古川薫さんの葬儀|「漂泊者のアリア」直木賞作家が最後の別れ

公開日 : 2020/7/22

更新日 : 2020/9/10

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幕末や明治維新を舞台にした歴史小説を多く手がけた古川薫さんの葬儀は、下関市内で行われました。葬儀には、300人ほどが駆けつけ別れを惜しみました。古川薫さんは、「漂泊者のアリア」という作品で直木賞を受賞したことのある作家です。葬儀の内容や経歴をまとめました。

公開日 : 2020/7/22

更新日 : 2020/9/10

目次

古川薫さんの経歴

古川薫さんは、山口県出身であることから、長州藩を舞台にした歴史小説を多く執筆した作家です。直木賞の受賞歴もあります。同じく山口県出身の安倍首相と親交がありました。

 

古川薫さんは、どんな人生を送って来られたのでしょうか。1925年生まれということで戦争を経験されていますし、作家になる前には全く違う仕事をしておられました。どんな経歴なのか、ご紹介します。

幼少期から作家になるまで

1925年6月5日、山口県下関市で生まれた古川薫さんは、軍国少年として育ちました。宇部工業学校(現山口県立宇部工業高等学校)の機械科で勉学に励みますが、これは航空機のエンジニアになるためでした。卒業後は日立航空機羽田工場に勤め、特攻に使われた機体などを生産。1945年には、軍隊に召集され沖縄戦に向かう予定でしたが、その前に日本が敗戦を迎え、兵士となることはありませんでした。

 

戦争が終わると、山口大学教育学部を卒業し、一度中学校の教員になります。その後は山口新聞社へ入社。編集局長にまでなりましたが、1965年に「走狗(そうく)」という作品が直木賞候補となり、作家の道を歩んでいくことになりました。

作家として大成

さまざまな職業を経験したのち、ついに作家の道へ進むことになった古川薫さんですが、たくさんの作品を世に送り出しています。作家としての経歴はどのようなものなのでしょうか。

「走狗」が直木賞候補に

文学雑誌である「文學界」の1965年6月号に、古川薫さんの「走狗(そうく)」という作品が掲載されると、それが直木賞の候補になります。走狗は、明治維新の時代を舞台にし、長州藩士の苦難の人生を題材にした作品。直木賞は正式名称を「直木三十五賞」と言い、文学界の権威ある賞で、新人や中堅作家の作品に与えられます。当時、選考委員だった松本清張は「将来もっとも伸びうる人」と評しています。

 

結局、受賞には至りませんでしたが、これがきっかけとなり作家デビューと果たしています。その後も、10回も直木賞の候補に挙げられました。

歴史小説を多く手がけた

山口県出身である古川薫さんは長州史に詳しく、幕末や明治維新を舞台とした歴史小説を多く手がけました。なかでも尊皇攘夷運動で知られる高杉晋作、「松下村塾」を立ち上げた吉田松陰には強い共感を持っていました。海外渡航を企てた罪で投獄される吉田松陰を書いた作品「吉田松陰の恋」は、2010年に「獄(ひとや)に咲く花」というタイトルで映画化されています。吉田松陰は、前田倫良さんが演じています。

「漂白者のアリア」で直木賞を受賞

古川薫さんは、作家人生において10回も直木賞の候補になります。最初が「走狗」で、以後も「女体蔵志」、「塞翁の虹」、「十三人の修羅」、「野山獄相聞抄」、「きらめき侍」、「刀痕記」、「暗殺の森」、「正午位置」、「幻のザビーネ」という作品で候補になりました。直木賞候補に10回も挙げられた作家は他におらず、古川さんが最多記録です。

 

1990年、ついに「漂泊者のアリア」で直木賞を授与されます。最初に候補にあがったのが1965年のことですから、この受賞は25年ごしの実現。また、このとき古川さんは65歳で、直木賞史上最高齢での受賞だと話題になりました。しかし、実は古川さんよりも前に受賞していた星川清司さんが実際よりも5歳若い年齢を公表しており、受賞当時は68歳だったことがわかりました。このため、古川さんの最年長受賞記録は幻になりました。

 

「漂泊者のアリア」は、戦前~戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手・藤原義江を題材にした小説です。直木賞受賞時の評では「手応えを感じた」、「読むうちに主人公に惹かれた」、「主人公を見る作者の目のあたたかさが伝わってくる」といったものが並びました。

数々の作品を受賞

松本清張の評価のとおり、古川薫さんは作家としての才能を開花させ、直木賞のほかにも数々の賞を受賞しました。1965年に山口県芸術文化振興奨励賞[創作部門]、1981年に山口県選奨[創作部門]、1991年に山口県芸術文化振興奨励特別賞、2004年に第63回西日本文化賞[社会文化部門]という受賞歴があります。また、死去後の2019年3月には、下関市名誉市民の称号が与えられました。

 

古川さんのキャリアで特に重要であるのは、「花も嵐も 女優・田中絹代の生涯」という作品で2002年の尾崎秀樹記念・大衆文化研究賞の特別賞を受賞したことです。田中絹代は、古川さんと同じ山口県出身の女優です。それまでは幕末の歴史小説を中心に書いていましたが、近現代の人物を題材にすることにも成功したのです。

 

2010年には「下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館の名誉館長」に就任します。ここでは、田中絹代に関する展示物の他に、古川さんの著書なども展示。また、公式ホームページでは古川さんによる「名誉館長のつぶや記」というブログのコーナーがあり、現在でも読むことができます。

未公開の短編小説があった

2020年1月26日、亡くなった古川さんを偲んで下関市が「拝啓 古川薫さん」という記念誌を発行しました。この中には未公開であった「すまる」という短編小説や、妻で歌人である森重香代子さんが、古川さんについて詠んだ短歌も掲載されています。また、ゆかりの人々からの一言コメントが公募されました。この記念誌は1千部が発行され、下関市内の学校や図書館に配布されました。

 

 

妻は歌人の森重香代子さん

古川さんは、山口県出身の歌人である森重香代子さんとご結婚されています。森重さんはどんな活動をされているのでしょうか。ご夫婦での共著もありますので、ご紹介します。

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森重香代子さんの経歴

古川薫さんの妻は、歌人である森重香代子さんです。森重さんは、大学卒業時の論文で、歌人の宮柊二を題材にした「宮柊二小論」を書いたことがきっかけで、宮柊二が主宰する「コスモス短歌会」に入会しました。1982年には、最初の歌集である「末紫(うらむらさき)」を出版しています。ほかにも「二生(にしょう)」という歌集があります。

 

森重さんは山口県山口市で生まれ育ちましたが、1985年の古川さんとの結婚をきっかけに下関市で暮らすようになります。このとき、古川さんはまだ直木賞を受賞していませんでした。森重さんは下関市で「香臈人(かろうと)短歌会」を発足させ、短歌教室を開いています。2016年には、長年歌人として活動を続けてきた功績が認められ、文部科学大臣が表彰する「地域文化功労者」に選出されました。

夫婦での共著

夫婦おふたりでの共著には、夫婦で山口県内を歩きながら作った歌文集「周防長門はわがふるさと」という作品があります。「周防(すおう)」「長門(ながと)」は旧国名で、今の山口県にあたります。森重さんの出身地である山口市は周防、古川さんの出身地である下関市は長門にあたるため、このようなタイトルをつけたのだと伺えます。

 

また、週刊朝日に掲載された「『お互いが救世主』となった作家と歌人の残り時間の過ごし方」という記事がありますが、こちらも共著です。タイトルから、お二人が仲睦まじい夫婦であったことが想像できます。

古川薫さんの死因と葬儀

古川さんは2018年5月5日に下関市内の病院でお亡くなりになりました。92歳でした。古川さんの死因は何だったのでしょうか。また、葬儀がどんなものだったのか、まとめます。

古川薫さんの死因

古川薫さんの死因は、頭部血管肉腫でした。頭部血管肉腫とは、リンパのうっ滞によって起こる病気で、頭部の怪我が原因になることがほとんどです。皮膚では頭部にしか起こりませんが、血管を通して転移し血気腫などを併発することが多々あります。

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古川薫さんの葬儀

古川薫さんの葬儀は、山口県下関氏にある下関典礼会館で行われました。お通夜は2018年5月6日の18時から、葬儀は5月7日の11時から開始され、喪主はご長男の貴温(きみはる)さんでした。

 

葬儀には、文壇関係者や地元の文化人が300人ほど参列し、最後の別れを行いました。リンゴのブランデー「カルバトス」で古川さんの唇が湿らされましたが、これは生前からご本人が愛飲していたもので、また、古川さんご自身がこのような送り方をご希望されたのでした。さらに、出棺のさいには古川さんが好きだったというベートーベンの「歓喜のうた」が流されました。

 

喪主であるご長男の貴温さんは挨拶のなかで、父である古川さんのことを「さりげない思いやりを常に見せていた」と紹介しました。

古川さんの小説は永遠に

古川薫さんは、作家として成功したあとも、地元・山口県を離れることなく活動していました。長州藩や山口県に関わりのある作品を多く執筆し、地元を愛していたことがよく分かります。しかし、そういった活動がいつしか山口県や下関市から認められるようになり、逆に地元から愛されるようになっていったのではないでしょうか。古川さんのご冥福を、お祈りいたします。