中村哲さんの葬儀|なぜ撃たれた?憲法9条が拓く用水路が引き金に
公開日 : 2020/8/19
更新日 : 2020/9/9
アフガニスタンに用水路を建設して、多くの人の生活を立て直した医師の中村哲さん。2019年12月4日、ナンガルハル州のジャララバードにて凶弾に倒れました。享年73歳でした。こちらの記事では、中村哲さんの生い立ちや葬儀について詳しくお伝えしています。
公開日 : 2020/8/19
更新日 : 2020/9/9
目次
中村哲さんのプロフィール
アフガニスタンのペシャワールで井戸や用水路工事などの灌漑事業に尽力し、「医者、井戸を掘る」の本の著者でもある中村哲さん。日本でどんな葬儀を行ったかの前に、まずは中村哲さんの詳しい生い立ちを紹介しておきましょう。
27歳、九州大学医学部を卒業
中村哲さんは、福岡県福岡市御笠町出身です。中学生のとき、日本バプテスト連盟香住ヶ丘バプテスト教会でF・M・ホートン宣教師より洗礼を受けてクリスチャンになりました。昆虫好きだった中村哲さんの夢は、昆虫の研究者だったそうです。
しかし、「人の役に立てるように」との信念を持っている中村哲さんの父が、経済的に無理をして医学書を揃えてくれたことから、医師になることを決意されたのだそうです。さらには、過疎地域への医療従事を志すようになったといわれています。
38歳、パキスタンのペシャワールへ赴任
1984年、中村哲さんが38歳のとき、日本キリスト教海外医療協力会からパキスタンのぺシャワールへ赴任依頼が届きます。中村哲さんは、妻と幼いふたりの子供をペシャワールへ帯同して、まずは現地のハンセン病治療に当たるのでした。
赴任する前年の1983年、中村哲さんの活動をサポートしようと発足したのが「ペシャワール会」です。パキスタン北西部から国境をはさみ、アフガニスタン北東部で医療、農業、水源確保事業を行う国際NGOです。
54歳、用水路作りをスタート
アフガニスタンの国境にほど近いパキスタンのペシャワールで人道支援を行い続けてきた中村哲さんは、54歳のときに用水路作りに着手するようになります。きっかけは、2000年にアフガンを襲った大干ばつでした。
大地から水が干上がってしまい、水も食料もない大惨事となってしまったのです。現地の子供たちは、仕方なく不衛生な泥水を飲んで喉の渇きを潤していたようです。そのような劣悪な環境から下痢で亡くなる現地の子供を、たくさん目にしてきた中村哲さん。
「100人の医師より、1本の用水路が必要」と医療の限界を感じられたのだそうです。土木技術の知識がなかった中村哲さんは独学で用水路作りに励みます。参考にしたのは故郷の福岡県にある筑後川から水を引く用水路・山田堰でした。
57歳、マグサイサイ賞を受賞
2003年、57歳になった中村哲さんはアジアのノーベル賞といわれるマグサイサイ賞を受賞します。翌年には皇居に招かれ天皇陛下へアフガニスタンにおける現況報告を行うなど、中村哲さんの活動や功績は世間に広く知れ渡っていきました。
2010年、64歳の中村哲さんはついにインダス川の支流・クナール側から水を引く用水路工事を完成させます。全長25.5kmものマルワリード用水路のおかげで、砂漠のアフガニスタンに農業が成り立つようになったのです。
73歳、何者かの銃撃により死去
2019年12月4日、中村哲さんは車で移動中のナンガルハル州のジャララバードで何者かの銃撃により右胸に被弾してしまいます。直後の中村哲さんは意識があったと伝えられています。しかし、治療のため、アメリカ軍のバグラム空軍基地へ搬送される途中で息絶えてしまったのです。
中村哲さんと一緒に車に同乗していた運転手や警備員5名も死亡してしまいます。同年の12月7日、カブール空港で追悼式典の際、アフガニスタンの大統領アシュラフ・ガニーさんが中村哲さんの棺を自ら担ぎました。中村哲さんの遺体は、空路で日本へ搬送されました。
中村哲さんの死因は?なぜ撃たれた?
突然、何者かの銃撃によって命を奪われてしまった中村哲さん。死因は、肝臓損傷による失血死といわれています。なぜ撃たれたのかは、中村哲さんが生涯をかけて尽力していたマルワリード用水路工事にあるとされる線が濃厚のようです。
マルワリード用水路は、アフガニスタンとパキスタンを流れるクナール川の水を引いたものでした。そのため、パキスタン側に流れる水の量が少なくなってしまい、そのことから中村哲さんが武装勢力のターゲットにされたのではないかと囁かれています。
また、2008年8月に起きたペシャワール会スタッフ・伊藤和也さん銃撃事件の犯人がタリバンであったことから、タリバンの関与も否定できないとされています。当のタリバンは、中村哲さん銃撃への関与を否定しています。
中村哲さんの功績とは?没後に旭日章を受賞
没後の2019年、中村哲さんは国家や公共に対して功績のある者を称える旭日章を受章します。中村哲さんの功績は、1984年にペシャワールのミッション病院に赴任するところから始まります。当時、アフガニスタンの無医村にはハンセン病が多発していました。
中村哲さんは、アフガニスタンの無医村地区に3つもの診療所を開設し、現地の人々の救命に当たっていくのです。また、ペシャワールには70床ある病院を自腹で開院したとも伝えられています。
2000年には、アフガニスタンのジャララバードに井戸掘り事業を展開します。2003年には、大干ばつで干からびてしまったアフガニスタンの農業を復興するべく、マルワリード用水路作りに着手するのです。これによって、10数万人といわれる難民が生活の糧を取り戻したのでした。
中村哲さんの葬儀は無宗教の合同葬
中村哲さんの葬儀は故郷の福岡県で執り行われました。非政府組織ペシャワール会との合同葬です。クリスチャンだった中村哲さんでしたが、葬儀は無宗教で行われました。2019年12月11日、会場はユウベル積善社福岡斎場です。
喪主は中村哲さんの長男・健さん、葬儀委員長はペシャワール会の会長が務めました。参列者は、家族やペシャワール会スタッフ、支援者など1300人が参列したといわれています。中村哲さんの棺には、アフガン国旗が掛けられました。
会場内では、献花の際に中村哲さんの好きだったモーツァルトの曲が流されたようです。また、会場に入れなかった参列者は、会場周辺で中村哲さんを追悼したとのことです。
中村哲さんのお別れ会は西南大学にて
中村哲さんの葬儀を終えた翌月の2020年1月25日、福岡市の西南学院大学にてお別れ会が執り行われました。ペシャワール会主催のお別れ会は、参列者が5000人を超え、会場だった大学チャペルにはあっという間に人があふれたといわれています。
駐日アフガニスタン大使バシール・モハバット氏も参列されたようです。お別れ会では、中村哲さんはアフガニスタンでカカムラッド(ナカムラのおじさん)として、愛され、親しまれていたことをスピーチされました。
長女の秋子さんが遺族を代表して挨拶、三女の幸さんがピアノを演奏するなか、参列者は黄色いバラを祭壇に手向けたとのことです。
憲法九条やまとの会が中村哲医師追悼のつどい開催
中村哲さんの死を悼むのはペシャワール会ばかりではありません、「憲法九条やまとの会」という憲法9条の改憲を阻止したい集まりも、中村哲さんの追悼イベントを行いました。開催は2019年12月23日、会の代表は、中村哲さんの大学時代の同期で友人の方です。
中村哲さんは生前から「憲法9条があるからこそ、アフガニスタンで人道支援の活動に打ち込めた」と述べられています。戦後、一度も戦争をしていない日本だからこそ、平和のイメージが強く、アフガンで活動する中村哲さんを守ってくれたと感じておられたようです。
結局、憲法9条は中村哲さんを守り切ることができませんでした。しかし、アフガニスタンでの壮大な用水路事業が達成できたのも、中村哲さんがおっしゃる通り、憲法9条の威光があればこそだったのでしょう。
中村哲さんの葬儀は無宗教で執り行われた
アフガニスタン難民の10数万人もの人々を助けた中村哲さん。葬儀は、無宗教(自由葬)でした。古くからの習わしやルールに捉われない無宗教葬儀だったからこそ、多くの人が参列できたのでしょう。もし葬儀のかたちに悩んでいるなら、無宗教葬儀もぜひ検討してみてください。
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