西城秀樹さんの葬儀 |スーパースターらしい派手な葬儀でファンが感涙
公開日 : 2020/5/10
更新日 : 2020/9/10
享年63歳という若さで逝去された国民的スーパースター西城秀樹さん。脳梗塞を発症し、何度もリハビリを続けファンのもとへ帰ってきましたが、脳梗塞からの急性心不全で帰らぬ人となりました。この記事では話題になった野口五郎さんや郷ひろみさんの弔辞など詳しく紹介をします。
公開日 : 2020/5/10
更新日 : 2020/9/10
目次
西城秀樹さんのプロフィール
西城秀樹さんはどのような人生を過ごしてきたのか、最後の葬儀はどんなスタイルであったのかは興味深いのではないでしょうか。ここでは、西城秀樹さんの選択した最後についてや詳しいプロフィールについて紹介いたします。
17歳で歌手デビュー
西城秀樹さんは広島県広島市の出身です。中学2年の時にバンドを結成しました。このバンドでリードボーカルを担当していた西城秀樹さん。ヤマハ・ミュージック・コンテストに出場し、見事中国大会で優勝を果たしました。
その後、山陽高校へ進学し高校一年のときにR&B喫茶「パンチ」から声がかかります。パンチ喫茶でレギュラーバンドになり、店で歌っていたところスカウトをされます。
父親からは芸能界入りを猛反対されていたが、その反対を押し切り高校一年の二学期途中で上京。その後は、芸能界事務所「芸映」に所属し、1972年3月25日、日本ビクターのRCAレーベルより「恋する季節」で歌手デビューを果たしました。
19歳で紅白歌合戦に初出場
5枚目のシングル「情熱の嵐」でオリコン週間チャートで初のベストテン入りを果たし、以降11年間に渡り、オリコンベストテンでチャート入りをします。
1974年8月25日にリリースした10枚目のシングル「傷だらけのローラ」が、「第16回日本レコード大賞」受賞。「第15回日本レコード大賞」で初の歌唱賞を受賞していた西城秀樹さんは、ポップス歌手として史上初となる2年連続受賞を樹立します。
さらに「第25回NHK紅白歌合戦」にも初出場をします。その後も着実にヒット曲をリリースして、ドラマ「寺内貫太郎一家」にレギュラー出演、松竹映画「愛と誠」で俳優としても活動を始めます。
24歳でYOUNG MAN (Y.M.C.A.)をリリース
1979年2月21日に西城秀樹さんの曲のなかで、最大のセールスを誇る「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」がリリースしました。セールス枚数は120万枚と、西城秀樹さんにとっても初のミリオンセラーを達成します。
「Y・M・C・A」を全身で表現し日本中に向けてメッセージを発信。「皆で歌い、心身を躍動させ一緒におどる」という、観客参加型のパフォーマンスが当時ブームとなり、西城秀樹のファンクラブ会員を抽選でスタジオに招きレコーディングもされました。
また1979年に西城秀樹さんは、「日本歌謡大賞」「FNS歌謡祭グランプリ」「オリコン シングルチャート1位」を獲得して、歌手としての人気を不動のものとします。この年から、歌手として野口五郎さん、郷ひろみさんとともに「新御三家」と呼ばれ活動をしていきます。
46歳で一般女性と結婚
長らく独身生活を送ってきた西城秀樹さんは、2001年6月30日に大阪市在住の一般女性と結婚をしました。
結婚式は縁結びや円満のご利益があるとされている、白浜神社で行われました。結婚式の引き出物には、西城秀樹さんがCM出演するハウスバーモントカレーに西城秀樹夫妻の写真がプリントされ、辛さも「超甘口」と書かれている斬新なパッケージで話題でした。
また2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に次男が誕生しています。
葬儀はスーパースターらしく盛大に行われた
西城秀樹さんのお通夜・告別式は「東京・青山葬儀所」で営まれました。葬儀は野外コンサートを再現したというほど盛大に行われ「昭和のスーパースター」らしいと、当時のワイドショーでも頻繁に取り上げられました。
死因は脳梗塞からの急性心不全
西城秀樹さんは度重なる脳梗塞によって長い闘病生活に苦しんでいました。2001年秋に一回目の脳梗塞を発症。このときは、妻の美紀さんが第1子を妊娠中でもあり、事務所の判断で「二次性多血症」という病名を公表していました。
2003年6月に2回目の脳梗塞で、軽度の言語障害が残りましたが無事復帰を果たしました。復帰後も症状は繰り返し発症し、2013年の発症で右半身にまひが残ってしまいました。
そして2018年4月25日に家族との食事中に突然倒れて救急搬送で緊急入院をします。意識が不明の状態で続く中、懸命に治療を行ったが同年5月16日に急性心不全のため横浜市内の病院で亡くなりました。
西城秀樹さんの法名は「修音院釋秀樹位」(しゅうおんいんしゃくひでき)です。「修(しゅう)」は父親の名前から取り、「音(おん)」は音楽界に偉大な功績を残し、芸名として長く親しまれ、戒名にも「秀樹」の読み方をそのまま使用しました。
釋(しゃく)は釈迦を表し、釈迦の弟子という意味があります。
祭壇は大阪球場のコンサートを再現
西城秀樹さんは、1974年から1983年まで大阪球場で毎年野外コンサートを行っていました。葬儀での祭壇は、野外コンサートを再現し大変きらびやかだったと言われています。
緑とスプレーマムで外野スタンドの観客席を再現し赤やピンクのバラをちりばめて観客を現わしています。グラウンド部分は、トルコキキョウ、胡蝶蘭などで棺周辺を彩っていました。
さらに生前に西城さんが愛用していた、専用の白いマイクとマイクスタンドもセットされ、数千本の花やライトで照らされて「昭和のスーパースターらしい」素晴らしい祭壇でした。
会葬後はバーモントカレーが振る舞われた
会葬後の通夜振る舞いで、お寿司やお酒と一緒に西城秀樹さんがCM出演をしていた「バーモントカレー」が振舞われたそうです。このとき多くの著名人がカレーを味わい、西城秀樹さんを偲んでいたそうです。
故人への供養の一つである通夜振る舞いですが、バーモントカレーが選ばれたことに称賛の声が上がったようです。
通夜と告別式では1万人以上が訪れた
2018年5月25から26日に掛けて通夜と告別式が行われました。お通夜は生前の歌手仲間や芸能関係者が約1500人弔問し、ファンも約2500人訪れあわせて約4000人でのお通夜でした。また告別式は、会葬者とファンをあわせて1万人の人々が訪れ盛大に行われました。
その他に野口五郎さんと郷ひろみさんの弔辞が読まれ、ハウス食品代表取締役社長、アクションスターのジャッキーチェンさんやサザンオールスターズからも弔電が届きました。
お通夜は生前の歌手仲間や芸能関係者が約1500人弔問し焼香をしました。
その他にも、ファンが約2500人訪れて、あわせて約4000人でのお通夜でした。翌日の告別式も同じ場所を予定していたので、お通夜と違い告別式用に会場も整えられました。
青山葬儀所のエントランスのパネルには、新御三家である「西城秀樹さん」「野口五郎さん」「郷ひろみさん」の姿が飾られました。また式場の入り口に、西城秀樹さんのパネルや手形、サインなども展示されており思い出に浸るファンも多かったようです。
葬儀で流された曲
西城秀樹さんの葬儀では、今までリリースされてきたヒットナンバーが流されてきました。
お通夜開始前の控室で、西城さんのデビューCDでもある「恋する季節」、初のヒット曲「情熱の嵐」、「傷だらけのローラ」「ヤングマン」「ギャランドゥ」など流されました。
出棺直前には、参列したファンから「ヤングマン」の合唱が起こり、青い布で覆われた棺が現れると何度も声がかかりました。出棺時には楽曲「ブルースカイブルー」が流され、ファンから「ヒデキ」コールが湧きおこり、霊柩車は出発しました。
在りし日を偲ぶ会葬御礼
西城秀樹さんの告別式ではさまざまな品々が送られました。2014年のコンサート写真が入ったポストカード、ハウス食品のバーモントカレー(甘口・中辛)、西城秀樹さんの還暦記念アルバム「心響ーKODOU-」のCDやDVDも参列者に配られました。
ハウス食品は、西城秀樹さんが亡くなった際に「CMは大変好評をいただき、そのおかげもあってカレーライスが国民食とまで言われ、皆様に愛されるようになりましたものと大変感謝しております」と追悼のコメントを発表しております。
ツイッター上では粋な計らいということで、ハウス食品のことを称賛する多くのコメントがありました。
会葬御礼品の転売が問題視
「西城秀樹さんありがとうポストカード」はたった2日間で2万枚配布されました。その他にも、CD、バーモントカレーなど会葬御礼の品々がありましたが、葬儀翌日からオークションサイトで転売されていることが分かりました。
お清めの塩や会葬御礼状すらも「お別れの会セット」として、販売している人も現れたため非難の声が多く上がりました。芸能人の葬儀のときに配られる会葬御礼の品々は、転売されることが非常に多いです。
転売をする人が一番悪いのですが、買う方にも問題があります。もしオークションで見かけても買わないように心掛けましょう。
西城秀樹さんは最後までスーパースターだった
いかがでしたでしょうか。この記事では西城秀樹さんの葬儀について詳しく紹介をいたしました。西城秀樹さんは亡くなる直前まで歌手として復帰することを考えていたそうです。
日本中のファンのために生きてきたからこそ、派手な葬儀を行いスーパースターとしての最後を迎えたのかもしれません。
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