眉村卓さんの葬儀|生い立ちから作家活動、最期と葬儀の様子について

公開日 : 2020/9/18

更新日 : 2020/9/18

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作家・眉村卓さんが令和元年11月3日、誤嚥(ごえん)性肺炎のため、85歳で亡くなりました。眉村さんの生い立ちから作家活動、その最期と葬儀について調べました。また、病気の妻のために執筆した著書についても確認します。SF小説の第一人者はどのような人生を送り、見送られていったのでしょうか。

公開日 : 2020/9/18

更新日 : 2020/9/18

目次

眉村卓さんのプロフィール

この項では、眉村さんの生い立ちから作家として活動するまでを見ていきます。眉村さんはどのようにして作家になり、どのような執筆活動を展開するようになったのでしょうか。サラリーマンとの兼業作家時代から、SF小説というジャンルを確立した氏の作品世界について見ていきます。

眉村卓さんの生い立ち

眉村卓さん(本名・村上卓児)は1934年10月20日に、大阪府大阪市西成区で生まれました。大阪府立住吉高校を経て1957に年大阪大学経済学部卒業後、大阪窯業耐火煉瓦株式会社に入社しました。妻の悦子さんは高校の同級生であり、眉村さんは高校時代、俳句部に所属していました。 その後、SF同人誌『宇宙塵』に参加し、「下級アイデアマン」が第1回空想科学小説コンテストに佳作入選しデビューしました。1963年に大阪窯業耐火煉瓦株式会社を退社し、株式会社大広の嘱託コピーライターとなっています。さらにその2年後、大広を辞め、専業作家としての活動を開始します。 サラリーマンとの兼業を経て、専業の作家としての活動を始めた眉村卓さんは、精力的に執筆活動を展開するようになります。

SF第一世代

眉村卓さんは小松左京さん、星新一さんらと共に「SF第一世代」と呼ばれ、日本のSF小説の黎明期を支えました。さらに、エッセイやジュブナイル小説なども手掛け、作品は何度も映像化されました。作品の知名度を上げ、氏の世界観が世に広がりました。 「人類の進歩と調和」をテーマにした昭和45年の大阪万博の盛り上がりもあり、荒唐無稽と思われていたSFに対する世間の見方も変化し、SFは未来を見通した作品だと捉えられるようになったようです。 眉村卓さんは、SF小説というジャンルを確立した功労者といっていいでしょう。「その時々にしか書けない作品がある」と語っていた眉村さんは80代に入っても執筆を続け、晩年に発表した短編集には死にまつわる作品も目立っていました。

眉村卓さんの作家活動

この項では眉村さんの作家活動について見ていきます。妻の悦子さんの協力について、さらに、代表作である、司政官シリーズについて確認します。

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妻と二人三脚

作家としての眉村卓さんを語る上で、忘れてはならないのが、妻である悦子さんの存在です。前述したように、高校の同級生だった悦子さんと同窓会で再開し、その後、結婚。書き上げた原稿はまず、悦子さんに見せるのが習慣になります。 悦子さんは執筆活動に非常に協力的で、眉村さんが夜中まで原稿に向かっている時は一緒に起きていて、お茶を出したり、サポートを惜しまなかったようです。悦子さんも文学少女で読書が大好きだったので、自然と作家活動を応援するようになったのかもしれません。 悦子さんは最初の読者であり、創作していく上での協力者であったようですね。眉村さんにとっては公私にわたる、まさに理想的なパートナーだったようです。

代表作、司政官シリーズ

眉村卓さんの代表作として挙げられるのが「司政官シリーズ」です。宇宙未来史「司政官シリーズ」の中では、銀河系内に植民した人類社会を舞台に、宇宙連邦の官僚機構と植民者人類たち、惑星先住者まで登場する状況で苦闘する司政官が描かれています。 彼らは組織と個人、文明と土着などの様々な対立の中で、一個人としての己の意志を通そうとします。眉村さんは「インサイダーとして文学は可能なのか?」という難問に、この作品で応えました。 アウトサイダーたる作家のアンチテーゼではなく、それに屈することもなく、かといって大衆社会にも迎合しないという困難な道を歩んだ眉村卓さんでしたが、氏が唱えた「インサイダー文学論」を実践したのがこの作品でした。 なお、この「司政官シリーズ」で1979年に泉鏡花文学賞を、同年と1996年に星雲賞日本長編部門を受賞しています。本人の達成感だけでなく、きちんと評価も賞という形で得ていたことが分かりますね。

「妻に捧げた1778話」と眉村卓さんの最期

この項では、眉村さんが妻の悦子さんの闘病中に執筆した「妻に捧げた1778話」と、眉村さんの最期について見ていきます。

「妻に捧げた1778話」

1997年6月に妻の悦子さんが、がんで余命が短いと診断されました。絶望の中、他に何かできることはないかと考えた時、笑うことが体に良いと聞き、眉村さんは「1日1話」の物語を書いて読んでもらう決意をしました。 笑える話を書き続けるうち、周囲から声がかかり、00年から自費出版で作品集「日課・一日3枚以上」の刊行が始まりました。5年近くに及んだ「1日1話」は04年に「妻に捧げた1778話」として出版され、映画化もされました。この本は、タレントのカズレーザー氏が推薦したことでも話題になりました。 2002年5月28日に悦子さんが亡くなりました。眉村さんは1778話目をいつものように書き上げました。小説家である夫ならではの寄り添い方だったのではないでしょうか。

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眉村卓さんの最期

令和元年11月3日、眉村卓さんが誤嚥(ごえん)性肺炎のため、大阪市内の病院で85歳で亡くなりました。眉村卓さんは24年に食道がんを患い、30年にはリンパ節転移の再発で放射線治療を受けていました。 家族によると、10月8日に体調を崩し入院、最後までベッドの上で執筆に取り組んでいたそうです。とにかく書くことを続けてきた眉村さんらしいエピソードですね。令和元年9月から神戸新聞で「随想」を執筆し、10月に掲載された「馬鹿話」が絶筆となりました。

眉村卓さんの葬儀

この項では、眉村さんの葬儀のようすと、眉村さんを追悼する声について確認します。

葬儀の様子

眉村卓さんの葬儀が令和元年11月9日大阪市内の葬祭場で営まれました。作家仲間や出版関係者250人が参列し、別れを惜しんでいました。 喪主を務めた長女の村上知子さんは参列者へのあいさつで、10月上旬に入院した眉村さんが完成間近の長編の執筆を病床で続けていたことを紹介しました。亡くなる数日前に、締めくくりの文章をメモ書きにして知子さんに託し、「これでいい」とつぶやいたそうです。知子さんは「父はずっと書く人でした。次の世界でも書いているのでしょう」と述べました。 会場に設置された祭壇の両横には供花約70基が供えられ、ひつぎの隣には行きつけの喫茶店の「オムカレー」と「イタリアンスパゲッティ」が供えられました。また、ひつぎには原稿用紙と3Bの鉛筆が供えられていました。

眉村さんを追悼する声

眉村さんを追悼する声も多数寄せられています。作家の浅田次郎さんは、SF小説の壮大な面白さで物語の組み方を変え、多くの作家に影響を与え、一時代を画した偉大な方だった、とたたえました。また、「現実離れした物語の中にも、人間愛があふれていた」と語ったのは作家の難波利三さんです。さらに、作家の有栖川有栖さんはSFの世界が現実世界と地続きであることを表現した、自分の世代のスターだったと惜しんでいます。 また、カルチャー教室で指導を受けた主婦は「訴えたいことをはっきりさせてと、心に迫る言葉で熱心に指導してくださった。教室からプロの作家が出るのが夢だと話されていました。」と語っています。眉村さんは「書くこと」の喜びと厳しさを伝えることにも尽力しました。大阪芸術大学教授、平安女学院大学文化創造センター客員教授も務めていました。 さらに、50年以上親交のあるイラストレーターの成瀬國晴さんは「穏やかで、いつもはにかみながら物を言う人だった」と声を詰まらせました。眉村さんを知る人々の言葉から、その人となりや作家としての功績がうかがえます。

眉村卓さんの旅立ち

眉村卓さんの人生と葬儀について見てきました。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。作家として大きな功績を遺し、あたたかい人柄で親しまれた眉村さんは、多くの人々に見送られながら旅立ったのではないでしょうか。 世の人々は眉村さんの著作に触れるたび、作家としての偉大さと穏やかな人柄を思い出し、改めて氏を悼むのではないでしょうか。