月亭可朝さんの葬儀 | 「嘆きのボイン」がヒットした破天荒な落語家

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2020/9/5

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「嘆きのボイン」という大ヒット曲で社会現象を起こし、本業の落語でも大きな功績を残した月亭可朝さん。しかしその陰では様々なスキャンダルや選挙での落選といった挫折もありました。波乱の人生を送った可朝さんの葬儀はどのような様子だったのでしょうか。

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2020/9/5

目次

月亭可朝さんのプロフィール

落語家としてスタートしながら、大ヒット曲を出すなど破天荒な活躍をして、落語家がマルチに活躍する道筋を作った月亭可朝さん。その葬儀の様子を知る前に、可朝さんの経歴を確認しておきましょう。

落語界に入門し、月亭可朝を名乗る

月亭可朝さんは1938年3月10日に神奈川県に生まれました。本名は鈴木傑(まさる)です。可朝さんは大阪に移り住み、府立城東工科高等学校を卒業後に大学受験に失敗してしまいます。その後、1958年に3代目林家染丸に入門し落語家を目指すことになりました。

 

可朝さんは林家染奴の高座名を頂いて、1959年4月に大阪市の千日劇場で初舞台を踏んでデビューしました。しかしその後すぐに破門されてしまいます。1961年には3代目桂米朝に再入門し、2代目桂小米朝と改名しました。この頃の可朝さんは古典落語家としてのみ知られていました。

 

1967年に可朝さんが所属している吉本興業の社長が、名前に「小」とつく吉本所属の落語家に改名を要求し、これをきっかけに可朝さんは月亭可朝と名乗るようになりました。月亭という号はそれまで途絶えていたため、可朝さんが復活させたということです。

自ら作詞作曲した『嘆きのボイン』が80万枚の大ヒット

月亭可朝さんは1968年のなんば花月での襲名披露において、舞台上の棺桶から飛び出して、桂小米朝から月亭可朝への生まれ変わりをアピールするという芸を見せました。これ以後、可朝さんは個性的な落語家としての存在感を増していきました。

 

可朝さんは1969年からは当時のフォークブームに乗って歌の仕事もこなすようになり、即興で歌った『嘆きのボイン』が80万枚の大ヒットとなりました。この曲を小学生が歌いボインという言葉が広まるなど、社会現象にまでなり、可朝さんは歌をリリースしたコメディアンの先駆者になったのです。

 

この曲の大ヒットで可朝さんはテレビに引っ張りだこになり、超売れっ子タレントとなりました。その芸風が下品と批判されることも多かったのですが、後に笑点の共演をきっかけに親友となった立川談志さんは常に可朝さんを擁護しています。

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スキャンダルによる仕事の降板が多かった

ところがブレイクした直後の1971年、月亭可朝さんは参議院の選挙に無所属で出馬しました。同じく立候補した立川談志さんの応援演説をすることになり、自らも出馬したいと思うようになったのです。これにより公職選挙法の規定によりテレビ番組は全て降板になってしまいます。

 

また可朝さんはラブホテルで結婚の約束をしたのに反故にされたと、女性から訴えられました。ラブホテルの約束は無効と言う判決で可朝さんは無罪となりましたが、1979年には間寛平さんとともに野球賭博で起訴されてしまいます。

 

こういったスキャンダルのため可朝さんは仕事の降板が多く、人気者でありながらテレビにはあまり出られず、落語家としての活動以外は主に映画に出演していました。

 

本業の古典落語家としても活動

月亭可朝さんは政治活動を諦めず、2001年にも参議院の選挙に比例区で出馬していますが、やはり落選しています。また大阪市議会の選挙にも出馬しています。

 

ただし可朝さんは本業の古典落語家としての活動もずっと行っていて、2008年には天満天神繁昌亭の高座で『住吉駕籠』を演じました。『怪談市川堤』といった本格的な会談も演じています。何人かの弟子もいて、孫弟子には月亭方正(山崎方正)さんがおり、2011年に笑点で共演しています。

 

しかし可朝さんは2008年にまたスキャンダルを起こしてしまいます。それがストーカー事件です。

ストーカー規制法で逮捕されるも復活を遂げる

月亭可朝さんは2008年に交際していた女性が浮気していたことに立腹し、女性に十数回の電話をかけ、浮気の関係を暴露した手紙を送付します。そして女性の通報により可朝さんは8月12日にストーカー規制法で逮捕されました。

 

可朝さんは罰金30万円の略式命令を受けて納付し、8月28日に釈放されました。その時に嘆きのボインの曲に合わせて釈明したため、マスコミから反省してないとバッシングを受けました。しかし後の会見で、この事件により逆に仕事が増えたとめげない様子を見せています。

 

可朝さんはこの事件で一時謹慎していましたが、2009年1月にはまた高座に復帰し落語家としての活動を再開しています。2017年には新曲「嘆きのボイン2017」やベストアルバムをリリースしています。

月亭可朝さんの最期

スキャンダルや選挙の落選といった逆風にもめげずに活躍していた月亭可朝さんですが、いつしかその体を病魔がむしばんでいたのです。

 

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体調が悪い中、仕事をこなしていた月亭可朝さん

月亭可朝さんとほぼ同期で親しく、笑点のレギュラーの林家木久扇さんは、可朝さんは亡くなる前の年から体調が悪化していたとコメントしています。一緒に落語の高座に出た時に可朝さんはギターを持っていましたが、嘆きのボインを歌おうとした時に仰向けに倒れてしまったそうです。

 

その時は歩き方も普通ではなく、可朝さんは腰が痛いので良い医者を紹介して欲しいと木久扇さんに頼んだそうです。その高座の打ち上げでも可朝さんは酒好きだったのにほとんど酒が飲めず、木久扇さんはとても寂しく思ったとのことです。

 

そして可朝さんは2018年の3月28日に急性肺線維症により、兵庫県内の病院で80歳で亡くなりました。亡くなる直前まで体調が悪い中、仕事に励んでいた可朝さんはさぞ無念だったことでしょう。

月亭可朝さんのお別れの会は70人の落語関係者が集まった

月亭可朝さんの葬儀はどのような様子だったのでしょうか。お別れの会は可朝さんらしい演出がされて、多くの落語家がその死を悼んだようです。

葬儀は遺族の意向でこじんまりとした規模になった

月亭可朝さんの葬儀は近親者のみで家族葬として行わました。可朝さんの妻は落語協会にその死を連絡しなかったため、死後も可朝さんの元に仕事が舞い込み、その後に協会に死を伝えたことでようやく周知されました。そのため弟子の月亭八方さんすら師匠の死を知らなかったそうです。

 

そこで八方さんは可朝さんのお別れの会を可朝さんの妻に提案して了承されましたが、妻の「そっとしてほしい」と言う意向で、香典や献花は固辞し、遺影は小さめとしました。ただし一般者も参列は可能で、嘆きのボインを会場で流すことにしました。

 

そのため4月24日に開かれた可朝さんのお別れの会は、有名人の催しとしては規模が小さなものになりました。それでも多くの方が訪れ、ニュースでも報道されたのです。

お別れの会では粋な演出がされた

お別れの会は4月24日に大阪市福島区の八聖亭で開かれました。会場の祭壇は高座で使われる月亭可朝と書かれた「めくり」が設置され、中央にはトレードマークのカンカン帽をかぶった可朝さんの遺影、その前には高座台、背後には提灯、両側には門弟一同の花が飾られました。まるで可朝さんが落語をしているような演出がされたのです。

 

会場は嘆きのボインが流れ、桂文珍さんや立川談春さんらの上方落語関係者や門弟ら70人が集まりました。参列した桂米団治さんは、可朝さんは破天荒でしたが、お笑いの気概は正しいものを持っておられたと思いますと、可朝さんを懐かしみました。

 

可朝さんの弟子の月亭八方さんは、師匠はピリピリしている場でもパンツ一枚で走ったりといつも人と違うことをしたがる人で、まさに破天荒だった、新しい落語の見せ方をやっておられたと讃えました。

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師匠に複雑な思いを抱いていた月亭八方さん

月亭八方さんはさらに、ギャンブル三昧人生を記した月亭可朝さんの自伝をお別れの会の前日に読み返し、改めてこの人は幸せだと思ったこと、弟子入りして初舞台前に師匠からネタは忘れても大きな声を出すことは忘れるなと指導を受けたことを語りました。

 

また師匠から人生は博打場という教訓を受けて、それが今も心に残っていることを懐かしそうに語りました。そして師匠に成仏をせずにこの大阪の街をこれからもうろうろしていて欲しいという気持ちを語り、締めたとのことです。

 

八方さんは亡くなる3年前辺りから可朝さんと連絡を取ることが無く、スキャンダルの多い師匠に対し複雑な思いを抱いていたようですが、それでも亡くなってしまうと万感の思いがこみあげてきたのでしょう。

月亭可朝さんを讃えた立川談春さん

月亭可朝さんと親しかった立川談志さんの弟子の立川談春さんは、可朝さんと談志さんとの深い関係があったことで、自分も可朝さんから落語の本道・王道を学ぶことが出来た数少ない人でしたと、可朝さんを讃えました。

 

また談春さんは可朝さんを、本職の人は分かっていることだが、落語家として素晴らしい技術を持っている人だったと評価しました。ただしシャイな性格のためその高い技術をそのまま出すことが少なかったとも語りました。

 

談春さんも勝負事が好きで、可朝さんのように勝負事を通して人間を観察する方が、ストイックに落語の勉強をするよりもいざという時に役立つことを身をもって教えてくれたと感謝の言葉を述べました。そして自分にとっては談志師匠に無い物を教えてくださる尊い師匠だったと、可朝さんを最大限に讃えました。

月亭可朝さんは破天荒な落語家だった

月亭可朝さんの波乱の人生とその最期を伝えましたがいかが感じましたでしょうか。可朝さんは「嘆きのボイン」という大ヒット曲を生み出し、本業の落語でも活躍しましたが、様々なスキャンダルも引き起こしました。それでも落語界に大きな足跡を残したのは確かでしょう。