いか八朗さんの葬儀|映画「テルマエ・ロマエ」などに出演した俳優

公開日 : 2020/7/17

更新日 : 2020/9/9

いか八朗さんの葬儀|映画「テルマエ・ロマエ」などに出演した俳優のサムネイル画像

いか八朗さんは映画「テルマエ・ロマエ」などに出演した俳優です。タレントやリポーター、お笑い芸人た漫談家、また作曲家としての活動もされました。マルチな才能にあふれたいか八朗さんが亡くなるまでの人生や葬儀についてご紹介します。

公開日 : 2020/7/17

更新日 : 2020/9/9

目次

いか八朗さんのプロフィール

いか八朗さんは、2018年5月26日に亡くなりました。享年84歳でした。映画や舞台、テレビドラマに数多く出演しとても味のある演技で活躍いた「俳優」というイメージのいか八朗さんですが、元々は作曲家や芸人としても活動していました。 「役者は売れなきゃ意味がない」が口癖で、若手の俳優の面倒見がとても良く、周囲からは愛される存在だったいか八朗さんが、芸能界においてどのような活動をしてきたかそのバラエティーに富んだ人生を振り返ってみます。

22歳で作曲家として日本マーキュリーレコードに入社

いか八朗さんは、1934年4月12日に高知県土佐郡土佐町に生まれます。18歳の時に上京し、22歳の時作曲家として日本マーキュリーレコード社に入社しました。 実はいか八朗さんの特技は、ウッドベースやサックス演奏だったので、音楽は元々好きだったのだと思われます。 入社後は、いか八朗さんの本名である「近藤角悟」ならぬ「近藤覚悟」の名前で「ボインちゃん」亜島圭二さんの「その名は亜希子」そしてビートきよしさんの「タマランロック」を作曲し、レコードが発売されました。 亜島圭二さんの「その名は亜希子」は、誰もが知っている「石原裕次郎」さんが歌う予定だったという話もありましたので、作曲家としての才能はあったのだと思われます。 作曲家としても活躍をしたいか八朗さんですが、1963年の時には、俳優に転身します。俳優に転向した後は、「拝啓天皇陛下様」や「風林火山」などの映画に出演しました。

「コント東京ギャラントメン」のメンバーとして活躍

いか八朗さんは、作曲家そして俳優業をしたのち浅草松竹演芸場で師と仰いだフランケン卓山さんがリーダーを務める「コント東京ギャラントメン」のメンバーとして活躍します。 いか八朗さんがメンバーとして所属した「コント東京ギャラントメン」は当時人気の伝助劇場の前座を任されていた、お笑いグループでした。

ご不明点は、ぜひ
ご相談・お問い合わせください
お客様にピッタリの斎場探しをお手伝いさせていただきます。
見積もりページへ飛ぶ見積もりページへ飛ぶ
freecall-bannerfreecall-banner

36歳から漫談を始めた

1970年からは漫談を始めたいか八朗さん。靖国神社の例祭である「みたままつり」では、特攻隊に所属していたいか八朗さんの実兄の話を再現した「戦記漫談」を13年間続けました。 この漫談のクライマックスの「天皇陛下のために死ぬのではない!」というセリフが物議を呼び、ヤジが飛んだこともあったそうですが、いか八朗さんはそんなヤジなど気にも留めず最後まで漫談を続けたそうです。

40歳で再び俳優に転身し、映画やドラマ・CMなどで活躍

「コント東京ギャラントメン」で活躍した1974年に再び俳優に戻り、昭和の名俳優である三船敏郎さんが設立した「三船プロダクション」に所属し、数多くの映画や舞台・テレビドラマ作品に出演しました。 いか八朗さんの代表作である映画「テルマエ・ロマエ」では銭湯にいる老人役(平たい顔族)を演じ、続く2014年には「テルマエ・ロマエⅡ」に再び出演。お風呂の中で北島三郎さんの「与作」を歌い、圧倒的な存在感のある演技で話題となりました。 また、CMにも出演したいか八朗さんは、いか八朗さんは、2014年から2017年まで「カレーメシ」のCMに出演しました「いか八朗もビックリ!」「たまげた~」のセリフはとても印象的でした。

78歳の時に引退宣言

いか八朗さんは、芸能生活55周年を迎えた2012年末に突然の引退宣言を発表しました。2013年4月には、東京都豊島区で引退寄席を開催する予定でしたが、結局行われなかったようです。 しかし引退宣言した後も、CMに出演し元気な姿を見せてくれたいか八朗さんは、完全に引退をしたわけではなかったようです。

いか八朗さんの芸名は「故・たこ八郎」さんが由来だった

「いか八朗」という芸名は、1985年に亡くなった元ボクサーでコメディアンで俳優のたこ八郎(享年44)さんに似ていたことが由来です。 いか八朗さんは、芸能活動をしてしばらくは本名で地道に活動していましたが、当時所属していた事務所のマネジャーからたこ八郎さんにソックリだといわれモノマネを始めたことをきっかけにCMや雑誌などで取り上げられ知名度が上がりました。それからしばらくして、たこ八郎さんが怒っているというウワサを聞いて挨拶に行ったら「いいよ」と許してくれたそうです。 いか八朗さんとたこ八郎さんは芸名をつける以前から接点があり、たこ八郎さんがすごく売れている時期に日本と香港でダブルブッキングしてしまったことがあった時、いか八朗さんが「たこ八郎さんの影武者」として香港で撮影に臨んでもバレなかったくらい似てい ました。 その後たこ八郎さんに『いか八朗』と名乗っていいでしょうか?と頼み込んで名乗らせてもらったそうです。

街の清掃活動に意欲的に取り組んだ

2004年ごろから、いか八朗さんは巣鴨~池袋まで歩いてゴミ拾いをするのが習慣でした。ハリウッド俳優の「ショーン・コネリー」さんにが来日した時に、道路にゴミが落ちているのを見て「汚い」と言ったそうで、その言葉に触発され、ゴミ拾いを始めたそうです。 ゴミ拾いをしているいか八朗さんに遭遇した人は数多くおり、あった人には「ゴミを拾うことは健康にいい!霊感がさえて競馬が当たる」と話していたそうで、誰にでも気さくに話をする親しみのある方でした。

晩年は、施設や老人ホームで暮らしていた

いか八朗さんは晩年、個性的なビンボーさんを紹介するバラエティー番組「銭形金太郎」に出演、当時住んでいた古びたアパートでの生活ぶりを公開していました。レポーターとして取材に訪れた強烈なツッコミで有名なくりぃむしちゅー上田晋也さんも、いか八朗さんの「かなりのマイペースな生活ぶり」にノックアウトしていました。 2012年には「銭形金太郎」で紹介されたいか八朗さんの部屋があまりにも汚いとアパートの大家さんと大喧嘩したあげく出ていくように言われ、その後はNPO法人「エス・エス・エス」運営の施設で生活を始め、2014年には老人ホームへ転所し生活をしていました。

いか八朗さんの最期の様子について

2014年から群馬県の介護老人保健施設で生活をしていたいか八朗さんですが、施設に入所した頃には耳も遠くなっていたうえに「認知症」を患っていたといいます。 認知症を患いながらも舞台に立ち「漫談」を披露することもあったいう、いか八朗さんはどのような最期をだったのかをお伝えします。

ご不明点は、ぜひ
ご相談・お問い合わせください
お客様にピッタリの斎場探しをお手伝いさせていただきます。
見積もりページへ飛ぶ見積もりページへ飛ぶ
freecall-bannerfreecall-banner

死因は老衰だった

いか八朗さんの死因は、老衰でした。老衰とは、加齢に伴って、さまざまな身体機能が低下し、多機能不全により生命活動の維持ができなくなり高齢者で他に記載すべき死亡の原因がない、いわゆる自然死の場合には、死亡診断書に直接的死亡原因として「老衰」と記載されます。 いか八朗さんは、2018年4月上旬からは肺炎を患い入院していました。それから1カ月後の5月22日に病院を転院しましたが、その時には会話はもうできない状態だったといいますのでかなり衰弱していたのではないでしょうか。そして、転院からわずか6日後の5月28日午前10時3分に息を引き取りました。

眠るように天国に旅立った

いか八朗さんの最期は「眠っているような安らかなお顔で呼吸と心臓が止まっていた」そうです。生涯独身で家族もいなかったいか八朗さんは、1人で静かに苦しむこともなくひっそりと眠るように天国へと旅立ちました。

訃報は所属事務所の公式サイトで伝えられた

いか八朗さんの訃報は、所属事務所である「Eja9(いいじゃナイン)」の公式サイトで発表されました。 所属事務所の山田大策代表は、「天国のテルマエに旅経ちました。きっと天国のテルマエ(温泉)に浸かってヘイヘイホー♪とニコニコ歌っていたのかもしれません。」と訃報を伝え、所属俳優だったいか八朗さんへの愛情が伝わってくるような報告となりました。 訃報を伝える文章の最後にはいか八朗さんの通夜等の日程が記載されており、「御時間がございましたら、いか八朗のお顔を見に来て頂ければ幸いです。」と最後までとても温かい文章でいか八朗さんの訃報について綴られていました。

いか八朗さんの葬儀について

眠るように安らかなお顔で天国へ旅立たれた、いか八朗さんの葬儀はどのような形で行われたのかご紹介します。

葬儀という形ではなく「お別れ会」を行った

いか八朗さんの葬儀は、「お別れ会」という形で6月2日、東京都練馬区にある江古田斎場で行われました。喪主は、所属事務所「Eja9(いいじゃナイン)」の山田大策代表が務めました。 お別れ会には、いか八朗さんと親交のあった方たちがたくさん参列しました。会場には、いか八朗さんが愛用していた腕時計や、「いか八朗」と書かれた帽子などが飾られ故・いか八朗さんを偲びました。 また、参列者たちには「見守っているぞ~、頑張れよ~」という言葉と共にいか八朗さんのイラストが描かれた手ぬぐいが引き出物として配られました。

「小柄でかわいいおじいちゃん」として親しまれたいか八朗さん

いか八朗さんは「作曲家」「お笑い芸人」「漫談家」そして「俳優」として長年芸能界で活躍しました。 「とても小柄で笑顔の可愛らしいおじいちゃん」として多くの方から愛され親しまれたいか八朗さんは、「天国のテルマエ」で楽しく過ごされていることでしょう。改めて、いか八朗さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。