仕事に打ち込んでくれた方が落ち着く」と言って仕事に送り出してくれたそうです。赤木春恵さんは自著で「(夫は)一番身近な応援者」であったと述べています。

35歳で森繁劇団に所属

1959(昭和34)年、赤木春恵さんは森繁久彌さんに、「森繁劇団(当時は自由劇団)」への出演を要請されます。娘さんが小さいこともあり一度は断ろうとした赤木春恵さんですが、森繁久彌さんの熱意や演劇への視点に感銘を受け、当時所属していた東映を辞めて京都から東京に引っ越し、森繁劇団に入りました。

 

そこから女優としての仕事が広がり、「3年B組金八先生」や「渡る世間は鬼ばかり」への出演へとつながっていきます。

56歳で「渡る世間は鬼ばかり」に出演

1990(平成2)年10月、「渡る世間は鬼ばかり」がスタートしました。赤木春恵は次女・五月のしゅうとめである小島キミ役を演じ、イビリ役が評判を呼びました。しかし本人は、最初は自分とは正反対の性格であるきつい性格のしゅうとめを演じることに抵抗があったそうです。

 

赤木春恵さんは嫁イビリをするしゅうとめは厳しい時代を生き抜いた人々の価値観や想いを代弁する存在と考え、できるだけさわやかに、愛嬌のあるように演じました。厳しい中にもどこか愛らしく憎めない部分が垣間見えるからこそ、小島キミという人物像がより人間味豊かに、親しみやすく感じられたのかもしれません。

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88歳で映画初主演、ギネスにも登録

2013(平成25)年、赤木春恵さんは映画出演134本目にして初の主役を演じました。それが「ペコロスの母に会いに行く」の母親、みつえさんの役です。撮影時、赤木春恵さんは88歳で、「世界最高齢での映画初出演女優」としてギネスに登録されました。

 

当時、すでに普段から移動は車椅子で補聴器をつけていましたが、そのままの状態で役を演じ切り、話題を呼びました。同年に第68回毎日映画コンクールで女優主演賞受賞を果たしました。

94歳で死去

兼ねてより足に不自由を抱えていた赤木春恵さんは、2015年(平成27)年に自宅で転倒して骨折、車椅子が手放せない生活になりました。それでも「ナレーションや朗読劇などは問題ない」、「95歳まで女優でいることが目標」と語り、演劇への情熱を抱き続けていました。しかし2018(平成30)年11月29日、心不全のため94歳で亡くなりました。

赤木春恵さんの葬儀の内容は?参列者は誰?

94歳まで女優としての熱意を持ち続け、周りの人への心遣いを忘れずに生きてきた赤木春恵さん。そんな赤木春恵さんの葬儀はどのようなもので、どんな人が参列したのでしょうか。

娘さんが生前から準備していた心のこもった葬儀

赤木春恵さんの娘である泉さんは、春恵さんが90歳で骨折してから、いつか訪れるお別れについて考えるようになりました。有名女優である春恵さんの葬儀には多数のマスコミが押し寄せることが予想されました。泉さんには、祭壇や返礼品の他、そういったマスコミ対応のことも考えていく必要がありました。

 

「生前から母の葬儀について考えるなんて縁起でもない」という気持ちを抱きつつも、泉さんは段々と春恵さんの葬儀について考えるようになっていきました。春恵さんは葬儀について希望を述べなかったため、泉さんが「母ならどうするだろうか」と考えながら、少しずつイメージを固めていったようです。

 

春恵さんが亡くなられる3か月前からそのイメージを周囲に伝え始め、葬儀社の決定をした他、遺影の準備、祭壇で使う花の種類、お寺とのやり取り、役割分担などを決められたそうです。

 

葬儀の返礼品に、葬儀の返礼品らしくない包装のクッキーを選んだのも、心遣いを大切にしていた春恵さんの想いを汲んでのことでした。娘・泉さんが生前からゆっくりと考えていたからこそ、春恵さんらしい形式ばらない温かな式ができたのです。

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祭壇は赤木春恵さんが大好きなトルコキキョウであふれていた

葬儀の祭壇には赤木春恵さんが大好きだったトルコキキョウがふんだんに使われていました。トルコキキョウはフリルのような薄い花びらが特徴の花です。花言葉は「すがすがしい美しさ」。その柔らかな気品は、何歳になっても新しい演技に挑戦し続けた赤木春恵さんの芯の強さを思い起こさせます。

 

他には胡蝶蘭、カスミソウ、野菊、カーネーションなどが使われ、白とピンクを基調としたシンプルで温かな雰囲気でした。まさに「春」らしい、そして「ママ」と呼ばれ誰からも愛された赤木春恵さんにふさわしい祭壇と言えます。

葬儀に参列した有名人は?参列しなかった人もいる?

90歳を過ぎても現役の女優として活躍していた赤木春恵さんは、多くの著名人に「ママ」と慕われていました。葬儀にもたくさんの人が駆け付けましたが、中には長年の交流を持ちながら葬儀に不参加だった人もいました。赤木春恵さんの葬儀に参列した人、参列しなかった人についてお話します。

石井ふく子が弔事を述べた

赤木春恵さんの葬儀で葬儀委員長を務めたのはプロデューサーの石井ふく子さんでした。石井さんは「渡る世間は鬼ばかり」のプロデュースを手掛け、脚本を書いた橋田寿賀子さんや出演者とも深い親交がありました。赤木春恵さんは自著の中で石井さんのことを「公私ともに信頼する」人だと述べています。

 

自身も90歳を超える高齢ながら葬儀委員長を務めた石井さんは、弔事で「ママ(赤木さん)にお世話になりました。明るい笑顔を一生忘れません」と述べ、別れを惜しみました。

橋田寿賀子はショックで参列できず、弔事は代読

「渡る世間は鬼ばかり」の脚本家として出演者の赤木春恵さんと交流のあった橋田寿賀子さんは、当時93歳という年齢もあり、ショックのために葬儀に参列することができませんでした。そのため、弔事は石井ふく子さんが代読しました。

 

橋田寿賀子さんは「ビックリしました。一人になって思い切り泣いてしまいました。私のホームドラマには欠かせない人で、どれだけ頼りにしていたか。明るい笑顔が脳裏から消えません」、「今頃、森光子さんと楽しい再会の時を過ごされているのではないでしょうか」と弔辞を送り、哀悼の意を示しました。

泉ピン子が参列しなかったのは不仲だから?

「渡る世間は鬼ばかり」では、赤木春恵さん演じる姑にいびられる嫁役だった泉ピン子さんは、葬儀に参列しませんでした。そのため、赤木春恵と泉ピン子は不仲だったという噂が立ちました。

 

しかし実際は、泉ピン子さんは葬儀の際ハワイにおり、参列することができなかったということです。赤木春恵さんは泉ピン子さんと舞台で共演する際、泉ピン子さんの家から劇場に通うなど、深い交流がありました。不仲説が流れたのは、それだけ二人の演技に真実味があったからだとも言えます。

その他参列した主な芸能人

他には角野卓造さん、大和田獏さん、中村玉緒さん、佐久間良子さん、里見浩太朗さん、大空眞弓さん、えなりかずきさん等が参列しました。

 

「渡る世間は鬼ばかり」に子役時代から出演し、「おばあちゃん」である赤木春恵にかわいがられていたえなりさんは悲しみのあまり号泣してしまうほどでした。

赤木春恵さんの葬儀は温かなものだった

激動の時代を生き抜き、女優としての情熱と優しさを持ち続けた赤木春恵さん。その葬儀には美しい花が飾られ、おいしいお菓子が配られ、たくさんの人が弔問に駆け付けて感謝と悲しみの気持ちを語りました。

 

その暖かさは、赤木春恵さんの人生そのもののようにも感じられます。優しさと厳しさを兼ね備えたその演技は、これからも私たちの心を揺さぶり続けることでしょう。