中沖豊さんの葬儀 | 「ミスター新幹線」と呼ばれた富山県知事

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2020/9/8

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富山県知事を6期24年間勤めあげ、北陸新幹線のフル規格による東京と敦賀間の開通を実現させた中沖豊さん。それ以外にも富山県の発展のために多くの功績を挙げ、知事退任後も長く富山県民に慕われました。そんな中沖さんの最期はどのようなものだったのでしょうか。

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2020/9/8

目次

中沖豊さんのプロフィール

富山県知事として北陸の発展に大きく貢献した中沖豊さんの葬儀について触れる前に、まず中沖さんの生涯について知っておきましょう。

 

富山県知事として活躍した中沖豊さん

中沖豊さんは1927年9月16日、富山県富山市で生まれました。富山高等学校から東京大学に入り、法学部を1950年に卒業しています。そして地方自治庁に入り、各省庁の課長や部長を歴任しました。

 

そして1980年、現職の知事の死去による出身地の富山県の知事選に立候補し、見事に当選しました。その後は「いい人 いい味 いきいき富山」を掲げた観光キャンペーンや新幹線・自動車道・空港の整備、高度リハビリ病院の設立、地方万博や国民体育大会の誘致を行いました。

 

富山県知事を6期務めた中沖さんは新幹線の建設促進同盟会長として北陸新幹線に力を入れていたことから、「ミスター新幹線」と呼ばれるようになっています。

富山県にとって悲願だった北陸新幹線

北陸新幹線とは東京から高崎、長野、富山、金沢を経由して敦賀に至る路線です。中沖豊さんが1980年に知事になるより前から計画がありましたが、国鉄の経営悪化やバブル崩壊といった悪条件が重なり計画はスムーズには進みませんでした。

 

1998年に長野オリンピックの開催が決定したことで、その前年に東京と長野間の新幹線が開通しました。これは本来は北陸新幹線であるはずなのに、長野新幹線と呼ばれるようになってしまいます。そしてそこから富山・金沢・福井までの延伸は遅々として進みませんでした。

 

北陸新幹線が完成するまでは、東京から富山に行くにはまず上越新幹線で新潟まで行き、そこから特急に乗る迂回ルートで4時間もかかっていました。北陸新幹線の延伸は富山県にとって死活問題だったので、富山県知事の中沖豊さんは延伸のために尽力しました。

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北陸新幹線のフル規格化のために戦った中沖豊さん

しかし不景気は続き、長野からの路線はフル規格の新幹線ではなく、東北新幹線のように普通の線路を走るスーパー特急方式とする暫定計画が1992年に決まってしまいます。

 

中沖豊さんはこれに猛反対し、政府やJRと徹底的に交渉しました。その結果1998年にはやはりフル規格とすると変更され、2001年にようやく延伸路線が着工しました。そしてついに2015年、東京から金沢間が開通し、北陸新幹線が完成したのでした。

 

これにより東京から富山間は2時間8分で行けるようになり、試乗会の時の中沖さんは本当にうれしそうだったということです。施工を担当した鹿島建設の顧問との対談では、中沖さんは「この開業は関係者の血と汗と涙の結晶。万感胸に迫ります。」と述べています。

中沖豊さんの活躍はドラマにもなった

北陸新幹線がフル規格になったのは中沖豊さんの力によることを誰もが認めており、これが中沖さんが「ミスター新幹線」と呼ばれる所以になったのです。

 

2004年にテレビ東京で「新幹線をつくった男たち」というドラマが放送されました。これは伝説の鉄道エンジニアと言われる島秀雄さんが主役の物語です。これに俳優が演じた中沖さんも登場します。

 

中沖さんの役者はドラマで「フル規格にしないのは絶対に許さない、やるならやりかえす」と啖呵を切りますが、中沖さんは富山のために戦ったヒーローと言えるでしょう。

県民から強く支持されていた中沖豊さん

知事選の候補は党のカラーを払拭するため無所属で出馬するのが通例ですが、中沖豊さんは5期までは自民党単独公認で立候補しています。中沖さんが自民党を支持しない県民からも選ばれていたことが伺えます。

 

中沖さんの6度の選挙は全て日本共産党公認・推薦候補者との一騎打ちでした。誰が出ても中沖さんに勝てないと見做されていたほど、中沖さんの支持が強かったことの証でしょう。その功績が讃えられ、中沖さんは2004年には北日本新聞文学賞と旭日大綬章を受賞しています。

 

しかしその2004年に、中沖さんに不幸が訪れるのです。

中沖豊さんの最期

富山県の発展に尽くした中沖豊さん。その中沖さんを病魔が襲います。それでも最後の時まで富山の発展を案じていました。

 

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脳梗塞により7期出馬を断念し引退

富山県知事の任期中の2004年1月23日、中沖豊さんは76歳で脳梗塞で倒れます。2月10日にいったん退院して都内で静養していましたが、不整脈が見つかり2月24日にまた入院しました。3月20日にようやく退院し、4月から公務に復帰しました。

 

退院時に中沖さんは多くの課題があるが、富山県のために力いっぱい頑張りたいと復帰の抱負を述べています。しかし8月に健康上の理由で7期を目指さず引退することを表明しました。

 

中沖さんは知事職から引退後も富山空港ターミナルビル会長や富山県ひとづくり財団理事長を歴任しています。また2015年の北陸新幹線の試乗会には参加しました。引退してもなお富山県の発展を気にかけていたのです。

 

しかしその頃から体調を崩し、入退院を繰り返していたそうです。そして2018年6月24日、中沖豊さんは肺炎により県立中央病院で亡くなりました。90歳でした。中沖さんはその功績が讃えられ、従三位に叙せられました。

中沖豊さんのお別れの会には800人が参加

中沖豊さんの葬儀とお別れの会はどのような内容だったのでしょうか。お別れの会はとても盛大に行われたようです。

中沖豊さんの葬儀は家族葬だった

中沖豊さんの葬儀は家族葬として営 われました。多くの富山県民に慕われた中沖さんですが、最後は親しい家族に見送られたかったのでしょう。

 

なお中沖豊さんの長男の中沖剛さんは国際研修サービス代表取締役社長を務め、次男の中沖雄さんは富山銀行頭取に就任しています。父としても子供たちを立派に育て上げた中沖さんの優れた人柄が偲ばれます。

 

そして葬儀の後に、中沖さんのお別れの会が開かれました。これは知事を6期務めた中沖さんに相応しい盛大な催しだったようです。

お別れの会は800人が集まった

中沖豊さんのお別れの会は2018年7月29日に、富山市の県民会館ホールで行われました。多くの県民が参加できるように「県民お別れの会」とされました。当日は猛暑で気温37度を記録しましたが、それでも800人の方々が集まりました。

 

会場の生花祭壇は中沖さんが愛した富山の自然の立山連峰と富山湾をイメージし、北陸新幹線の車体を模した青・赤・白のラインが菊やカーネーションにより作られるという趣向を凝らしたものでした。天国の中沖さんもこの立派な祭壇に満足したことでしょう。

 

式ではまずお別れの会の実行副委員長の森雅志市長が開式のことばを述べ、中沖さんの大きな遺影に向かって全員で黙とうを捧げました。

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多くの要人が中沖豊さんに別れの言葉を述べた

黙とうの後に石井隆一富山県知事が追悼のことばを述べ、中沖豊さんの功績は末永く県の歴史に刻まれ、これからも富山を見守ってほしいと中沖さんの業績を讃えました。その後に中沖さんのメモリアル映像が上映されました。

 

次に中沖さんと親しかった方々もお別れを述べました。綿貫民輔元衆議院議長はミスター新幹線と呼ばれた中沖さんの雄姿や、50年にわたる公私にわたる交友は今も忘れられないとその死を悼みました。宮腰光寛衆議院議員、高野行雄県議会議長、久和進北陸経済連合会会長もそれぞれ中沖さんに別れの言葉を述べました。

 

その後に弔電奉呈、県オーケストラによる「レクイエム」の献奏、来場者による献花が行われました。中沖さんは音楽を愛好していたとのことで献奏が企画されたそうです。また弔電奉呈には富山県出身でノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんも含まれていました。

子供たちに「運鈍根」という言葉を残す

そして遺族代表挨拶では中沖豊さんの長男の中沖剛さんがご挨拶をしました。中沖剛さんは北陸新幹線の開業は父の誇りであり、知事を辞して15年経ちながらこれだけ多くの人が会に参加されたことに驚いていると述べて、感謝の意を表しました。

 

また中沖剛さんは中沖豊さんは家庭人としても立派な父で、中沖豊さんが自分と二人の弟に「運鈍根」という言葉を残したことを明かしました。これは大事を成すには運だけでなく鈍感なくらいの愚直さが必要という意味だと解釈していると語りました。

 

富山県の発展に尽くした中沖豊さんは、時には逆風を受けても、あえて鈍感になって気にせずめげないという気構えが必要であることを子供たちに伝えたのでしょう。

義理人情の人だった中沖豊さん

最後に金森勝雄県内町村会長が閉会のことばを述べて、お別れの会が終了しました。その後は一般献花が行われましたが、猛暑の中300人もの方々が訪れて献花を行いました。それだけ中沖豊さんが県民に慕われていたのでしょう。

 

一般献花をした父が県職員だった方は、中沖さんが忙しい中、自分の父の墓前にお参りしてくれたことを今でも感謝していると語りました。中沖さんが義理人情に厚く、多くの県民に愛されていたと思うとのことです。

ミスター新幹線・中沖豊さんは富山県に尽くした

中沖豊さんの生涯と最期について記述しましたが、どのように感じられましたでしょうか。6期24年間、知事として富山県に尽くし、新幹線延伸を実現した中沖さんの功績は、今後もずっと富山県民の間で語り継がれてゆくことでしょう。