加藤廣志さんの葬儀|バスケの街・能代の礎を築いたバスケの人生

公開日 : 2020/7/17

更新日 : 2020/9/9

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能代工業高校のバスケ部を33度の全国制覇に導いた加藤廣志さんが亡くなりました。秋田県能代市をバスケの街にするなど様々な貢献をされてきました。能代工業高校のバスケ部を強くした加藤廣志さんについて詳しい内容をまとめてみました。

公開日 : 2020/7/17

更新日 : 2020/9/9

目次

加藤廣志さんのプロフィール

秋田県にある能代工業高校のバスケ部を無名のチームから強豪チームへと育て上げた加藤廣志さんは、能代市から感謝されるほど、その功績はすごくどのようなバスケットの人生を歩んできたのか加藤廣志さんのプロフィールについてご紹介します。

能代工業高校バスケットボール部監督に就任

加藤廣志さんは秋田県山本郡藤里町出身で、能代工業高校在学中にはインターハイを経験されています。その後、日本体育大学で選手でポジションはセンターでした。大学卒業後は、高校教諭となり、母校である能代工業高校の保健体育教員として赴任します。

 

能代工業高校のバスケットボール部監督に就任してから4年目にして、10年ぶり2度目となるインターハイ出場に導きました。それ以降は全国大会の常連高校となり、1967年には埼玉国民体育大会で初出場初優勝の快挙を成し遂げました。

 

1970年にはインターハイ初優勝し、1975年には史上初の高校三冠を果たします。1985年にはインターハイ7連覇を達成し、多くの功績を残されました。このように多くの功績を残したこともあり、バスケットボールファンを引きつけていました。

小柄でずんぐり体型でも勝てた理由

加藤廣志さんは無名だった能城工業高校のバスケ部をどのように強くしていったのか気になる方も多いです。当時の選手は小柄で決してバスケに恵まれた体型ではありませんでした。しかし、加藤廣志さんは平面バスケットボールをテーマに、泥臭いプレイスタイルを構築します。

 

加藤廣志さんがとにかく力を入れたのは、全力疾走を行うことで粘り強くスタミナで他を上回るように鍛え上げました。リバウンドやルーズボールの粘り強さやオールコートのゾーンプレスからの速攻をチームの武器に身長が高くなくても勝負に勝つ戦力を練りました。

 

バスケは身長が高いほど有利なイメージが強いですが、相手陣内からどんどんプレスをかけてボールを奪っていき、切り替えの速いバスケで一気にゴールを攻める戦略で勝ち進めていきました。ハンディをプラスに変えて戦う方法を様々な教え子に伝えてきました。

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加藤三彦に禅譲し勇退

加藤廣志さんの教え子であった加藤三彦さんに監督を引き継ぎました。平面バスケットボールを基盤にチームの育成に当たりました。スピード&コンビネーションをテーマの他に、速攻と3ポイントシュートを入れた戦略はバスケファンを引き付けていました。

 

加藤三彦さんは能城工業高校時代にキャプテンとして活躍し、三冠を達成されています。社会人時代には全日本メンバーにも選ばれ、選手としても活躍されていました。その後は、教員の道を選び25歳で母校に赴任されました。

 

能代工業高校バスケ部コーチに就任し、1990年に監督として指導を始めます。卓越した指導力により、加藤廣志さんの築き上げたバスケ部に磨きをかけていきました。加藤三彦さんは監督18年間で25回の全国優勝を成し遂げて、2008年3月に退職されました。

加藤廣志さんの死因

加藤廣志さんは様々な功績を残されましたが、亡くなった原因が気になる方も多いです。そこで、死因についてまとめてみました。

肺腺がんで死去

加藤廣志さんは、2018年3月4日に肺腺がんで亡くなりました。入院先の病院で亡くなったということは、病気療養中だったかもしれません。病気の治療や入院に関しては大きく公表はされていませんので、亡くなるまでの経緯は不明です。

肺腺がんとは

そもそも肺腺がんとは、肺のがんの中で最も多く、症状が出にくいのが特徴です。がんが進行していくことで、呼吸器疾患がみられることもありますが、特有の症状を感じることはないことが多いです。また、肺腺がんは脳、骨、肝臓、肺、副腎、リンパ節の臓器に移転しやすいです。

 

肺腺がんになる原因は、現在の医学では不明であり、非喫煙者よりも喫煙者のほうが発生の確率は高く、加藤廣志さんが喫煙者であったかは特に情報がありませんでした。進行する前症状が現れにくいため、気づいたときには遅い場合もあります。

 

日本では肺がんはがん死亡原因のトップであり、7万人以上が肺がんで亡くなっています。抗がん剤による薬物治療や放射線治療などを受けますが、治療法の開発が期待されている分野で、治療も著しく進歩されています。

加藤廣志さんの葬儀

バスケの業界を盛り上げた加藤廣志さんの葬儀はどのようなものだったのか詳しくご紹介します。多くの教え子がいますし、詳しい葬儀の内容をお伝えします。

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葬儀には約700人が参列

2018年3月4日亡くなった加藤廣志さんの葬儀は、14日に能代市のキャッスルホテル能代で営まれました。教え子が多いこともあり、約700人もの方が参列されました。多くの教え子は名将との別れを惜しみ生前の姿がスクリーンで紹介されました。

 

加藤廣志さんの現役時代の活躍を伝えるパネルや表彰状も展示されており、今まで能代工業高校のバスケ部を盛り上げた功績を確認することができるようになっていました。加藤廣志さんの葬儀には、バスケ部のOBの会長以外に能代市長も参列されるほど偉大な方でした。

 

お葬式では、能代市長も弔辞を述べ、能代の礎を築いてくれたことに感謝の意を示しました。能代市の誇りとも伝えており、それだけバスケの街のきっかけを作ってくれた偉大な人物だということが葬儀にも表れています。

能代工高経由し斎場へ

能代工業高校に多くの功績を残してくれた加藤廣志さんは、能代市松美町で火葬が行われました。能代市の萩の台の市斎場で行われ、市斎場に向かう途中で能代工業高校を経由し、多くの部員が車に向かって合掌し、監督にお別れを行いました。

 

部員たちはを歌い、市斎場に向かう加藤廣志さんを見送りました。葬儀でも多くの教え子が参列し、現在の部員も加藤廣志さんの別れを惜しむほど、能代工業高校にとっては偉大な人物だったことがわかります。

 

また、葬儀には全国から多くの教え子が参列し、加藤廣志さんが教えてきたことを再確認されている方もいます。それだけ多くの人に加藤廣志さんは葬儀の時に見送られて、素晴らしい葬儀になったことでしょう。

バスケの街で商店街を活性化

加藤廣志さんが亡くなってからも、能代市がバスケの街で盛り上がるように、様々なイベントが行われました。東北バスケットボール協会会長も歴任されており、バスケが好きな人が訪れるような工夫がされています。

加藤廣志氏追悼特別展を開催

2018年3月9日から4月16日まで「加藤廣志氏 追悼特別展」が開催されました。元秋田県立能代工業高等学校バスケットボール部監督が残した功績や映像、トロフィーなどが展示されました。ここに行くことで、加藤廣志さんが残した業績が分かる展示会になっていました。

 

能代バスケミュージアムで行われ、入場料が無料でしたから多くのバスケファンが訪れていました。加藤廣志さんの遺族が、アルバムやトロフィーなど約50点ほど提供されています。試合中のパネルが展示されたり、インタビューされた雑誌なども閲覧できました。

 

加藤廣志さんの特別展を機に、改めて偉大さを感じてもらうことができる内容になっていました。展示会を見るだけで、「バスケの街づくり」の土台を築いた流れをつかむことができる内容です。

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能代バスケミュージアムでも限定展示会

能代バスケミュージアムが畠町から柳町の中心商店街へ移転し、2020年6月1日にオープンしたのに合わせて、加藤廣志さんのスクラップブックのレプリカなどが秋田県能代市の柳町商店街の10カ所で展示され、33度の全国優勝に導いた偉大な人物で商店街を盛り上げました。

 

加藤廣志さんの選手時代も含まれており、計10年分の画像をスキャンして、展示用にラミネート加工したしたものが展示されました。遺族から寄贈されたこともあり、このように能代市がバスケの街として、さらに盛り上がるようなイベントを取り入れました。

 

加藤廣志さんのバスケの歴史を知ってもらいながら、バスケのファンを増やして商店街を活性化させていけるように、移転後は年間来館者5000人を目指しています。

田臥勇太選手のユニホームも展示

能代工業高校のOBで日本人初のNBA選手となった田臥勇太選手も、能代バスケミュージアムの移転のオープンに当たり、サンズに所属した時のサインが入ったユニホームなどを提供されています。田臥勇太選手は、1年生から即スタメンで能代工業高校で大活躍していました。

 

3年生が主力で大会に臨む学校が多い中、1年生で即スタメンだった田臥勇太選手・菊地勇樹選手・若月徹選手の1年生トリオの他、2年生の畑山陽一選手・小嶋信哉選手によって9冠を達成することができました。

 

このようなバスケの歴史などを展示会で確認することができるオープニングイベントなどを行ったのです。

加藤廣志さんは能代市をバスケの街にした人物だった

加藤廣志さんは秋田県能代市をバスケの街で盛り上げるほど、偉大な功績を残してきた方ということがわかりました。無名のチームも監督の力によって、日本一に33回導いた業績はすばらしいものがあります。

 

亡くなってからもバスケの街を盛り上げようと、遺族も協力的でその歴史はこれからも引き継がれることでしょう。改めてご冥福をお祈りいたします。