辰巳渚さんの葬儀 | 『「捨てる!」技術』の作者を襲った突然の不幸
公開日 : 2020/7/15
更新日 : 2020/9/9
『「捨てる!」技術』がミリオンセラーとなって日本に片付けブームを起こした辰巳渚さん。「家事塾」を主宰し、多くの人のライフスタイルに影響を与えた辰巳さんでしたが、ある日突然彼女を不幸が襲います。それはどのような出来事だったのでしょうか。
公開日 : 2020/7/15
更新日 : 2020/9/9
目次
辰巳渚さんのプロフィール
『「捨てる!」技術』が100万部のヒットとなった辰巳渚さんの最期を知る前に、まず辰巳さんの経歴を確認しておきましょう。
大学を卒業してマーケティングの仕事を始める
辰巳渚さんは2018年6月26日に福井県で生まれました。辰巳さんの母親は専業主婦のため、幼い頃の母の関心は全て姉と辰巳さんに向けられていました。辰巳さんはこれを真綿で首を絞められるように息苦しく感じていたそうです。
辰巳さんが小学生の時に父が亡くなりましたが、それでも辰巳さんは家を飛び出しづらいと感じていたそうです。辰巳さんの一家は東京に移り住み、辰巳さんは都立の立川高等学校を出てお茶の水女子大学文教育学部地理学科に入りました。
辰巳さんは大学を卒業後にパルコに入社し、マーケティング雑誌『月刊アクロス』の編集者になりました。
マーケティングの仕事で自分達には幸せが無いことを悟る
辰巳渚さんはマーケティングを、商品によって人間がどんな幸せを実現できるのかを探す仕事としています。そして今は消費社会なので、買うことで世の中のあらゆるものを手に入れることができてしまいます。
女性の関心事の出産や子育てでも買うことは常に付きまといます。辰巳さんは買うことで手に入る幸せって何なんだろうと考えながら、マーケティングの仕事に従事していたそうです。
そしてマーケティングの仕事を辞める時期には、「私達には幸せが無い」と感じるようになったそうです。ただその頃はまだ、じゃあどうしたらよいのだろう、何が足りないのだろうという所まで考えるには至らなかったということです。
バブル期には本当の幸せが失われていた
辰巳渚さんは1993年に編集者を辞めてフリーになりました。辰巳さんはこの頃も幸せってなんだろうと考えていました。バブル期の豊かな生活を作り上げても、皆が幸せを実感できず何かが足りないと思っていました。
そして幸せとは何かという疑問の答えについて、頭でなく体の感覚で気づきはじめたと辰巳さんは語っています。頭の良い人は心の豊かさを訴えたりしますが、一般の我々は日々の生活から答えを導きださなければなりません。
戦中の焼け跡世代にまで受け継がれていた親から子への生活文化の受け渡しが、自分の母の世代で止まってしまったと辰巳さんは感じていたそうです。そのため自分達は生活基盤のベースが無い世代としています。
『「捨てる!」技術』を執筆
フリーになった辰巳渚さんは、幸せを実現するため、「捨てて整理する」ことで暮らしを見つめ直すというアイデアを抱くようになり、宝島社に本の企画書を持ち込みます。そして出来たのが『「捨てる!」技術』です。
編集を担当した佐藤文昭さんは、最初はヒットの予感がしなかったそうです。なぜなら日本人は物を大事にするのが美徳とされ、捨てるという発想がなく、それに戸惑いや罪悪感を持つ人が多いと思っていたからだそうです。
ところが本を製作している途中に、校正と校閲を担当している30代女性が、この本は役に立つとつぶやいていたのを聞いて、佐藤さんはこれは売れると思ったそうです。新書の購入層は40代男性が主でしたが、女性層を開拓できるのではないかと。
『「捨てる!」技術』が100万部のベストセラーに
辰巳渚さんが執筆した『「捨てる!」技術』は、日本古来からある物を大切にするという美徳を「悪習」と断じています。この本では捨てるための十か条、テクニックを十か条、そして実際の捨て方を、章立てで具体的にわかりやすく解説しています。
『「捨てる!」技術』は大ベストセラーになり、100万部の大ヒットになりました。この本が出る前から断捨離やミニマリストといった必要最低限の物だけで生活する考えは提案されていましたが、辰巳渚さんはそのトレンドの波にうまく乗れたといえるでしょう。
この本により捨てるブームが到来し、NHKでは「あなたは捨てる派? 捨てない派?」といった特集番組が放送され、有名なジャーナリストの立花隆さんが批判することで逆に注目されるようになりました。
ライフスタイル改善のトップリーダーとして活躍
『「捨てる!」技術』のヒットにより辰巳渚さんは人気作家になり、その後はたくさんのライフスタイル系の本を発表しています。続編の『「暮らす!」技術』や子を持つ親の立場からの育児本など30冊以上の本を執筆しました。共著も多数があります。
そして2009年からは「家事塾」を主宰し、主婦が幸せに生きるための実践法を指導しています。実際にご家庭に伺って捨て方などをアドバイスするコンサルティングも行っていました。
家事とは家庭で親から子へ受け継がれるものという印象がありますが、先に述べたように日本の家庭はそれが途絶えていることと、古来からある悪習を打破することを目的として、辰巳さんの家事塾は始まりました。
「家事塾」の目的とは
辰巳渚さんは家事を、掃除・洗濯・料理することというだけでなく、もっと広い意義で「家の事、暮らす事」として捉えて、それを多くの人に指導しました。またそもそも、古来より全ての家事は家庭内だけで閉じていたものではありませんでした。
丁稚奉公のお手伝いさんや庭師、そういったプロの人も家事を受け持っていました。また主婦は下町の八百屋や魚屋の店主から料理の秘訣をきいたり、酒屋から美味しいお酒とつまみの知識を得たりしていました。戦中までの日本はそれが当たり前で、それも広義の意味での「家事」でした。
ところが戦後の日本はそれを家庭の主婦一人だけの仕事に閉じ込めてしまいました。そのせいで家庭が破綻して上手く生活出来ない人、育児放棄する母が出るといった事態にまで至りました。
辰巳さんの家事塾は、暮らしを共有する場を家庭の中だけで押し込めず、戦前のようにもう一度「家事」を家庭の外に押し広げることを目的として起こされたのです。
辰巳渚さんを突然の不幸が襲った
ベストセラー作家となり、家事塾を主宰して、ライフスタイルクリエイターとしての地位を確立し、これからも活躍が期待されていた辰巳渚さん。ところがそんな辰巳さんに不幸が襲い掛かったのです。
バイク事故により非業の死を遂げた
辰巳渚さんは亡くなる1年前に二輪の免許を取り、3か月後に大型に上がりました。そして亡くなる直前に大型バイクを購入しました。そして早速、夫の加藤秀一さんとツーリングに出かけたのです。辰巳さんは国道146号に向かいました。
そして軽井沢町長倉の難所と言われる29号カーブで、反対車線の軽自動車と正面衝突してしまったのです。ここは左に曲がるヘアピンカーブで、辰巳さんは大型バイクを制御しきれなかったのでしょう。辰巳さんは事故により意識を失いました。
辰巳さんは佐久市の病院に運ばれましたが、事故から5時間後に全身打撲で亡くなりました。2018年6月26日、まだ52歳での無念の死でした。大型バイクに乗ることは自立した女性を象徴する行為と言えますが、それにより亡くなったのは残念でなりません。
男と女は対等と語っていた辰巳渚さん
辰巳渚さんは29歳で結婚し子供を設けましたが、それにより家庭が出来てむしろ生活が楽になったと感じていたそうです。家で手を動かして家事をすることで、地に足がついて落ち着いた気持ちになることが出来ると言っています。
またこれから女性がもっと働いて稼ぐようになったら男性は働くモチベーションを保てるだろうかと疑問を呈しています。また落語に出てくる江戸時代の女性はとても強くて、シンパシーを感じるとも言っています。
辰巳さんは男と女は昔から対等で、フェミニズムと言った借り物の言葉を持ち出す必要はないと断じています。そういった思いから大型バイクにチャレンジしたのでしょうが、それで命を落としてしまったのはとても悲しいことですね。
辰巳渚さんのお別れの会には数百人の方々が訪れた
不幸により52歳で短い人生を閉じた辰巳渚さん。その葬儀やお別れの会はどのような様子だったのでしょうか。
通夜と告別式は近親者のみでとり行われた
辰巳渚さんの通夜と告別式は近親者のみで営まれました。喪主は夫の加藤秀一さんです。辰巳さんの遺族は、お葬式は親しい間の人だけで静かに見送りたかったのでしょう。なお秀一さんは後に、辰巳さんは片付けの人として捉えられるのを嫌がっていたと話しています。
秀一さんによると辰巳さんは自立の人と言われたかったとのことです。辰巳さんは「人生に漕ぎ出す準備をしている人」であり、捨てるということは人生のゴールではなく準備にすぎないのです。
お別れの会は数百人の方々が集まった
辰巳渚さんのお別れの会は7月1日午後1時半から、東京都台東区西浅草の浅草ビューホテルの3階の祥雲の間で行われました。会場には辰巳さんの遺影と、それを彩る紅白の花が飾られ、遺影の前には位牌と遺骨とお神酒が設置されました。
祭壇に赤い花が飾られたのは、辰巳さんが赤い色が好きだったからとのことです。会場には椅子に座りきれない程の数百人の方々が集まったそうです。
会場では夫の加藤秀一さんが思い出を語り、参加した方々は辰巳さんがもういなくなったことを実感して、気持ちの整理をすることができたようですね。
辰巳渚さんは自立する女性を体現した人だった
辰巳渚さんの生涯とその最期を紹介しましたが、読まれた方はどのような印象を抱かれましたでしょうか。辰巳さんの人生は52年と短かったのですが、自立する女性を印象づけ、多くの女性を勇気づけたことでしょう。できることならもっと長く生きていて欲しかったですね。
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