石井義信さんの葬儀|日本サッカーの発展に人生を捧げてきた男
公開日 : 2020/7/18
更新日 : 2020/9/10
2018年4月26日に79歳で亡くなった石井義信さんは、サッカー業界を盛り上げるために人生を捧げた人物です。監督としてさまざまなチームを勝利に導き、多くの人に慕われました。石井義信さんの最期について、詳しくご紹介します。
公開日 : 2020/7/18
更新日 : 2020/9/10
目次
石井義信さんのプロフィール
日本サッカーの発展に貢献してきた石井義信さんは、2018年に亡くなりました。どのように亡くなり、どのような葬儀が営まれたのでしょうか。まずは、石井義信さんのプロフィールをご紹介します。
1957年に東洋工業サッカー部へ入部
石井義信さんは1939年に広島県福山市で誕生しました。福山葦陽高校を卒業後の1957年、東洋工業に入社。東洋工業はマツダの旧社名です。高校でサッカーを始めたばかりの石井義信さんでしたが、サッカー部に入部して練習を積みます。
東洋工業のサッカー部は現在のサンフレッチェ広島で、1938年に旗揚げされた部です。1962年には日本代表に選出され、1962年9月21日のシンガポール戦に出場。同年に開催されたアジア競技大会では、バックアップメンバーに選ばれています。
1965年から日本サッカーリーグ四連覇
下村幸男監督のもと、石井義信さんはサッカー経験が浅いながらも技を磨いていきました。下村幸男監督は東洋工業サッカー部の出身であり、メルボルンオリンピックの代表にも選ばれた人物です。
1965年に発足した日本リーグで、東洋工業は初代王者に輝きます。12勝2分けと圧倒的な強さを見せつけ、同じ年におこなわれた天皇杯でも優勝を果たしました。その後日本リーグでは1968年まで王者の座を守り、石井義信さんも勝利に大きく貢献し続けました。
東洋工業は1968年に日本で初めてアジア・チャンピオンズカップに出場。初出場ながら、10チーム中3位となりました。石井義信さんは出場していませんが、メキシコオリンピックには東洋工業のメンバーが3人選出されています。
メキシコオリンピックは銅メダルを獲得していて、東洋工業の強さを物語っているといえます。
1968年に藤和不動産で選手兼コーチを務める
1968年からは藤和不動産のサッカー部で、選手兼コーチとして活動します。サッカー部は栃木県で新しく発足されたものでしたが、1972年には、わずか4年で日本リーグ1部に昇格を果たしました。
東洋工業の監督である下村幸男さんが移籍してきたこともあり、共にチームの強化に励んだ結果が現れたのです。1975年に藤和不動産サッカー部からフジタ工業サッカー部に改称し、石井義信さんは監督に就任。
1977年に日本リーグ1部で初優勝を飾り、1979年にも優勝。1977年と1979年は天皇杯も制覇しました。フジタ工業サッカー部は、1992年に湘南ベルマーレに改称しています。石井義信さんの作ったチームは攻撃重視で、海外の選手からも信頼されていました。
1980年から日本サッカーリーグの委員に就任
1980年にフジタ工業の監督を退任し、日本リーグの常任運営委員に就任します。常任運営委員は5人ほどで構成されていて、石井義信さんは森健兒さんらと共に日本リーグをプロリーグにするため尽力しました。
森健兒さんは日本リーグの改革を積極的に進め、Jリーグの創設に大きく貢献した人物です。当時選手たちはプロではなくアマチュアと認識されていました。アマチュア規定では選手がスポーツを職業とすることが禁止されていたため、外国人選手を中心に問題となっていたのです。
日本リーグをプロリーグにすることは、日本のサッカーを強くするためにも必要なことでした。
1986年に日本代表の監督に就任
フジタ工業サッカー部を日本リーグ初優勝に導いた石井義信さんは、1986年に監督としての腕を評価されて日本代表の監督に抜擢されます。日本代表の監督は、サッカーの名門大学出身の人物しか就任したことがなかったため、異例の大抜擢となりました。
1988年のソウルオリンピック出場を目指し、練習に励みましたが予選で中国に敗れてオリンピック出場は果たしていません。監督に就任したのが急であり、十分に練習できなかったことが敗退の理由です。
石井義信さんは大きな批判を浴びることになり、1987年に監督を退任。しかし中国に敗退したことで、日本リーグにプロ化を求める声が強まりました。1988年にはプロ化を目指すためのリーグ活性化委員会が設置されます。
石井義信さんも委員会に参加し、1993年にJリーグがスタートしました。Jリーグの発足がスムーズにいったのは、石井義信さんのおかげだとする声が多くあります。
2001年からはFC東京のアドバイザー
1988年から再びフジタ工業サッカー部の監督となり、Jリーグが発足して以降は湘南ベルマーレの取締役強化部長などを務めました。2001年からはFC東京のアドバイザーに就任しています。
2004年からは公益財団法人日本サッカー協会の技術委員会委員を兼務。公益財団法人日本サッカー協会は、Jリーグや天皇杯などの大会を主催する協会です。石井義信さんはグラウンドを訪れて指導をすることから、多くの人に慕われていました。
さまざまな役職についていたことからも、信頼されていたことがわかります。2008年の北京オリンピックの際はアドバイザーとして、すべての試合で予選から現地を訪れています。
石井義信さんの葬儀は詳細が非公表
石井義信さんの葬儀は、日時や場所が非公表でした。どのような葬儀が営まれたかは不明ですが、FC東京が喪章をつけてプレーするなど、多くの人に惜しまれて亡くなったことがわかります。
20018年4月26日に死去
石井義信さんは2018年4月26日、79歳で死去。死因は公表されていませんが、2018年に入ってから闘病生活を送っていたといわれています。亡くなる1ヶ月前には退院して回復の兆しを見せていましたが、現場復帰は叶いませんでした。
葬儀と告別式については非公表
葬儀と告別式については、遺族の意向により日時や場所は公表されませんでした。どのような葬儀がおこなわれたかは不明ですが、告別式には多くの人が参列したことが予想されます。
葬儀は近親者のみでおこなわれたという情報があり、喪主は妻の喜久子さんが務めました。
FC東京は喪章をつけてプレー
石井義信さんがアドバイザーを務めていたFC東京は、2018年4月28日におこなわれた試合で喪章をつけてプレー。応援席にも追悼横断幕が掲出されました。名古屋グランパスを相手に対戦し、3対2で試合に勝利しています。
主将の橋本挙人さんは、インタビューで「石井義信さんは常にチームのことを気にかけてくれていた」と語りました。
湘南ベルマーレの50年史に登場
2018年4月には、石井義信さんが携わった湘南ベルマーレの50年史が発行されました。制作には石井義信さんが協力しています。制作スタッフに、チームの歴史について伝えたほか、昔の新聞や雑誌のスクラップを提供しました。
石井義信さんにとって湘南ベルマーレのとは、というスタッフのインタビューに対して「人生でありふるさと」と答えています。日本リーグや天皇杯で優勝に導いたチームは、石井義信さんにとって大事なものだったのでしょう。
50年史が完成したときには、すでに石井義信さんと面会ができない状況だったといいます。しかし50年史を見て喜んでいたことや懐かしがっていたことが、石井義信さんの妻からスタッフに伝えられました。
命日が同じ石井義信さんと岡村新太郎さん
石井義信さんが亡くなった2018年4月26日は、岡村新太郎さんの5回目の命日でした。岡村新太郎さんはサッカー選手を経て日本代表のコーチを務めた人物です。詳しいプロフィールや2人の関係性をみていきましょう。
岡村新太郎さんとは
1948年に静岡県藤枝市で誕生した岡村新太郎さんは、サッカーの名門校である藤枝東高校でプレーをし、進学先の法政大学でもサッカーを続けました。高校時代から活躍を見せ、大学卒業後の1971年には日本鋼管のサッカー部に所属。
しかし慢性腎炎を患ったことをきっかけに現役を引退し、日本鋼管の一社員として働きながらサッカー部のコーチを務めます。1981年からはサッカー日本代表を指導。2013年4月26日に心不全で亡くなるまで、サッカーに関わり続けました。
石井義信さんと岡村新太郎さんの関係
石井義信さんと岡村新太郎さんの関係は、サッカー日本代表の監督とコーチです。石井義信さんの前に日本代表の監督を務めていた森孝慈さんのときから、岡村新太郎さんは代表コーチとして日本代表を支えています。
森孝慈さんは日本代表をワールドカップ出場まであと一歩のところまで導きましたが、日本代表のプロ化が認められなかったことが原因で退任していました。後任がなかなか決まらない状況の中、ようやく監督に就任する決意をしてくれたのが、石井義信さんだったのです。
監督とコーチの関係にあった2人はよく食事をする仲で、岡村新太郎さんが亡くなってからは毎年欠かさずお墓参りをしていました。仲の良かった2人の亡くなった日が同じであることは、偶然とはいえ運命を感じさせるものがあります。
石井義信さんはJリーグの発展に貢献した人だった
石井義信さんの人生についてご紹介しました。葬儀についての詳細は不明ですが、Jリーグの発展に貢献して多くの人に慕われていたことから、たくさんの人に送り出されたことが予想されます。
日本代表の監督を務めるなど、サッカー界の発展を支えてきた人物でした。
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