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桂福車さんの葬儀|元郵便局員だった福車さんの葬儀と十八番のお話

2018年2月1日、落語家の桂福車(かつら ふくしゃ)さんがお亡くなりになりました。桂福車さんは、56歳という若さでこの世を旅立たれました。そんな桂さんの葬儀について、人生について、ご紹介します。また、福車さんのお師匠さんについても書いていきます。

桂福車さんの葬儀

平成30年(2018年)2月1日、落語家の桂福車さんがお亡くなりになられました。桂福車さんは、手話落語で名が知られている桂福団治さんの門下であり、本人も社会派の落語家として大変貴重な存在でした。

 

福車さんの死因は明らかにされていませんが、56歳という若さであり、その後の仕事の予定も組まれていて、とても急な死でありました。

 

福車さんの葬儀は、通夜が2月3日の午後7時から行われ、4日の正午から告別式が営まれました。どちらも会場は大阪府東大阪市の「東大阪祭典」であり、桂福車さんが生まれ育った場所です。喪主は、長女である大津萌恵さんが務めました。

悲しいだけではない葬儀

桂福車さんは56歳という若さであり、その急な死には、とても多くの人が心を痛めました。しかし急であったにもかかわらず、東大阪で行われた葬儀には大変多くの人が参列されました。福車さんがどれくらい慕われていた人望の厚い噺家であったかというのが福車さんを知らない人でも分かるような温かい葬儀だったといいます。

 

また、落語家の葬儀は悲しいだけではありません。気持ちがほっこりしたり、時には笑いが起きたりするような場面もあります。福車さんに限りませんが、特に芸能の世界の弔辞では、生前の姿を取り入れて、とんちの聞いたあいさつを読む方もおられます。

 

福車さんの葬儀では、彼の霊柩車が話題を呼びました。霊柩車というと、多くの方は簡素で質素な車をお選びになりますが、桂福車さんは違います。

 

派手なものがお好きだった福車さんは霊柩車にもとびきり派手なものを選びました。見ている人たち、参列してくれている人たちに明るい気持ちになってもらえるようにという福車さんの気遣いでもありました。

 

たとえあの世へ行ってしまったとしても、ただでは転ばない、ひと笑いを起こすという落語家の執念のようなものを感じました。

桂福車さんの経歴

桂福車さんは1961年4月26日に大阪府の東大阪市に生まれました。桂福車というのは芸名であり、本名は大津康裕さんといいます。芸能事務所は松竹芸能に所属していました。

 

桂福車さんは大阪府立清水谷高校時代、落語研究会に所属していました。卒業した後、一旦は郵便局へ就職します。

 

郵便局員として働きながらも、芸能の世界、落語の世界への夢を立ちきれずにいました。しかし、仕事を切り捨てて落語一本で行くのはとても大きなリスクを伴います。

 

桂福車さんは、郵便局員として働きながら、四代目桂福団治野本へ弟子入りする決意をしました。福車さんは一時郵便局員と落語家という二足の草鞋履いて生活していたのです。

 

そのまま落語の世界でメキメキと頭角を現し、郵便局は退職して落語一本になりました。社会派として、教育問題や人権問題にも取り組む落語家として名を知られていました。そして、2018年、56歳という若さで鬼籍に入られました。

師匠 桂福団治

桂福車さんが弟子入りをしたのは、桂福団治さんのところです。桂福団治さんは、1940年生まれで三重県四日市市出身の落語家です。

 

福車さんと同じく松竹芸能に所属しています。彼は現在79歳で、笑福亭松之助がなくなってしまったため、上片落語では最古参の方です。

 

また、分野は少し違うものの横山やすしさんと同期であり、阪神淡路大震災の時は、復興イベントにて二人で漫才を演じたこともあります。落語会の重鎮であり、新しいことに積極的に取り組む落語家です。

 

桂福団治さんは、手話落語の第一人者です。手話落語とは文字通り落語を、手話を用いて伝えて、耳の聞こえづらい方なども楽しめるような落語です。

 

また、日本で初めて視覚障がいの方の弟子をとっており、障がいの有無にかかわらず落語を楽しめる会、「バリアフリー落語会」というものをそのお弟子さんと開催したこともあります。

 

桂福車さんが人権のことや政治のことに切り込む社会派の落語家となったのは、このお師匠さんの影響が少なからずあったのでしょう。

桂福車さんの十八番

桂福車さんは落語家です。噺家には自分の得意とする話・ネタがあります。桂福車さんの場合は「強情灸」「看板のピン」「辞世の句」などがありました。得意ネタのあらすじを簡単にではありますが、ご紹介していきます。

強情灸

強情灸は古典落語の演目の一つです。もともと上方落語から生まれている話であり、桂福車さんも上方落語の世界の方です。

 

簡単にあらすじを紹介します。このお話は、文字通り強情な男たちが灸に吸えられる話ですが、灸の据えられ方が少し普通とは違っています。

 

二人の男性が登場し、一人が話し始めます。近所に灸を据えてくれる店ができたが、何でもその店の灸が凄まじく熱く、また凄まじく効くということで評判らしい。

 

試しに行ってみたところ、本当に熱かったのだが、強情な男はフルコースで36箇所の灸を全部同時に据えてもらった。苦しかったが何とか耐え抜いて、周りで見ていたおねえさんがうっとりしていた、という話をもう一人の男に聞かせます。

 

もう一人の男は惚気に近い話を聞かされて当然面白くありません。熱いのくらい俺だって耐えられるわい、ということで男はもぐさを持ってきて自分の腕に山盛りのせて、すぐに火をつけてしまいました。

 

意地を張って平気で平気だと痩せ我慢をするのですが、とうとう耐えきれず百草を振り払います。五右衛門のように油で茹でられながらも辞世の句を読むような余裕を持ちたかったができず、「五右衛門もさぞ熱かっただろう」と言ったところで話は落ちます。

看板のピン

看板のピンも古典落語の演目の一つです。これはサイコロ賭博を題材にしたお話です。数人の博徒たちがサイコロ賭博に興じています。このサイコロ賭博というのは「ちょぼいち」と呼ばれるものです。

 

ルールはとても簡単で、1から6のサイコロを出る目を予想して、その数字にチップをおくというだけです。賭けた目とでためが同じであればチップの何倍かの金額がもらえ、違う目だった場合は掛け金が没収されます。

 

博徒たちはこのちょいぼちをやっていましたが、値動きが小さく退屈していました。そこに親分が現れ、博徒は彼に胴元になってもらうように頼みます。胴元にお金を持っている人がなれば、値動きが激しくなるからです。

 

親分はこれを承知し、サイコロを振り始めます。サイコロを振る時は、ツボの中に賽を入れてそこから出すのですが、親分がサイコロを振る時、うまく賽がツボの中に入らず一の目を出してポツンと置かれました。

 

博徒たちは親分がそれに気付いていないと思い、一の目に大金をかけます。全員がかけ終わったところで親分は、外に転がったサイコロは看板のピン(つまり見せかけの見本の賽)だと言って片付けてしまい、「5が出るだろう」といいながら本当にサイコロを振ります。

 

すると本当に5の目が出て、博徒たちのお金は全て没収されてしまいました。親分は掛け金を博徒たちに返し、「賭け事はこのような汚い手を使われることもあるのだから、やめなさい」とさとします。

 

これに感動した一人が親分の真似をますが、5の目が出るだろうと言ったのに看板のピンと同じ一の目を出してしまったところがオチです。

桂坊枝さんが語る複写さんの姿

桂福車さんは桂福団治さんのところに弟子入りをしましたが、その半年前に入門していたのが桂坊枝さんでした。

 

坊枝さんは福車さんより一つ年上で、入門も早いため先輩に当たりましたが、すぐに敬語ではなくフラットに話すようになり、「坊枝さん」「シャーやん(福車さんの車からとった呼び名)」と呼び合う仲になりました。

 

福車さんは高校の落語研究会の後輩である女性と結婚し、男の子、女の子も生まれます。坊枝さんの家族とも度々家族ぐるみで遊びに行くこともありました。

 

坊枝さんと福車さんは、二人の仲間と共に「上方らくごカルテット」という勉強会を立ち上げて、そのグループで長く落語を続けてきました。20年以上も上方らくごカルテットは活動してきました。

 

福車さんは、正義感が強く、相手によって自分の言動を変えない真っ直ぐな方だったそうです。その性格から後輩先輩を問わず慕う人が多く、また人権関連での講演依頼も多数舞い込んでいました。

 

福車さんは大勢の人に慕われながら、頼りにされながら、突然、死を迎えてしまいました。

人徳と人望の厚かった桂福車さん

桂福車さんは難しい公務員試験を突破して郵便局員として働きながら、落語の勉強を続けました。落語一本になってからも勤勉で正義感の強い性格は変わらず、社会の問題や人権に関する取り組みをずっと続けていました。

 

なくなる直前も、社会問題を取り扱った新作の落語を準備しているところだったといいます。

 

個性的であり、しかし大勢の人に好かれた桂福車さんは、旅立たれました。大変多くの人が心を痛めましたが、派手派手しい霊柩車に乗って火葬場へ向かう福車さんの姿は、まるで参列した人たちの涙を拭うようなものでした。

 

突然の死はとても残念ですが、彼の遺してくれた人や思い出、思いは消えません。心からご冥福をお祈りいたします。

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