高畑勲さんの葬儀|数々の作品を手掛けたアニメーション界の巨匠

公開日 : 2020/7/19

更新日 : 2020/9/10

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「火垂るの墓」をはじめ数々のジブリ作品、ルパン三世といった国民的アニメーションの制作を手掛けられていた高畑勲さん。2018年4月5日に逝去されてしまいました。今回は、彼が残してきた功績や盟友宮崎監督が委員長を務められた「お別れの会」に関する詳細を紹介します。

公開日 : 2020/7/19

更新日 : 2020/9/10

目次

高畑勲さんの経歴を紹介

アニメーション界の巨匠であり、盟友宮崎駿さんと「スタジオジブリ」を創設された高畑勲さん。彼の生い立ち、そしてアニメーション界にて、彼が築かれてきた経歴を紹介していきます。

高畑勲さんの生い立ち

高畑勲さんは、三重県宇治山田市、現在の伊勢市にて高畑浅次郎の子として生まれました。そこから8年後、高畑さんは岡山市へ転居されます。この時、人生で最も強烈な出来事に遭遇されます。

 

それが、岡山市で発生した空襲です。数多の火の雨や街で溢れる猛火を避ける中で高畑さんは逃げ惑い、家族と逸れてしまう経験をされました。こうした壮絶な経験の中を潜り抜けてきた高畑さん。

 

その後、勉学に励まれ続けた結果、東京大学文学部へ進学されます。入学後はすでに、映画に関わる仕事に携わられていたようです。例えば、在学中にはフランスの詩人プレヴェールが手掛けた「王と鳥」という名のアニメ映画の脚本の字幕翻訳を行われていました。

大学卒業後に東映動画へ

在学中からすでに、アニメーション映画に関係する仕事に関わっていた高畑さん。この時、かれは長編漫画映画「やぶにらみの暴君」と出会います。ちなみに、こちらは「王と鳥の原型となった作品です。

 

こちらの作品に感銘を受けた高畑さんは、卒業後にアニメーション映画製作を仕事にすることを決意されます。そして、東京大学文学部仏文科卒業後、東映映画による演出公募の第一期生として東映映画に入社されます。

 

この時の同期生には池田宏さんがいらっしゃいました。そして、入社後すぐに演出助手として「わんぱく往時の大蛇退治」の制作に参加されます。その経験を経た後、テレビアニメ「狼少年ケン」で見事、演出デビューを果たされています。

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東映映画との離別、Aプロダクションへ

高畑さんは、「狼少年ケン」における功績が大塚康夫さんに認められます。そして、彼の推薦もあって長編漫画映画「太陽の王子 ホルスの大冒険」の演出監督に抜擢されます。そしてこの作品は多くの方から評価を得ることになりました。

 

しかし、作品制作へのこだわりから生まれたスケジュールの大幅超過や予算オーバーにより高畑さんをはじめメインスタッフの多くが作品が受けた高い評価とは裏腹に他のスタッフより低い待遇を受けることになります。

 

この件の影響もあり、宮崎駿さんらと共にAプロダクションへ移籍されます。このプロダクションで視聴率不振にあえいでいた「ルパン三世第1シリーズ」の後半部分の演出を手掛けた他、「となりのトトロ」のルーツである「パンダコパンダ」の演出担当されました。

ズイヨー映像、後の日本アニメーションへ移籍

高畑さんは、上記の作品の演出を終えられた後、当時のズイヨー映像で後の日本アニメーションへ移籍されました。ここで、「アルプスの少女ハイジ」、「赤毛のアン」、「母をたずねて三千里」といった話題作を担当され、その評判がどんどん高まっていきました。

 

上記3作品は、徹底的な海外ロケハンや可能な限り集め続けた膨大な資料を基に作成する気合のいれようだったそうです。それが、リアリズム溢れる作品を生み出された要因だったと言われています。

 

この後、「未来少年コナン」にて初監督の役職に苦しまれていた宮崎駿さんのアシストに力を注がれています。具体的には、数話に渡るコンテや演出を担当することによって宮崎監督の負担を軽減されていました。

この他、テレビアニメ「ドラえもん」を実現

あまり知られていませんが、高畑勲さんは日本アニメーション時代に、テレビアニメ「ドラえもん」を開始実現にも貢献されています。ことの始まりは、Aプロダクション時代に面識のあった楠部三吉郎さんによる依頼でした。

 

「ドラえもん」の再アニメ化に向け藤子・F・不二雄さんと交渉していた楠部さん。この時、楠部さんは藤子さんから再アニメ化を行う上で「どのようにドラえもんを見せるのか」の提示を求められていました。これに困った楠部さんは、高畑さんに企画書作成を依頼します。

 

この時、高畑さんはドラえもんという作品が持つ子供の心を捕まえる力を見ぬき、その上で書かれた企画書を藤子さんに提案した結果、再アニメ化の承諾を獲得されています。こうした経緯から、再アニメ化の立役者とされています。

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テレコム・アニメーションへ移籍

三部作の1つである「赤毛のアン」の制作後は、スケジュールにゆとりがあった高畑さん。その頃、「じゃりんこチエ」の映画化の企画が持ち込まれました。そして、この映画をヒット作に導かれています。

 

その後TV版の「じゃりんこチエ」の制作した後の1981年。テレコムアニメーションへ移籍されます。そして、テレコムアニメーションが社運をかけて制作を開始した日米合作映画の「NEMO/ニモ」の制作に参加されています。

 

この作品は日本側、つまり高畑さん側にノミネートされていましたが、制作体制の問題から1983年に降板されることになってしまいます。その後、テレコム・アニメーションを退社されました。ちなみに、少し前の時期に宮崎駿さんも退社されています。

高畑勲さんと風の谷のナウシカ

退社後、高畑さんは宮崎駿さんを中心として制作が開始されていた「風の谷のナウシカ」のプロデューサーとして制作に携わることになります。この「風の谷のナウシカ」は、皆さんご存知の様に、大ヒット作品となりました。

 

そして、宮崎さんは「風の谷のナウシカ」で得た多額の興業収入を基にして、高畑さん主導の映画作品の制作を提案されます。この提案を受けて制作スタートしたのが、「柳川掘割物語」です。しかし、この作品は宮崎さんの想像を超える巨額の制作費がつぎ込まれました。

 

そして、宮崎さんの自宅が抵当に入ることになってしまいます。この緊急事態を乗り越える案として持ちあがったのが、「天空の城ラピュタ」制作の企画」です。実は、この風の谷のナウシカに始まる一連の流れが、「スタジオジブリ」設立のきっかけとなります。

宮崎駿、鈴木敏夫らとスタジオジブリを創設

上記の流れを受けて、「天空の城ラピュタ」制作に乗り出した高畑さんと宮崎さん。しかし、この時すでに「風の谷のナウシカ」を制作したトップクラフトという制作スタジオはすでに解散状態でした。

 

そんな時、高畑さんが宮崎さん、そして制作チームに帯同されていた鈴木敏夫さんへ「いっその事、スタジオを作ってしまいませんか」と提案されます。この一言がきっかけで、当時プロジェクトに賛同した徳間書店の協力もあって「スタジオジブリ」が設立されます。

 

スタジオ設立後、高畑さんは宮崎さんに請われスタジオジブリへ入社されます。そして、このスタジオで代表作の1つである「火垂るの墓」や「おもいでぽろぽろ」の監督を務められました。

 

 

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高畑勲さんの2000年以後の代表的な活動

2000年以降の高畑勲さんの活躍で、皆さんの印象に残っていると考えられるのは「かぐや姫の物語」ではないでしょうか。こちらの作品は、高畑さんのこれまでの活動の中でも、最も困難を迎えた作品といえるかもしれません。

 

2009年、鳥獣戯画のテイストを基にした長編映画「かぐや姫の物語」制作が報じられました。そして、1年後の2010年。週刊文春のインタビュー時に、高畑さんは「なかなか進まなくて、大分先になっちゃうかもしれませんが」と発言されています。

 

こうした発言からも完成までに多大な苦労があったと考えられる「かぐや姫の物語」の制作。1度の制作延期を経て、2013年の11月23日に公開を迎えられました。そしてこちらが、高畑さんの最期の長編映画完成作品となっています。

 

没後もアニメ界に影響を与える存在

高畑さんが没後にアニメーション界にもたらされた足跡は多数存在しますが、その中でも大きな功績が2つあります。1つ目が、2019年に開催された第91回アカデミー賞にて追悼された件です。こちらの「イン・メモリアル」というコーナーで高畑さんは追悼されています。

 

2つ目が、2019年7月より、東京国立近代美術館にて開催された「高畑勲展」です。こちらの展覧会自体は、高畑さんの生前より企画されていた模様です。しかし、展示内容は当初の物とは違う形式を採用する形になったそうです。

 

高畑さんの生前は、高畑さんが好む作品と高畑さんが手掛けた作品の2つを展示する予定だったそうですが、高畑さんの没後に急遽、回顧展の形式を採用することになったそうです。

高畑勲さんの葬儀

ここからは、高畑勲さんの葬儀、ならびにその後に行われた「お別れの会」に関する詳細を紹介していきます。

近親者のみで行われた葬儀

2018年4月5日。肺がんのため逝去されてしまった高畑勲さん。享年82歳での出来事でした。その後4月9日。近親者のみを集められた葬儀が行われたそうです。密葬の形式を採用されて営まれたそうです。

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葬儀後に行われた高畑勲さんのお別れ会

4月9日に、近親者のみを集めて営まれた高畑勲さんの葬儀。この約1ヶ月の5月15日。盟友宮崎監督が委員長となり、スタジオジブリが主催で「お別れ会」を開催されました。会場は、高畑さんの思い入れ深い「三鷹の森ジブリ美術館」が採用されたそうです。

 

会場の中央祭壇に設けられた祭壇には、宮崎さんの「野に咲く花たちで囲みたい。ただ温かみのある草花たちで包みたい。」との想いで約2000本に及ぶ草花が飾られたそうです。ちなみにこの祭壇には、高畑作品に馴染みのある「紅花」も飾られていたそうです。

 

そして、お別れ会には宮崎さん鈴木敏夫さんをはじめ、大塚康夫さん、久石譲さん、小田部洋一さんらを含む高畑さんに馴染みの深い方々が足を運ばれました。また、午前、午後に分かれて開催された一般の部では約3200人の方々が参列されたました。

日本のアニメ界を牽引された高畑勲さん

火垂るの墓をはじめ、数々のアニメーション作品を世に送り出してきた高畑勲さん。今回はそんな彼が残した功績や彼が迎えた最期に関して紹介しました。アニメーションへの情熱が感じられるお別れの会はまさに彼の思いが詰まったお別れの会になったといえるでしょう。