小島武夫さんの葬儀 |麻雀界に光を当てた小島武夫さんの最後とは
公開日 : 2020/5/10
更新日 : 2020/9/9
麻雀界を常に引っ張ってきた伝説のミスター麻雀こと小島武夫さん。2018年5月28日に心不全のため逝去され、葬儀には一般ファンも参列しました。多くの人に愛された小島武夫さんは、どの様な最後を迎えたのでしょうか?ここでは小島武夫さんの最後や葬儀について解説します。
公開日 : 2020/5/10
更新日 : 2020/9/9
目次
小島武夫さんのプロフィール
麻雀が好きな人なら、小島武夫さんの存在を知っているでしょう。ここでは数々の伝説を残してきた、小島武夫さんの最後について解説する前に、詳しいプロフィールについて紹介をしていきます。
小島武夫さん19歳で雀荘で住み込みで働く
中学3年生のときに近所の年上の仲間から麻雀を教わった小島武夫さん。その時代から大物手を狙う打ち筋で、魅せる麻雀のスタイルを築き上げていきました。
中学卒業後にパン屋で努めますが、パン屋の仕事だけでは飽き足りずに雀荘通いを始めました。仕事の終わりに札束をありったけポケットに詰め込んで、雀荘へ向かっていたそうです。
そんな生活がしばらく続いたが、19歳でパン屋を辞め、博多の雀荘で住み込みでメンバーとして働き始めます。正午から出勤して12時間打ちっぱなしの生活を送っていたそうです一・二年もしないうちに、お店のエースにまで昇格し客のズルを暴いて追い払ったという逸話もあります。
小島武夫さん27歳で上京して麻雀タレントになる
小島武夫さんが26歳のときに、一緒に暮らしていた女性との間に子供が出来て結婚をします。しかし家庭に縛られたくないという理由で、奥さんと2人の子供を福岡に残して、浮気相手と東京に駆け落ちをしてしまいます。
上京した後は、神田にあった雀荘「アイウエオ」でボーイとして働きます。福岡時代とは違って、打ち子を兼ねたメンバーではなかったため、飲食物の注文を受けたり、卓のトラブルに対応する仕事をしていたそうです。
1967年に「東京杯王位戦」に出場をして見事優勝します。ここで賭け麻雀ではなく、競技麻雀の世界に入りました。さらには「アイウエオ」の常連客からの紹介で、麻雀雑誌のゴーストライターの仕事を引き受けたり、当時人気があったテレビ番組「11PM」の出演依頼を引き受けます。
11PMの出演で小島武夫の名前はさらに売れて1968年から1975年まで出演をしていました。この際に、有名な技である「つばめ返し」も披露しています。このつばめ返しという技は、阿佐田哲也さんの代表的な作品でもある「麻雀放浪記」で紹介されたもので、積み込みをしておいた配牌と自分の手配をそっくり入れ替えることでテンパイにすることができる超難関の技です。
当時、その技を実際にできる人はいないと思っている人が多かったのですが小島武夫さんが実践して大変注目を浴びました。
小島武夫さん32歳で阿佐田哲也と運命的な出会いをする
11PMに出演をして麻雀タレントとして売れていたころ、雀荘「アイウエオ」に小説家・阿佐田哲也さんと出会いました。この出会いがきっかけとなり小島武夫さんの人生は大きく変わっていきます。
当時に行われた麻雀名人位という大会が開催したときに、麻雀評論家という肩書を持っていた小島武夫さんも出場しました。しかし優勝は逃しましたが、阿佐田哲也さんから「麻雀新選組」の結成を誘われます。
この結成を機に「週刊プレイボーイ」「週刊大衆」などの雑誌と麻雀企画をしたり、「11PM」などのメディアにも出演。第二次麻雀ブームとして盛り上がり、麻雀タレントとして人気だった小島武夫さんは「麻雀プロ第一号」と呼ばれ始めました。
小島武夫さん36歳で日本プロ麻雀連盟設立
1974年に麻雀新選組は解散しましたが、1981年に「日本プロ麻雀連盟」を立ち上げ、初代会長に就任しました。もともと小島武夫さんの中で麻雀のプロ団体設立という構想はあったのですが、世間からの風当たりは強いかったそうです。
というのも日本プロ麻雀連盟の設立前である1980年に「最高位戦」という麻雀大会の決勝戦で八百長疑惑が起こってしまい、運営者側の「近代麻雀」と当事者の灘麻太郎と荒正義の間で対立がありました。
そのとき小島武夫さんは、当事者がに立ったため麻雀界が二分するほどの騒動に発展したという背景がありました。そのため日本プロ麻雀連盟を設立したときは、批判が殺到したそうです。
小島武夫さんの伝説・名言とは
小島武夫さんの麻雀は、周りを虜にする魅力の溢れる打ち方でした。長年麻雀を打っていくなかで、さまざまな伝説や名言があり小島武夫さんの心情があふれています。ここでは小島武夫さんの伝説や名言を、詳しく紹介していきます。
小島武夫さんの伝説の役満九蓮宝燈
小島武夫さんの一番有名な伝説といえば、2009年の第3回モンド名人戦でしょう。トップと7900点差の2着でオーラスの場、親の小島さんはわずか8巡目で九蓮宝燈をツモであがりました。
この九蓮宝燈は作る難易度の高さから、アガると死んでしまうと言われるほどにレアな役です。解説や実況をしていたプロたちからも「そんなことがあるなんて」「劇画の世界じゃないか」と驚きの声が上がりました。
実際の映像は、YouTubeでも見ることができます。7900点差ならポンやチーをして清一色にすれば逆転できるところを、あえて面前で作り上げるところはミスター麻雀らしい打ち回しです。
また小島武夫さんは生き方そのものが伝説で、とにかく破天荒。「俺の人生は酒と女と博打がすべてだった。若いころから今まで、それ以外のことは全く興味がなかった」と言い切るほどでした。
麻雀大会で優勝したときは優勝賞金100万円を一晩で使い果たすこともしばしばで、宵越しの金は持たぬという言葉がしっくりくる人でもあったそうです。
小島武夫さんの名言
小島武夫さんの博徒人生は長く、本人もさまざまな考えや美学をもって麻雀と向かい合っていました。これらの考え方は多くの若者にも支持されファンを獲得していきます。
「進み続けるものは負け、退くものは勝つ。」
これはツイていると感じたら流れに勝負を任せ、ツキが落ちていると感じたら、徹底して勝負を避け守りに徹するという意味の小島武夫さんの言葉です。
自分のツキが上がるまで、じっと我慢する。そうすると負けている場面から挽回するチャンスが巡ってくることを小島武夫さんは知っているんです。またツキが落ち目のときに進むと、挽回のチャンスは巡ってこないという意味でもあります。生涯を博打に賭けてきたからこそ言える名言といえますね。
また小島武夫さんは、「博打にロマンなどない。しかし、美学がある」という言葉を発し、言葉通りに魅せる麻雀を信条としていました。その美学とは「プロであるなら、ファンに感動を与えなければいけない」というものであり、つまらない和了は見せないという考えでした。ファンは、そんな小島武夫さんの麻雀美学に痺れました。
小島武夫さんの葬儀について
小島武夫さんの訃報は日本プロ麻雀連盟が5月31日午後、公式ツイッターで発表しました。当日は一般ファンの参列も受け付けると報告しました。ここではミスター麻雀の葬儀がどのような最後であったかを解説いたします。
小島武夫さんの死因は心不全
麻雀ファンから「ミスター麻雀」「小島先生」などと呼ばれて親しまれた小島武夫さんは、2018年5月28日、都内の病院で亡くなりました。死因は心不全でした。小島武夫さんは55歳から糖尿病により治療を続けておりました。
連盟の関係者によると、長年患っていた糖尿病などの影響で約2か月前から体調が悪化し、小島武夫さんは1人暮らしだったことから連盟に勧められて入院生活をしていたそうです。糖尿病が心不全の原因となったかは不明ですが、糖尿病を患っている方は合併症を引き起こすリスクが高いと言われています。
小島武夫さんの葬儀は東京都品川区にて
2018年5月28日、小島武夫さんは亡くなりました。小島武夫さんの葬儀は、連盟葬として日本プロ麻雀連盟葬にて執り行われることとなりました。日程は、通夜が2018年6月8日(金)午後6時からでした。
告別式は6月9日(土)午前9時30分から行われました。場所は東京都品川区にある桐ケ谷斎場でした。また、小島武夫さんの葬儀の葬儀委員長は、日本プロ麻雀連盟会長の森山茂和氏でした。
小島武夫さんの葬儀には大勢のファンが参列
5月31日に公式ツイッターで訃報があり、ネットでは驚きと悲しみが広がりました。連盟は、通夜・告別式では「多くのファンの方に愛されたので」と一般の参列も受け付けると公式Twitterで公開しました。葬儀には漫画家の片山まさゆきさんなどの業界関係者、ファンも合わせ約350人が参列しました。
法名は「無双院釋天武居氏」と付けられ、役満の「国士無双」にちなんだとみられます。弔辞は同連盟の名誉会長でもある灘麻太郎氏が務めて、「40年近く、ガキのけんかみたいな麻雀をたくさん行って、楽しかったなぁ」と語りかけました。
小島武夫記念碑建立プロジェクトが始動
亡くなった小島武夫さんと兄弟のような関係でもあった、阿佐田哲也さんの碑が伏見稲荷山に建立されています。じつはその隣に小島武夫さんの碑を建立することが、日本プロ麻雀連盟で決定されました。
記念碑を建立するにあたって、クラウドファンディングで沢山の方から支援を受け付けました。第1期と第2期に分けて申し込みを募り、石碑建立に向けていました。支援額に応じて返礼品も準備したようですね。
しかし2020年4月中着工予定であった記念碑の建立工事ですが、昨今の新型コロナウイルスの影響により中国より輸入予定であった記念碑素材の確保が困難になったため延期となりました。
着工開始時期は情勢が落ち着き次第改めて告知・発表するとのことです。非常に残念ですが、記念碑ができるまではしばし待つことにしましょう。
小島武夫さんは自分の信念を最後まで貫いた
この記事ではミスター麻雀こと小島武夫さんの生涯と葬儀について詳しく紹介いたしました。博打一筋だった小島武夫さんだったからこそ、葬儀の準備もしなかったのではないでしょうか。
自分の信念を最後まで貫き周りからも愛され続けていたからこそ、最後には立派な葬儀を挙げることができたのかもしれませんね。
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