小笠原明男さんの葬儀|人望が厚く愛溢れる社長が選ぶ葬儀とは
公開日 : 2020/7/19
更新日 : 2020/9/10
芸能事務所「株式会社エー・チーム」の代表取締役社長を務めた小笠原明男さんは、2018年5月8日に都内の病院で62歳で亡くなられました。今回こちらでは、小笠原明男さんのプロフィールと約2000人が参列した葬儀についてご紹介します。
公開日 : 2020/7/19
更新日 : 2020/9/10
目次
小笠原明男さんのプロフィール
いつも笑顔が絶えず、愛が溢れる人柄だったという小笠原明男さんの葬儀についてご紹介をする前に、プロフィールについてご紹介をします。
北海道出身
小笠原明男さんは、北海道で生まれました。芸能の仕事に携わる前は、アパレルの会社に勤務していました。その後、石田純一さんらが所属する「株式会社スカイコーポレーション」に入社をして、石田純一さんらのマネージャーを務めました。
芸能事務所設立
小笠原明男さんは、1996年5月に「株式会社スカイコーポレーション」から独立して、芸能事務所「株式会社エー・チーム」を設立しました。「株式会社エー・チーム」のグループ会社には、「株式会社エー・プラス」、「株式会社エー・ライツ」、「株式会社エー・フィルムズ」があります。
また、エー・チームグループが運営をする次世代タレントや俳優、歌手の育成をする育成スクール「株式会社エー・チームアカデミー」があります。
タレントの関係
ここからは、芸能事務所社長としての小笠原明男さんと、芸能事務所「株式会社エー・チーム」やその他のグループ事務所に所属するタレント、そして事務所が違っていても親交があったタレントとの関係性についてご紹介します。
タレントさん方との関係性から、小笠原明男さんのプロフィールからでは見えてはこない生前の小笠原明男さんの人柄が見えてきます。
伊藤英明
小笠原明男さんは、伊藤英明さんの育ての親と言われています。1993年に第6回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストで準グランプリを取ったことをきっかけに芸能界入りしましたが、当時の事務所との相性が悪いこともあり、伊藤英明さんにとって不遇の時代が続いていました。
一時、芸能界から距離を置き、アルバイト生活をしていた伊藤英明さんに声を掛けて芸能界に戻るように何度も何度も諦めずに誘ってくれたそうです。そして、アルバイトをしないでも暮らしていけるようにと、仕事が無い時でも生活ができるだけの給料を払ってくれていたそうです。
そんな時に芽が出るきっかけを作ってくれたのが、小笠原明男さんだったそうです。伊藤英明さん自身が子供を持ったこともあり、小笠原明男さんのことを自分の父親よりも大きな存在だったことを忘れることなく、今後の俳優としての仕事に精進すると心に決めたそうです。
吉岡真帆
吉岡里帆さんは、小笠原明男さんの葬儀の際に号泣しながらテレビの取材を受けている場面が放送されたこともあり、印象に残っているという人も多いのではないでしょうか。
吉岡里帆にとって小笠原明男さんは、東京のお父さんのような存在で、とても慕っていたそうです。また、小笠原明男さんは、東京のお父さんである以外にも、かっこよく、優しく、人情がいっぱいだと感じていたそうです。
吉岡里帆さんは、小笠原明男さんが大腸がんの闘病中であった2018年の年明けに、お守りを渡したそうです。そのお守りを小笠原明男さんは携帯ケースに入れて肌身離さず大切に持っていてくれたそうです。
DAIGO
DAIGOさんのお父さんも小笠原明男さんと同じ時に同じ大腸がんの病気を患ったそうです。その際に小笠原明男さんは、自分の心配よりもDAIGOさんのお父さんの心配をしてくれたことや、一緒に頑張ろうと言ってくれたことが心に残っているそうです。
DAIGOさんが小笠原明男さんと話したのは、2018年の4月末のことで、話の内容は食事に行く約束だったとのことです。この会話が小笠原明男さんとの最後の会話になったそうです。葬儀当日、出棺の際には伊藤英明さんと共にDAIGOさんも棺を霊柩車へと運びました。
ほしのあき
23歳の時に「株式会社エー・チーム」に所属したほしのあきさんは、本名の星野亜希として活動をしていました。しかし、小笠原明男さんからひらがなの方が覚えてもらいやすい上に柔らかい感じがするとアドバイスをもらったそうです。
このアドバイスをきっかけに、芸名を漢字からひらがなに改名しました。名前を漢字からひらがなに改名をしたことで、大ブレークすることができたそうです。ほしのあきさんは、たくさんの仕事をもらえたことは、小笠原明男さんのおかげだと振り返っています。
また、小笠原明男さんは、ほしのあきさんが朝早くからのグラビアの撮影に行く際には空港まで見送りに来たり、結婚した際には夫である騎手の三浦皇成さんのいる北海道まで挨拶に来たりと、いつも気にかけてくれて、とても優しい方だったそうです。
石田純一
石田純一さんがまだ若い20代のころ、小笠原明男さんが芸能関係の仕事の始まりであった「株式会社スカイコーポレーション」に勤務している際、石田純一さんのマネージャーを担当していました。
石田純一さんがまだ売れていなかったということもあり、二人でよく朝まで飲み歩くほどの仲だったそうです。石田純一さんは、小笠原明男さんが独立をしてからの成功を喜んでいます。
三浦翔平
「株式会社バーニングプロダクション」に所属する三浦翔平さんは、小笠原明男さんの芸能事務所の所属タレントではありませんが、親交があったタレントです。小笠原明男さんと三浦翔平さんの出会いは、映画「海猿」シリーズです。
三浦翔平さんは、小笠原明男さんの体調が悪いことを聞きつけ、2018年の初めに会いに行ったそうです。三浦翔平さんにとって小笠原明男さんは、尊敬する人だったようです。
滝田洋二郎
遺体を棺に納める納棺師を描いた映画「おくりびと」は、小笠原明男さんが企画を滝田洋二郎監督に勧めた作品です。滝田洋二郎監督は、この映画を撮影するにあたり、多くの納棺シーンを撮影したそうですが、小笠原明男さんの納棺の様子を見た時には涙が止まらなかったそうです。
恵俊彰
「ワタナベエンターテインメント」所属の恵俊彰さんはTBSの情報番組で、親交のあった小笠原明男さんの人柄についてコメントを発表しました。小笠原明男さんは、作品をとても愛し、役者も愛し、監督を愛す人であり、笑って現場の雰囲気を明るくしていたそうです。
恵俊彰さんは、映画「おくりびと」が完成した際には、小笠原明男さんが素晴らしい作品が出来たと喜んでいた姿がとても印象的だったそうです。
人望がうかがえる葬儀
約2000人が通夜に、約600人が葬儀・告別式に参列し故人を偲んだという、小笠原明男さんの葬儀について詳しくご紹介します。
小笠原明男さんの最後
小笠原明男さんは、2018年5月8日の午前8時6分に大腸がんのため都内の病院で亡くなられました。小笠原明男さんは、亡くなる3年ほど前に大腸がんを発症して、通院治療をしながらも仕事を続けていました。
2017年には体調を壊して入院する時期もありましたが、2018年に入ってから退院をしています。しかし、亡くなる1週間ほど前に歩行が困難になり、呼吸が乱れて体調を壊したことで再入院をしました。そして8日の朝に急変をし、家族に看取られながらそのまま帰らぬ人となりました。
青山葬儀所にて
小笠原明男さんの通夜は5月11日の午後6時から、葬儀・告別式は翌12日の午前11時から東京都港区南青山にある青山葬儀所にてしめやかに営まれました。喪主は、妻である晃子さんが務めました。
葬儀委員長は、芸能事務所「株式会社ファーンウッド」の田中亨社長、葬儀副委員長は芸能事務所「株式会社レプロエンタテインメント」の本間憲社長らが務めました。
弔辞は、小笠原明男さんをマネージャーとして芸能界に誘った「株式会社グランドスラム」に所属する俳優であり「青空市場」の代表取締役である永島敏行さん、映画監督の滝田洋二郎さん、俳優の岩城滉一さんが涙ながらに行いました。
個性的な祭壇
小笠原明男さんの葬儀での祭壇は、生前に愛したというハワイとゴルフをイメージしたオリジナリティ溢れる祭壇でした。祭壇の中央にはグリーンがデザインされ、18番ホールを表す「18」と書かれたピンフラグが飾られていました。愛用していたキャディバッグも飾られていました。
祭壇に飾られた遺影には、2015年の夏にスペインのマジョルカ島で撮影されたバカンスを楽しむ写真が使用されました。遺影の小笠原明男さんは、白いシャツにダークカラーのハットを被り、サングラスをかけた姿で腰を掛けて、電話をしているという、なんともカジュアルな姿でした。
棺の中には
小笠原明男さんが納められた柩の中には、小笠原明男さんが大好きだったゴルフのグローブや小笠原明男さんが提案したという映画「おくりびと」のポスター、おにぎりが納められたそうです。
出棺の際には、映画「おくりびと」の劇中歌が流されました。
たくさんの人に見送られて
小笠原明男さんの葬儀について詳しくご紹介しました。通夜、葬儀・告別式を通して参列をした人の人数や、各タレントさんとの関係性からみても、小笠原明男さんの人望の厚さがうかがえます。オリジナリティのある祭壇からは、小笠原明男さんの明るい人柄が感じられます。
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