芳賀徹さんの葬儀|文学、絵画など広い視野で活躍した比較文化研究者

公開日 : 2020/8/5

更新日 : 2020/9/8

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芳賀徹さんは、東京大学で教鞭を取っていた日本の文学者であり、比較文学者であった方です。優れた著作を遺した作家でもあり、京都造形芸術大学学長、美術館の館長を務めました。2020年2月に亡くなった芳賀さんの葬儀とその足跡についてご紹介します。

公開日 : 2020/8/5

更新日 : 2020/9/8

目次

芳賀徹さんの葬儀

東京大名誉教授であり、日本の文学研究者、比較文学者であった芳賀徹さんが2020年2月20日、88歳で亡くなりました。京都造形芸術大学長や静岡県立美術館館長を務め、国際日本文化研究センター・東京大学名誉教授であった、文学、芸術分野で活躍された方です。 その著作や歌人としても高名で、2018年には日本芸術院賞恩賜賞を受章しています。 父である芳賀幸四郎さんは歴史学者、長男の芳賀満さんは考古学者です。日本の学術研究に貢献してきた家系の方でもあります。 芳賀さんの死因である胆のうがんは、初期は自覚症状がなく、早期発見が難しいがんです。進行するとほとんどの場合黄疸が表れ、その他に、わき腹の痛み、体重減少、しこりなどの症状が現れます。 お通夜は2月25日午後6時。告別式は南青山の青山葬儀場で2月26日午前10時半に営まれました。

芳賀徹さんの経歴

日本の文学研究者、比較文学者として活躍された芳賀徹さんはどのような方だったのでしょうか。その生い立ちや、研究者、学者としての経歴をご紹介します。

学者の父をもち、優秀な学友と共に育つ

芳賀徹さんの父である芳賀幸四郎さんは日本史の歴史学者でした。芳賀さん自身も歴史に造詣が深く、江戸時代の学者であり、発明家であり、芸術家でもあった平賀源内の生涯を描いた作品も発表し、サントリー学芸賞を受賞しています。 幼少時代山形県で育った芳賀さんですが、現在の筑波大学附属小学校である東京高等師範学校附属小学校に転入。クラスには後に東大教授になった人物が5人もおり、そうした環境は芳賀さんに大きな影響を与えたことでしょう。 彼らとは、大人になってからも同僚として切磋琢磨した仲でした。

東京大学大学院で比較文学者島田謹二に師事する

芳賀さんは、現在の筑波大学附属中学校・高等学校である東京教育大学附属中学校・高等学校を卒業した後、東京大学教養学部教養学科フランス分科で学びます。 大学院では新設された比較文学比較文化専修課で学び、島田謹二さんに師事します。島田さんは初代主任教官を務めた人で、芳賀さんをはじめとして、多方面で活躍した優秀な人材を育成しました。 島田さんは優秀な学者であると同時に、北原白秋など詩人のもとで学んだ豊かな感性を持つエネレギッシュな人でした。若い芳賀さんの文学的才能は大いに刺激を受けたことでしょう。

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フランス、アメリカに渡った後、国際日本文化研究センター教授就任

大学院卒業後、フランスへ留学し、母校東京大学教養学部で専任講師、助教授を務めた後、アメリカのプリンストン大学の研究員になります。 帰国後、1977年に東京大学教授に就任し、恩師である島田謹二さんと同じく比較文学比較文化研究室主任教授も務めました。その後、国際日本文化研究センター教授に就任しています。

国際日本文化研究センター定年退官の後、芸術分野で活躍

1998年に国際日本文化研究センターを定年退官した後に、芳賀さんは岡崎市美術博物館館長、京都造形芸術大学教授、学長に就任します。 その他にも、源氏物語成立1000年を記念した事業である「源氏物語千年紀」の呼びかけ人を務め、現代俳句大賞を受賞するなど、その見識と才能を生かし、ますます活躍しました。

新しい歴史教科書をつくる会の理事に就任

「新しい歴史教科書をつくる会」とは、1996年に結成された社会運動団体です。従来の教科書は必要以上に自国を貶める自虐史観に影響を受けているとし、それを正し、新しい教科書を作成、普及を目指しています。 芳賀さんは、ある古い家が天皇誕生日に国旗を掲げてたことに感動し、そのことを随筆に記しているほど愛国的な人物でした。「新しい歴史教科書をつくる会」の運動にも関与し、理事を務めています。

芳賀徹さんの著作

芳賀さんは多くの著作を世に残しています。文学賞も数多く受賞しました。芳賀さんの代表的な作品の一部をご紹介いたします。

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『平賀源内』

1981年にサントリー文学賞を受賞した『平賀源内』は、芳賀さんの代表作の一つです。 江戸時代のレオナルド・ダヴィンチとも言える平賀源内の生涯を魅力的に描いています。確かな学識をもとにしながらも、堅苦しくなく、引き込まれるような楽しい作品です。 芳賀さんの講義はたくさんの学生を魅了し、学問の楽しさを伝えました。そんな芳賀さんらしさが表れている作品と言えます。

『絵画の領分-近代日本比較文化史研究』

朝日新聞社主催の文学賞大佛次郎賞を受賞した作品です。洋画家高橋由一、作家森鴎外や夏目漱石などの作品を取り上げ、海外と文学の関りを比較文化史の視点から描いています。

『藝術の国日本 画文交響』

平安時代以降、親密な関係にあった絵画と詩について、比較文化の観点から描いています。蓮如没後500年を記念して創設された文学賞である蓮如賞受賞作品です。

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『文明としての徳川日本』

1993年に刊行された作品。江戸時代の日本の文化を従来のような江戸趣味、暗黒史観として捉えず、その時代ならではの独自の文明として捉え、評価しています。 現在では、江戸時代を暗黒史観と考える人のほうが少なく、独自の文明として評価している人が多いので、少なからず、この著作は日本人の意識に影響したのではないでしょうか。

『外交官の文章 ─もう一つの近代日本比較文化史』

開国後、列強諸国との交渉にあたった外交官が記した日記や報告文をもとにして、時代の真実の姿を浮かび上がらせた作品。 当時の第一線で活躍した外交官は内外問わず文学的才能に恵まれていた人物が多く、記録としてだけではなく、読み物として楽しめる内容です。

芳賀徹さんの人柄

亡くなった後、文学者であった芳賀さんの人柄を学友や教え子が偲び、語っています。芳賀さんの人柄をここでまとめておきます。

優しく、男女問わず愛された人

芳賀さんの小学校時代からの友達であり、東京大学名誉教授の平川祐弘さんは、芳賀さんの死後、その人柄について産経新聞に寄稿しています。 平川さんはここで「人柄は優しく、優しいの「優」の字は人偏に憂いと書く」と記し、男女問わず、国籍問わず、愛された人だったと語っていました。 著名な学者で東京大学名誉教授というと、雲の上の人で近寄りがたい印象がありますが、誰にでも好感をもたれるような、優しい雰囲気の方だったのでしょう。

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愛国心に溢れた人

芳賀さんは日本を心から愛し、誇りに思っていました。著作でも、日本の独自の文化が花開いた江戸時代を評価する作品や、日本の文学、絵画を紹介する作品を残しています。 また、自虐史観に対して反対する立場をとっています。しかし、自分と考えが違っても優しく受けとめる包容力も持ち合わせた人物でした。

作品に心を寄せ、生き生きと語る

芳賀さんは学生だけではなく、学会で、陛下の前でも講義をしましたが、皆がその語りにじっと耳を傾けました。 それは、作品に心を寄せ、上手に解き明かし、いつも丁寧に下調べされていたからで、平川さんは「語りは講演に血が通い、座談は名手の即興演奏の如(ごと)く」と称賛しています。

研究熱心でエネレギッシュ

写真の芳賀さんは気品があり穏やかな方に見えますが、研究熱心でエネレギッシュな一面もありました。 元山形県知事であり、芳賀さんと親交のあった高橋和雄さんは、芳賀さんについて、夜を徹して議論したこと、研究に対する真剣な姿勢を懐かしんでいます。

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若い人を育て、海外の方と積極的に交わる

親しみやすい人柄の芳賀さんが教える教室には内外の学生が多く集まりました。文学、美術分野の多くの才能ある弟子を育てています。 留学経験もあった芳賀さんは、海外の方との交流にも積極的でした。

“高雅な友”と称される人柄

平川さんは、芳賀さんを「高雅な友」と称えています。 “高雅”とは、「気高く優雅なこと。上品でみやびやかなこと」。子どもの時から俳句にも親しみ、芸術を愛した芳賀さんの人柄が偲ばれます。

芳賀徹さんの死去

比較文学者として、文筆家として活躍された芳賀徹さん。亡くなった時の様子とお葬式についてご紹介します。

2020年正月に突然倒れる

芳賀さんの小学生時代からの親友で、東京大学名誉教授である平川祐弘さんが産経新聞に寄稿した手記によると、芳賀さんは2020年正月に突然倒れました。 それでも、まだその時は、話も十分できる状態でした。芳賀さんは自虐史観に反対の立場をとっていましたが、その病床で自虐史観を肯定する文章を支持する話を聞かされても穏やかに笑ったそうです。 平川さんはそれが芳賀さんらしいと思った共に、これならまだ大丈夫と安心したことでしょう。

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病状が急速に悪化、家族の手を握り亡くなる

しかし、倒れてから翌月になると、急速に芳賀さんの病状が悪化します。 芳賀さんの病気は胆のうがん。初期は自覚症状があまりなく、進行してから気づくことが多い病気です。 平川さんが再び訪れた時、家族がフィアンセからの手紙を読んで聞かせようとしても、既に芳賀さんには人の話を聴く力はありませんでした。 それでも芳賀さんは家族の手を握り、亡くなったそうです。2020年、2月20日のことでした。

青山葬儀所で葬儀が営まれる

芳賀徹さんの葬儀は2020年2月26日営まれました。場所は東京都の南青山にある青山葬儀所です。 青山葬儀所は1,000人以上の大規模な葬儀も可能。角界の著名人や、国会議員、企業や団体の代表者の葬儀が行われることも多く、由緒ある葬儀所です。 地下鉄、バスの駅からも近くアクセスも良いので、多くの人と親交があり、教え子もたくさんいた芳賀さんには相応しい式場と言えるでしょう。

世界の芳賀と今も偲ばれる

幼少期を山形県で過ごした芳賀さんは、東北芸術工科大の理事、県総合政策審議会の会長職も務めた時期もあります。 山形県知事であった高橋和雄さんは、「博学で能弁。日本だけではなく、世界を見据えた豊かな知識、経験を持つ『世界の芳賀』だった」と語り、突然の死去を悼んでいました。 多くの功績を残された芳賀徹さんのご冥福をお祈りいたします。