宮川典子さんの葬儀 | 40歳で乳がんのため亡くなった女性政治家

公開日 : 2020/6/22

更新日 : 2020/9/8

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教師から政治家に転身し、自由民主党で活躍した衆議院議員の宮川典子さん。しかし不幸にも乳がんになり、40歳という若さで亡くなりました。ここでは多くの人から慕われ、その死を惜しまれた宮川さんの功績と、その最期をお伝えします。

公開日 : 2020/6/22

更新日 : 2020/9/8

目次

宮川典子さんのプロフィール

教師から政治家に転身し、教育改革や女性の社会進出のために戦いながら、若くして亡くなった宮川典子さん。その死の様子を知る前に、まず宮川さんの経歴を押さえておきましょう。

慶応大卒業後、教師から政治家に転身

宮川典子さんは1979年4月5日に山梨県山梨市で生まれました。宮川さんの家は製糸業を営んでいました。宮川さんは10歳の時に父を病気で亡くしています。宮川さんは山梨学院大学附属高等学校を卒業後、慶應義塾大学に入学し、2002年に文学部人間関係学科を卒業しました。

 

その後は母校の山梨学院大学附属校で英語教師を5年務めています。この間に生徒を2人自殺で失うという痛ましい事件がありました。その時の「自ら命を絶つ子供たちをなくしたい」という思いが、宮川さんが政治家を志すきっかけになったということです。

 

宮川さんは2007年に教職を辞めて松下政経塾へ入塾しました。そして自民党山梨県参議院選挙区第2支部長を務め、2010年の参議院の選挙に山梨から自民党公認で出馬しましたが、民主党現職の輿石東さんに3,700票差で敗れました。

衆院選挙で3回当選して実績を積み上げる

その後宮川典子さんは自民党山梨県第1選挙区支部長を務め、2012年の衆議院議員総選挙に山梨1区で立候補し、日本維新の会の小沢鋭仁さんを破って初当選しました。そして消費税率引き上げの先送りにからんで衆議院が解散し、2014年にまた衆院選が行われます。

 

この選挙の山梨1区で宮川さんは民主党公認の中島克仁さんに敗れてしまいますが、比例復活で再選されました。そして2017年に安倍政権の内閣改造で宮川さんは、文部科学大臣政務官に任命されます。

 

2017年10月の衆院選では宮川さんは比例南関東ブロックで出馬し、3回目の当選を果たします。こうして宮川さんは着実に議員としての実績をあげました。宮川さんを地元の山梨県知事にという声もありましたが、宮川さんは国政で頑張りたいとコメントして断っています。

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日本の教育改革のために戦った宮川典子さん

宮川典子さんは最初に出た参院選で輿石東さんに敗れました。輿石東さんは元山梨県教職員組合執行委員長で、教育委員の力を駆使した組織力に敗北したのです。ここから宮川さんの教育改革のための戦いが始まったと言えます。

 

文部科学政務官などに就いて、歴史教育の修正、教員の待遇改善、いじめ撲滅などの教育改革のために活動しました。宮川さんが教員時代に教え子が2人自殺していますが、2人とも日本は努力しても報われない社会だという趣旨の遺書を残しています。

 

宮川さんはその遺書を国会の質疑で何度も紹介し、日本の教育改革の必要性を訴えたのです。宮川さんの短い人生は元教師の政治家として、日本の教育を正すために奉げられたといえるでしょう。

乳がんと戦い、力尽きた宮川典子さん

国政で活躍していた宮川典子さんですが、病魔により40年という短い生涯を閉じてしまいます。亡くなるまでの数年間の闘病生活はどのような様子だったのでしょうか。

乳がんであることを周囲に隠し通した宮川典子さん

宮川典子さんは亡くなる3年前の2016年頃に乳がんが見つかったようです。しかし、周囲にはそれを全く知らせずに政治活動を続けていました。政治家にとって健康問題は致命的であり、日本をより良くしたいという宮川さんの活動の妨げになってしまうからでしょう。

 

同じ自民党の女性政治家として宮川さんと親しかった参議院議員の三原じゅん子さんによると、盟友であるはずの三原さんにすら、宮川さんは自分が乳がんであることを打ち明けなかったそうです。

 

三原さんは自民党女性局の局長で、宮川さんは局長代理でした。男女の不平等の是正や児童虐待、リベンジポルノ、そして乳がんや子宮頸がんといった女性に特有の病気の検診の促進のために、二人三脚で活動してきた関係でした。その三原さんにも、宮川さんは自分が乳がんであることを伝えなかったのです。

宮川典子さんの気遣いを大切にしていた三原じゅん子さん

宮川典子さんは三原じゅん子さんに乳がんであることを伝えなかったものの、三原さん自身も子宮頸がんの経験があることから、宮川さんの異変には気づいていました。宮川さんの行動や痩せて行く様子から、がんの薬を使用しているように感じていたそうです。

 

ただし、宮川さんが三原さんに病気のことを教えない事は何か理由があると思い、いつか教えてくれるだろうと待ち続けていたとのことです。しかし最後まで乳がんであることを教えてもらえなかったのです。宮川さんは三原さんもがんサバイバーなので、気を使って言わなかったのではないかと推測しています。

 

三原さんは多くの女性政治家を見てきて、宮川さんほど正義感が強く、情熱的で、まっすぐな人はいないと感じていたそうです。ただその分、全てを一人で背負いこむ印象があったので、病気の事を周囲に言えなかったのではないかと思っているそうです。

宮川典子さんのお別れの会には3500人もの人が集まった

自由民主党の女性政治家として活躍しながら、若干40歳にして志半ばで倒れた宮川典子さん。その宮川さんの葬儀はどのようなものだったのでしょうか。皆に慕われていた宮川さんに相応しく、とても多くの方がお別れに訪れたのです。

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宮川典子さんの葬儀は親族のみで営われた

宮川典子さんは2019年9月12日に、都内の病院で乳がんのために亡くなりました。葬儀は親族のみで行われたとのことです。喪主は弟の啓一郎さんでした。

 

ただし、衆議院議員を3期務めた宮川さんのお別れがそれだけで終わることはありません。自民党により「故宮川典子氏のお別れの会」が9月29日の午後1時から行われました。場所は山梨県昭和町のアピオセレモニーホール甲府です。

 

お別れの会を執り行った実行委員長は、あの麻生太郎副総理兼財務相です。自民党における宮川さんの存在の大きさが伺えます。

お別れの会には大物政治家や多くの支持者たちが集まった

宮川典子さんのお別れの会の会場には、大きな祭壇が設置されました。宮川さんの遺影が中央に飾られ、周囲はたくさんのヒマワリの花で埋められました。宮川さんはいつも黄色のスーツを着ていたので、宮川さんの好きな黄色いヒマワリが祭壇に使用されたのです。

 

実行委員長の麻生太郎副総理は弔辞で、宮川さんが乳がんに侵されていることを周囲にも伝えずに、教育改革、児童虐待防止、女性の地位向上といった課題に力を注いできた実績を讃えました。そして真の保守政治家を失い、誠に痛切の極みであると宮川さんの死を悼みました。

 

お別れの会には大島理森衆院議長、小泉進次郎環境相、長崎幸太郎山梨県知事も参列するなど、多くの大物政治家が出席しました。さらにかつて参院選で宮川さんと争った輿石東元参院副議長も来場しています。

一人で悩んでいた宮川典子さん

お別れの会で三原じゅん子さんは、今でも最後に宮川典子さんと話したことをはっきり覚えていると語りました。宮川さんは三原さんに、女性の化粧室にあるステッカーを貼ることを提案しました。それは一人で悩んでいませんか、というがん検診を促進する内容だったのです。

 

後に三原さんは、一人で悩んでいたのは実は宮川さんだったことにショックを受けて、とても残念に感じたということです。そして政治家・宮川典子の意志を継いでこれからも全力で課題に取り組むことを約束すると、宮川さんに誓いました。

 

しかし宮川さんにお別れをしたのは自民党議員だけではありません。宮川さんを慕う山梨県民の方々も宮川さんにお別れしました。その数は、総勢3,500人にも達したのです。

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3500人もの方々が宮川典子さんにお別れをした

宮川典子さんを慕う一般参加の方々は3,500人にも達し、全員が宮川さんの祭壇に献花をしました。お別れの会は午後1時から始まりましたが、最後尾の方が献花できたのは午後3時半だったそうです。

 

お別れの会にこれほどの多くの人が来るのは異例のことです。政権与党の自民党の現職の議員であったこともその要因ですが、宮川さんの人柄が多くの人たちに慕われていたことの証であるのは間違いないでしょう。

新聞記者にも気遣いをした宮川典子さん

産経新聞で「希少がんと共に生きる」という連載記事を執筆している小腸がんの記者が、宮川典子さんを惜しむ言葉を残しています。宮川さんと面識のなかった産経の記者が自民党本部で宮川さんに、「いつも読んでますよ、頑張ってください」と声をかけられたそうです。

 

産経記者はその時は、がん治療のために仕事を辛く感じていた時期だったので、とても嬉しく感じたそうです。その後、すれ違うたびに宮川さんに「元気ですか」と声をかけてもらえたそうです。

 

しかしその時期にはすでに宮川さんもがんにかかっていたのです。自身のがんの辛さを隠して、他のがん患者を励ますことができる宮川さんを、今度は自分が励ますことが出来なかったことが悔やまれ、今後宮川さんの意志をついでいきたいと思いを新たにしたとのことです。

短い一生を日本の政治に捧げ、皆から慕われた宮川典子さん

宮川典子さんの功績とその最期を紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。宮川さんは若くして志半ばで倒れましたが、そんな宮川さんを多くの人が慕い、宮川さんの意志を引き継ごうと思いを新たにしています。宮川さんの人生が日本の政治を良くする切っ掛けになることを願うばかりです。