栗城史多さんの葬儀|無謀な挑戦者と呼ばれた登山家の最後

公開日 : 2020/5/29

更新日 : 2020/9/10

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エベレスト登山に失敗し下山中に滑落死した登山家、栗城史多さん(享年35歳)。登山家としてどのような最後を迎えることになったのか。栗城史多さんのご遺族の意向により親族のみで行われた葬儀、葬儀に参加できないファンのために行われたお別れ会の様子を紹介します。

公開日 : 2020/5/29

更新日 : 2020/9/10

目次

栗城史多さんのプロフィール

栗城史多さんは2018年5月21日に35歳という若さで亡くなりました。エベレスト登山に幾度となく挑戦し、成功しないまま最後は滑落死という形で人生の幕を閉じたことになります。 登山家として賛否両論あった栗城史多さんですが、エベレスト登山にかける気持ちは間違いなく本物でその気持ちを否定する人はいないでしょう。 栗城史多さんは登山家でもありましたが、起業家でもあり株式会社たお(個人事務所)の代表取締役でもありました。 「冒険の共有」をテーマに1年の半分を講演会に当てたり、よしもとクリエイティブ・エージェンシーと業務提携を結ぶなど、資金を集めることができる登山家としても知られています。 栗城史多さんは登山家として見事に最後までポリシーを貫き通したといえるでしょう。無謀とも呼ばれた挑戦をし続けた彼が、どのような人生を送ったのかをここでは振り返ります。

来歴

1982年 北海道瀬棚郡今金町に生まれる。 2004年 マッキンリー登頂。これが初の海外旅行。 2007年 日本テレビにて動画配信。世界6大陸最高峰登山を成功させる。 2010年 エベレスト登山に2度目の挑戦をして失敗。登山とインターネットを結んだことを評価され、ファウスト賞を受賞。 2011年 エベレスト登山に3度目の挑戦をして失敗。株式会社たおの代表取締役として、よしもとクリエイティブ・エージェンシーと業務提携。 2012年 エベレスト登山に4度目の挑戦をして失敗。この登頂の際に指を凍傷。 2013年 凍傷により指9本を切断。 2014年 エベレストと同じ8,000m級のブロード・ピークに登頂成功。 2015年 エベレスト登山に5度目の挑戦をして失敗。 2016年 エベレスト登山に6度目の挑戦をして失敗。 2017年 エベレスト登山に7度目の挑戦をして失敗。 2018年 エベレスト登山に8度目の挑戦したが、体調不良で下山中に滑落死する。

ニートのアルピニスト

2007年に栗城史多さんのチョ・オユーを登頂の様子が、第2日本テレビというインターネットの番組で動画配信され栗城史多さんは全国デビューを果たします。 日本テレビのプロデューサー土屋敏男さんによって、この企画のタイトルが「ニートのアルピニスト、初めてのヒマラヤ」とつけられ、この企画によって栗城史多さんの知名度が一気にあがることになります。 このタイトルで名前が売れたので、栗城史多さんは「元ニート」「元ひきこもり」と自称するようになったのですが、あくまでキャラクターですので実際にはニートでも引きこもりでもありません。

こだわりとバッシング

栗城史多さんは「日本人初となる世界7大陸最高峰の単独無酸素登頂に挑戦している」とマスコミ向けに発信していました。 栗城史多さんの登山家としての実力に伴っていないこの「単独無酸素」へのこだわりから、彼は亡くなるときまで同業者であるプロの登山家たちに批判されることになります。

世界6大陸最高峰登山

栗城史多さんは、エベレスト以外の6大陸最高峰登山を約3年半で制覇しています。 2004年にマッキンリー、2005年にはアコンカグア、エルブルース、キリマンジャロ、2006年にはカルステンツ・ピラミッド、2007年にビンソンマシフと順調に登頂していきました。 しかし、残りのエビレスト登頂にはここから8度挑むことになります。

栗城史多さんの死因

栗城史多さんがエベレストで滑落死したことは紛れもない事実です。しかし、栗城史多さんが亡くなったことは事故死という一言で片付けてもよいのでしょうか。ここでは、栗城史多さんがどのような思いでエベレストに挑み亡くなってしまったのかをみていきます。

支持者に追い詰められた

登山には多くの資金が必要になります。栗城史多さんは、その資金を集めるために「単独無酸素」という厳しい条件を発信したのではないかと言われています。 「日本人初となる世界7大陸最高峰の単独無酸素登頂」という栗城史多さんの大きな夢に、支持者は資金を提供していたということです。 しかし、プロの登山家からみたときの栗城史多さんにはエベレスト登山に挑戦するほどの実力は無かったのです。 支持者の中にはその現実を知った上で夢に投資をする感覚で資金提供していた方もおり、資金提供をされているからには栗城史多さんは意地でも結果を求めていくことになってしまいました。 これは、支持者が栗城史多さんを追い詰めたといえるのではないでしょうか。エベレスト登山に対する必要以上のプレッシャーを与えた結果、彼を意地にさせ無理することによって死に繋がったのです。

批判者にも追い詰められていた

栗城史多さんは実力に見合わないビッグマウスでファンを増やしてきたり資金を調達していたことから、他の登山家からは常に批判の対象となっていました。 特に登山家の服部文祥さんからはテレビ番組で、マラソンに例えて「彼はプロランナーではなく市民ランナー」と呼ばれたり、登山家としては3.5流と罵られることになります。 これに対して栗城史多さん自身もTwitterで「そもそも比べることが間違っています。自分自身と向き合う登山の世界で1位も2位もない。」と反論しています。 テレビ番組での批判は、不特定多数の人にも届くことになりますのでおそらく栗城史多さんはこの件をきっかけに周囲の人にも批判され始めたのではないでしょうか。 批判者の発言によって追い詰められ無謀な挑戦だとしても拘る必要が出てしまい、栗城史多さんは命を落としてしまったともいえるでしょう。

無謀なエベレスト登山

栗城史多さんが亡くなることになった8度目のエベレスト登山のとき、彼は体調が万全ではありませんでした。ただでさえ凍傷して9本の指がないわけですから、どれだけ無謀な挑戦だったのかが分かると思います。 さらにその状態でエベレスト最難関といわれる南西壁ルートを彼は選び、その上、単独無酸素という条件まであるわけですから命を落としたことは不思議ではありません。 無理をした結果、滑落し全身を強打して命を落とすことになってしまいました。これは栗城史多さんの無謀な性格が彼自身の死因に繋がったといえるでしょう。

栗城史多さんの葬儀・お別れ会

栗城史多さんの遺体はヘリコプターでエベレストから運び出され、生まれ育った北海道へと移動することになりました。ここでは北海道での葬儀がどのように行われたのかをみていきます。

公式の発表

2018年5月25日、亡くなった4日後に栗城史多さん自身のブログで、死因が滑落による全身強打であること、その滑落による大きな損傷が無かったこと、そして葬儀のことについて発表されました。 「北海道の自然の中で親族のみで静かに見送りたい。」というご遺族の意向により、親族のみで葬儀と火葬を行う予定であることも発表されました。 知名度がありファンが多かったこともあり、葬儀についての問い合わせも凄く多かったようです。

ファンのためのお別れ会も

いくらファンが多くてもご遺族の意向が最優先ですので、ファンの人は葬儀にはもちろん参加はできません。しかし後日、ファンの人も参加できるお別れ会が、株式会社たおが発起人となって行われました。 お別れ会は全部で2回行われて、まずは、2018年6月17日にホテルポールスター札幌にて開催されました。当日は約500人の方が訪れたそうです。 次に、栗城史多さんが今金ふるさと応援大使でもあったため2018年6月24日(日)生まれ育った今金の「東部ふれあいセンター」でもお別れ会が開催されました。 会場ではそれぞれ、栗城史多さんのビデオが流れたり、パネルや登山用品の展示がされていました。

親しい登山家も

お別れ会には、地元の町長さんや栗城史多さんと同じ登山チームのメンバーも参加しており、同じ登山家でもある野口健さんからは会場に花が送られてきていました。 野口健さんと栗城史多さんは対談をしたこともある仲で、亡くなったことに対して野口健さんは後日、産経新聞の記事の中で「一つぐらい諦めても良かったのに。」と彼の無謀な性格を嘆いていました。

無謀な挑戦は人を惹き付ける

プロの登山家からみたときの栗城史多さんは、無謀なことをする実力の伴わない命知らずの登山家に思えるのは当然かもしれません。そこにはプロとして腹が立つ気持ちもきっとあったでしょう。 しかし、栗城史多さんがプロの登山家の中でも注目されることが多かったのは、その無謀だと思えることに何度も諦めずに立ち向かう姿に人が魅力を感じていたからでしょう。 お別れ会を開催して500人もの人を集める登山家がどれだけいるでしょうか。集まった人は栗城史多さんの実力の高さで集まった訳ではありません。無謀な挑戦をし続けたそのエベレスト登山に対する熱意に魅力を感じた人が集まったのです。 栗城史多さんの数々の無茶な行動は、自分の無謀な挑戦が他人を惹き付けるということを誰よりも理解していただけなのかもしれません。 栗城史多さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。