弥吉淳二さんの葬儀|人気サポートギタリストの人生の最期とは
公開日 : 2020/6/24
更新日 : 2022/6/11
弥吉淳二さんは椎名林檎さんの元夫でギタリストとして活躍していましたが、49歳という若さで亡くなりました。そこでこの記事では、最期を送るまでの間、弥吉淳二さんが行ってきた音楽活動やどのような病気だったのか、気になることをまとめてみました。
公開日 : 2020/6/24
更新日 : 2022/6/11
目次
弥吉淳二さんのプロフィール
49歳で亡くなった弥吉淳二さんは、様々な音楽活動を行ってきました。亡くなるまで音楽活動を積極的に行ってきており、多くのファンを楽しませていました。以下では、弥吉淳二さんのプロフィールをまとめてみました。
stereo criminalsのバンド出身
弥吉淳二さんは、高校入学と同時にバンドを結成し音楽活動を始めます。アマチュアバンドとして、出身地の福岡県で活動をされていました。1994年にコルベッツで活躍されていた松本邦彦さんとAXXLを結成します。
秋元康さんが作詞をした「抱きしめても泣き止まない」でデビューを果たし、1997年にバンド名を改名して「stereo criminals(ステレオクリミナルズ)」という音楽ユニットで活躍します。シングル5枚とアルバム3枚を発売し、様々な音楽を世に残しました。
1998年にバンドは解散し、松本邦彦さんはコルベッツを再結成されています。ユニットを解散されてからも、弥吉淳二さんは音楽活動を行っています。
サポートギタリストの裏方へシフトチェンジ
弥吉淳二さんは、1998年にバンドを解散されてからはプロデュース業に移行します。多くの楽曲提供および編曲を行い、裏方として音楽活動を行っていました。椎名林檎さん・吉川晃司さん・aikoさんなどのサポートギターを担当しており、テレビ番組にも出演されていました。
ギター演奏以外に、編曲家としても多彩な才能があったため、多くの歌手の方との交流があったことがわかります。1999年には、川村カオリさんのソロプロジェクトの「SORROW」を共同プロデュースされています。
2009年から2010年の間は、清木場俊介さんのプロデュースを行い、ロックについて音楽の手伝いをしながら、シングルやアルバムに関わっていました。バンドを解散されても音楽への愛情は強く、様々な方と音楽を楽しまれていたことがわかります。
プライベートでは結婚と離婚を経験
音楽活動に力を入れてきた弥吉淳二さんは、人生において結婚や離婚を経験されています。結婚の馴れ初めから離婚に至るまでの経緯についてご紹介します。
椎名林檎さんと結婚
弥吉淳二さんは、シンガーソングライターの椎名林檎さんと2000年11月に結婚します。極秘の結婚で、結婚の発表は2001年1月にされました。その理由は、当時弥吉淳二さんは既婚者であり、2000年9月に前妻と離婚した後に、同年11月に椎名林檎さんと結婚したからです。
また、当時椎名林檎さんは妊娠しており、計画的に赤ちゃんを授かったと報告されています。結婚した年の22歳で椎名林檎さんは「罪と罰」をリリースされています。その歌詞を見返してみると、椎名林檎さんの願いが込められています。
弥吉淳二さんは、椎名林檎さんのバンドの2代目ギタリストを担当したことがきっかけで親密になりました。人気絶頂中だった椎名林檎さんは、当時から非常に雰囲気のある魅力的な女性ということもあり、そういった部分に惹かれたのでしょう。
長男が誕生する
2000年11月に椎名林檎さんと結婚し、公に発表されたのは2001年1月でした。同年7月に長男の「空遥」が誕生し、弥吉淳二さんと子供のために椎名林檎さんは家庭に入ることも考えていました。
椎名林檎さんとの間に誕生した空遥さんは、2022年で21歳になります。弥吉淳二さんらの遺伝子を引き継ぎ、いつか音楽の才能を開花させて椎名林檎さんと一緒にライブをする日も近いのかもしれません。これからの子供の活躍に期待です。
椎名林檎さんと離婚
弥吉淳二さんは椎名林檎さんと結婚生活を始めてから、2年後の2002年1月に離婚します。原因は椎名林檎さんの不倫説もありますが、子供が小さかったこともあり、子供を連れながらの不倫は難しいことから、その噂も定かではありません。
一方で、椎名林檎さんが育児のことで家庭に入ることも考えていたのにも関わらず、子育てや家事にあまり参加しなかった弥吉淳二さんに堪忍袋の緒が切れたという噂もあります。2人にしかわからないことですが、夫婦生活は長く続きませんでした。
子供の親権は椎名林檎さんが持ち、離婚してからも子供のために弥吉淳二さんが父親として行事に参加されている姿を目撃されています。喧嘩別れというわけでもないようで、子供への愛情は注がれていました。
弥吉淳二さんの死因について
弥吉淳二さんは49歳で死去され、病気についても公式には公表されていませんでした。闘病生活を送っていたことも亡くなってから初めて知った方も多いでしょう。ここでは、詳しい内容をまとめてみました。
2016年病院に搬送される
2016年から、弥吉淳二さんは体調が悪くなったことで病院に搬送されました。しかし、病気のことは本人の意思から公表されず、亡くなってからも詳しいことはわかりません。病名については今でも謎のままです。
闘病しながら仕事を続ける
病院に搬送され、病気が発覚してからも、弥吉淳二さんは音楽活動を続けています。病気の治療に専念するという選択もあった中、音楽活動を優先したこともあり、訃報を聞いて驚いた方も多くいます。病気療養中でも、大好きな音楽に対しては真摯な姿勢を貫きました。
膀胱がんという噂もあった
弥吉淳二さんの死因は、本人の希望により公表されていませんが、膀胱がんだったとの噂があります。このような噂が出たのは、弥吉淳二さんがヘビースモーカーであり、このような病気と闘っていたのではないかという憶測が飛びました。
膀胱がんは喫煙者の男性に多い病気と言われています。膀胱がんは、文字の通り膀胱に粘膜に発生するがんです。泌尿器科では悪性腫瘍の中で最も頻度の高い病気で、40歳以上の男性に多いのが特徴です。
治療しても再発が多いがんで、ヘビースモーカーだった弥吉淳二さんもこの病気と闘っていたのではないか?と考えられましたが、いずれにせよ憶測の域を出ません。
弥吉淳二さんの葬儀やお別れ会
病気であると一切公表せずに、49歳で亡くなった弥吉淳二さんの葬儀やお別れ会についてまとめました。人生の最期も音楽で送られたのか詳しく見ていきましょう。
葬儀は出身地で近親者のみ
2018年1月26日21時31分に、弥吉淳二さんは49歳で亡くなりました。2年間の闘病生活を送っていたのにも関わらず、公表されずに入院先で息を引き取りました。病名を公表しなかったこともあり、葬儀は近親者のみで出身地の福岡県で行われました。
そのため、葬儀には多くの音楽関係者は参列しておらず、訃報の報告も葬儀が行われてから発表されています。それだけ本人は、病気のことを知られたくなかった意思を家族も最後まで貫き通したことがわかります。
この訃報を聞いた関係者やファンの方は驚きを隠しきれなかったでしょう。それだけ音楽に力を注いできた姿勢が伺えます。
お別れ会には多くの音楽関係者が参列
弥吉淳二さんの葬儀は近親者のみで行われましたが、2018年2月19日に東京都青山葬儀所にてお別れ会が行われました。音楽関係者の他、生前に弥吉淳二さんと交流があった方々が会場を訪れています。親交のあった方々は涙を堪えながら、凛と立ち振舞いました。
お別れ会の最期には、参列された関係者に小さなケーキが配られています。ギターとアンプの形をしたケーキで、音楽を頑張ってきた弥吉淳二さんの姿を現したケーキでした。弥吉淳二さんが凛々しくギターをかき鳴らす姿を思い出しながらのお別れ会でした。
ファンの方向けには、一般献花も16時〜17時に行われました。月曜日の夕方に行われたので会社勤めの方には難しい日程にも思えますが、突然の訃報ということもあり、多くの方が足を運びました。ファンにとってはかけがえのないひとときだったのでしょう。
多くのファンが悲しみ、追悼された
弥吉淳二さんは、吉川晃司さんやaikoさんのサポートギターなども担当していたこともあり、aikoさんのファンの間では「やよっしー」の愛称で親しまれていました。そのため、急な訃報を聞いたファンの中で驚いた方は多かったようです。
SNSでも弥吉淳二さんの訃報に対して、多くの悲しみの声が聞かれました。aikoさんのファンからは「やよっしー」という声が多数上がり、それだけ愛されていたギタリストということを感じさせます。追悼の意味を込めて、昔の作品を懐かしむファンも多かったです。
バンドを解散してからは裏方に徹しましたが、それでも弥吉淳二さんの音楽活動を応援していたファンが多かったことがわかります。周囲に最後まで病状を感じさせず、ギリギリまで音楽活動に精力的だった弥吉淳二さんの活躍を多くの方が絶賛しています。
闘病でも最期まで音楽活動を続けた弥吉淳二さん
音楽活動に力を注いできた弥吉淳二さんは、椎名林檎さんの元夫としてプライベートでも様々な経験をされてきました。葬儀は近親者のみでしたが、多くの音楽関係者によってお別れ会を催され、音楽業界に必要不可欠な方だったということがわかります。
病気を隠してまで音楽を最後までやり遂げる姿勢には多くの方が共感しました。彼の残した多く作品は、これからも多くの方に変わらず愛される続けることでしょう。改めてご冥福をお祈りいたします。
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