井本勇さんの葬儀|佐賀の発展に尽力してきた元佐賀県知事の男
公開日 : 2020/7/21
更新日 : 2020/9/10
元佐賀県知事の井本勇さんは、2018年に92歳で亡くなりました。学園の理事長を務めるなど亡くなるまで精力的に活動しており、死はあまりにも突然だったといいます。どのような人物だったのか、プロフィールや葬儀の詳細をご紹介します。
公開日 : 2020/7/21
更新日 : 2020/9/10
目次
井本勇さんのプロフィール
佐賀県知事として佐賀県の発展に尽力した井本勇さん。県の職員から知事に上り詰め、親しみやすい人柄で愛されました。どのような人生を歩んだのか、まずはプロフィールをみていきましょう。
1947年に佐賀県庁へ入庁
井本勇さんは、1925年に佐賀県唐津市で生まれました。現在の佐賀県立武雄高等学校を卒業後、1947年に佐賀県庁へ入ります。経済部次長や総務部長を経験し、1982年からは副知事を務めました。
1991年から佐賀県知事を務める
1991年に知事選で初当選を果たし、その後は3期に渡って知事を務めます。県職員から知事へと駆け上がったため、井本勇さんは自身のことを「たたきあげの人生」と表現。県民に寄り添う姿勢が多くの人の信頼を集めました。
在任中は佐賀空港の開港や吉野ヶ里歴史公園の整備など、規模の大きな事業を進めて佐賀県の発展に貢献。行動力と決断力のある人物だったことがわかります。
2003年に引退
2003年に知事を退任した際は、後継を指名しませんでした。古川康さんが井本勇さんの次に知事を務め、2015年に退任。2015年からは山口祥義さんが知事を務めています。引退後には旭日重光章を受章しました。
旭日重光章とは、さまざまな分野で功績を挙げた人に授与される旭日章の一つです。宮中で授与式がおこなわれ、天皇陛下が臨席のもと、総理大臣に勲章を授与されます。
2004年から佐賀清和学園の理事長に就任
知事を退任後の2004年に、佐賀清和学園の理事長に就任。佐賀清和学園は1911年に創立した歴史のある学校で、1998年から共学になりました。現在は佐賀清和中学校と佐賀清和高等学校を設置しています。
2018年に亡くなるまで井本勇さんが理事長を務め、その後1年は理事長の席が空いていました。2019年4月付けで、富吉賢太郎さんが新しく就任しています。富吉賢太郎さんは佐賀新聞社の専務取締役編集主幹・論説委員長です。
井本勇さんが理事長の間は、週に3日ほど学校を訪れていました。勉学やスポーツで結果をだした生徒を呼び出し、激励することもあったといいます。ほかに、井本勇さんは認定NPO法人地球市民の会の顧問を務めていました。
認定NPO法人地球市民の会とは、発展途上国の子どもたちを支援する取り組みをおこなう団体です。1983年に古賀武夫さんが設立しました。古賀武夫さんは2008年に亡くなっていて、永久名誉会長に就任しています。現在の顧問は兵庫県知事の井戸敏三さんや衆議院議員の山下雄平さんなどです。
2008年に訴訟を起こされる
佐賀県の発展に尽力してきた井本勇さんですが、2008年に訴訟を起こされています。知事在任中、佐賀商工共済協同組合の粉飾経理を知っていながら放置したことに対して罪を問われました。
佐賀商工共済協同組合が破綻したことで、個人責任を追及されたのです。福岡高裁では責任を認定され、井本勇さんは4900万円を県に支払っています。親しみやすい人柄で愛される一方、部下を守ろうとして県民と衝突することもありました。
2011年には、1993~1997年にかけて佐賀県がコピー機の使用料を水増し請求して裏金を作ったとして市民団体に起こされた訴訟の、控訴審判決がおこなわれています。一審では4400万円の支払いを命じられましたが、控訴審では一審判決が破棄されました。
井本勇さん自身は、不正支出については知らなかったと主張しています。
井本勇さんの主な実績
井本勇さんは知事在任中に、多くの事業に取り組み実績を挙げています。中でも、世界・炎の博覧会・佐賀空港開港・吉野ヶ里歴史公園の整備・嘉瀬川ダム建設は特に大きな事業として注目を浴びました。
それぞれの事業について、詳細をご紹介します。
世界・炎の博覧会を開催
世界・炎の博覧会は1996年に佐賀県内でおこなわれた地方博覧会です。西松浦郡有田町にメイン会場を設けたほか、吉野ヶ里歴史公園や九州陶磁文化館などを会場に使用しました。有田会場は現在、歴史と文化の森公園として使われています。
公園内には岡本太郎が制作したモニュメントが飾られていて、当時に思いをはせることができます。博覧会の来場者数は120万人ほどを見込んでいましたが、実際には250万人以上来場し、大いに盛り上がりました。
地方博覧会が大成功を収めたのは、井本勇さんの気配りや根回しが影響を与えたといえます。
佐賀空港開港
佐賀空港は1969年に当時の知事が建設を表明しました。しかし地元民の反対が根強く、長い間建設は進まず話し合いが難航。井本勇さんは副知事の時代から、建設反対派の人たちと意見を交わして地道に交渉を続けました。
交渉の結果1998年に無事、佐賀空港が開港。現在は国際便も就航する空港となり、多くの人に利用されています。空港建設地となった川副町の元町長は当時について、「井本勇さんでなければ開港は難しかっただろう」と語りました。
井本勇さん自身も、在任中一番の大事業は空港の建設だったと退任時に振り返っています。
吉野ヶ里歴史公園の整備
吉野ヶ里遺跡は佐賀県を代表する観光スポットです。弥生時代の遺跡であり、多くの貴重な出土品があります。1982年ごろに工業団地の開発が計画され、文化財発掘調査をおこなった結果、遺跡を発掘。
本格的な発掘調査によって遺跡の大きさが判明し、1989年に開発計画は中止されました。1992年に国営歴史公園として整備されることが決定。井本勇さんは遺跡の保存に積極的で、遺跡の存在を全国に広めたいと語っていたといわれています。
国営化については県が費用の多くを負担することに決めて、公園の整備を着々と進めました。遺跡を傷つけないように開発がおこなわれ、2001年に吉野ヶ里歴史公園が開園しています。
開園当初の広さは47.3ヘクタールでしたが、2017年には2倍以上となる104ヘクタールまで面積が広がりました。現在も発掘調査は続けられており、吉野ヶ里遺跡は佐賀県の大切な史跡になっています。
嘉瀬川ダム建設
嘉瀬川ダムは高さ97メートル、型式は重力式コンクリートの佐賀県最大級のダムです。1973年にダムの建設が計画されましたが、建設により自宅が水没する住民の反対が強く、工事に着手したのは2005年のことでした。
2012年にダムが竣工し、特定多目的ダムとして使われています。地元住民に対する補償交渉が妥結したのは1995年。嘉瀬川ダムの完成前に井本勇さんは知事を退任していますが、長年ダムの建設計画に携わり、事業を進めました。
嘉瀬川ダムは計画から完成まで40年近く月日を費やしています。地元住民からの反発以外にも、環境保全の観点から慎重に工事が進められたことが長期化の理由です。現在はダムの人造湖である富士しゃくなげ湖が、観光名所として人気を集めています。
井本勇さんの葬儀は佐賀市内でおこなわれた
井本勇さんは2018年4月23日、92歳で亡くなりました。葬儀は佐賀市内でおこなわれています。葬儀の詳細をみていきましょう。
井本勇さんは2018年4月23日死去
井本勇さんは、2018年4月7日におこなわれた佐賀清和学園の入学式で挨拶をするなど、亡くなる直前まで普段と変わらない生活を送っていました。しかし風邪をこじらせ、急性循環不全で2018年4月23日に亡くなります。
急性循環不全とは、血液が体内に行き届かなくなり臓器の血液が足りなくなるものです。意識がもうろうとしたり、顔面が蒼白になったりといった症状があらわれます。井本勇さんは佐賀市内の病院で死去していることから、病院に運ばれてなくなったのでしょう。
葬儀会場はリバース典礼会館東佐賀
葬儀と告別式は2018年4月27日、佐賀市内にあるリバース典礼会館東佐賀でおこなわれました。喪主は長男の井本裕さんが務めています。井本勇さんの死去については、多くの人から悲しみの声が聞かれました。
葬儀に参列したのは参議院議員の山下雄平さんなどです。参列した山下雄平さんは井本勇さんについて「人との縁を大切にし、現場主義を貫く人だった」とSNSに投稿しました。
多くの政治家がコメントを発表
井本勇さんの死去については、佐賀県の政治家を中心に多くのコメントが発表されました。佐賀県知事の山口祥義さんは井本勇さんについて「県政の発展に足跡を残された方」とし、井本勇さんの後に知事を務めた古川康さんは「県に尽くしていただいた」とコメント。
県議会の留守茂幸さんは「力強いリーダーシップだった」、玄海町の町長である岸本英雄さんは「豪腕だが優しかった」と井本勇さんを偲びました。多くの政治家のお手本となる人だったのでしょう。
井本勇さんは県の職員時代から、現場を大事にしていました。現場を訪れて関わる人と話すことによって、心を開きながら事業を進めていき、たくさんの人からの信頼を集めたのです。
井本勇さんは政治家の手本となるような人だった
井本勇さんが死去した際には多くの政治家がコメントを発表し、葬儀に参列しました。常に佐賀県のことを考えながら知事として活躍した井本勇さんは、大型事業を手掛けて佐賀県の発展に貢献した、偉大な人物です。
井本勇さんが成し遂げた事業は、今後も佐賀県の発展に役立っていくでしょう。
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