捧賢一さんの葬儀|株式会社コメリの創業者・商いの道に進んだ男
公開日 : 2020/7/17
更新日 : 2020/9/10
株式会社コメリの創業者である捧賢一さんは2018年5月8日、肺炎のため死去しました。複数の会社を設立した捧賢一さんの葬儀は、どのようにおこなわれたのでしょうか。葬儀の詳細と合わせて、プロフィールや歩んだ人生をご紹介します。
公開日 : 2020/7/17
更新日 : 2020/9/10
目次
捧賢一さんのプロフィール
株式会社コメリの創業者である捧賢一さんは、2018年に84歳で亡くなりました。大きな会社の創業者がどのような最期を迎えたのか、気になる方は多いでしょう。まずは歩んできた人生を知るために、プロフィールをご紹介します。
1962年に米利商店を設立
捧賢一さんは1933年に新潟県三条市に生まれました。新潟県立加茂農林高校を卒業後は、父親の経営していた米穀店に就職。当初は、商いの道に進むことに抵抗があったといいます。
商人に金儲けのイメージがあったからだと、後のインタビューで語りました。しかし雑誌「商業界」の主幹だった倉本長治さんの影響を受けて、商いの道に進むことを決めました。1952年に米穀商米利商店を創業し、1962年に株式会社コメリの前身となる株式会社米利商店を設立。
その後、LPガスや石油の販売を開始します。1973年に株式会社米利に商号変更して、1974年には北星産業株式会社を新しく設立しました。
1979年に株式会社コメリの社長就任
1977年にホームセンター事業に参入して1号店を開店しましたが、うまく結果を出せませんでした。1979年には株式会社米利の社長に就任し、1983年にハード&グリーンの1号店を開店。
1977年の失敗を生かして農家に特化した品ぞろえにした結果、客足が増えて売上もアップしました。1984年にはショッピングセンター事業に進出して、その後も1985年に株式会社ライフコメリ、1990年に株式会社ビット・エイを設立。
1985年に株式会社コメリへ商号変更しました。本社を三条市から新潟市に移したのは1986年のことです。1998年に株式会社アテーナを関係会社に加えるなど、グループ会社全体で事業を拡大していきました。
新しく会社を設立する一方で、コメリ緑資金の創設やNPO法人コメリ災害対策センターの設立もおこなっています。コメリ緑資金とは利益の1%を緑育成のため社会還元するものです。
NPO法人コメリ災害対策センターは、災害が発生した際に自治体から要請を受けて物資の供給をおこないます。芸術や文化、自然を愛した捧賢一さんは、積極的に社会貢献をしていました。
2003年に株式会社コメリの会長就任
2003年には株式会社コメリの会長に就任し、社長の座は娘婿の捧雄一郎さんに譲っています。2014年に取締役会長ファインダー、2015年に名誉会長ファウンダーとなり、株式会社コメリを支えてきました。
2010年にホームセンターとしては初の1000店舗を達成し、2012年には創業60周年を迎えています。経営者として第一線を退いた後は文化の保全に力を入れ、三条八幡宮再建奉賛会の会長や本成寺の総代などを務めました。
2018年に84歳で死去
株式会社コメリの全国チェーン化を進め、さまざまな会社を設立してきた捧賢一さんは2018年に亡くなりました。死因は肺炎で、享年は84歳でした。詳細は明かされていませんが、病気療養のため、新潟県内の病院に入院していたといわれています。
捧賢一さんの設立した会社
捧賢一さんが設立した会社のうち、株式会社コメリは全国チェーンになるほどの成長を遂げました。ほかにも設立した会社はたくさんありますが、ここでは株式会社コメリ・北星産業株式会社・株式会社ライフコメリ・株式会社ムービータイム・株式会社ビット・エイをピックアップして詳しくみていきましょう。
株式会社コメリ
株式会社コメリの主力商品は、金物・工具・園芸・植物です。創業地である新潟県三条市は金物の産地として有名で、生産や流通をスムーズにおこなうことが可能でした。消費者が求める商品を安価な値段で提供していることが評価され、現在は46都道府県に店舗があります。
企業理念には、商いは人々の幸せに奉仕する仕事だと掲げています。株式会社コメリは4形態で出店しています。4形態とは品ぞろえが豊富で低価格な「パワー」、全国に出店していて利便性の高い「ハード&グリーン」、インテリア用品専門の「アテーナ」、資材・建材・工具・金物専門の「PRO」です。
商圏人口に合わせて出店する形態を決めており、消費者の利便性が高くなるように出店計画を練っています。ローコスト体制を整えたことにより、ほかのホームセンターが出店しないような地域にも出店が可能になりました。
一般的にホームセンターの商圏は3万人以上必要といわれていますが、株式会社コメリは1万人で事業が成り立ちます。ローコストを実現するために、園芸品などは直接仕入れるなど、さまざまな工夫をしています。
北星産業株式会社
1974年に設立された北星産業株式会社は、株式会社コメリの店舗へ商品を供給する物流センター事業が主です。ほかにもKALNET事業・共配調達事業・レンタル事業・求荷・求車サービス・宅配・引越し事業・流通加工など、さまざまな事業を展開しています。
大型の倉庫を所有しているため仕入れや検品がスムーズで、効率よく商品を運搬することが可能です。物流サービスを駆使して宅配や引越し事業も手掛けており、全国展開している株式会社コメリを支えています。
物流網が整っているのは、全国各地に流通センターを開設しているからです。流通センターには商品管理センターと仕分配送センターの2種類あり、商品管理センターは入荷・保管・ピッキング・出荷、仕分配送センターは荷受・検収・商品の仕分・店舗別自動仕分・店舗配送の流れで作業が進みます。
株式会社ライフコメリ
1985年に設立された株式会社ライフコメリは、株式会社コメリから燃料事業部を分離独立させたものです。事業は、エネルギー・GS・リフォーム・ガス・ハイブリッド給油器・床暖房・米穀販売をおこなっています。
エネルギー・GSではLPガスの供給やガソリンスタンドの営業が主です。リフォームでおこなうのはお風呂まわり・トイレまわり・台所まわりのほか、手すりの設置や消火器の処分など。
米穀販売では新潟県産の米を自宅用や贈答用に購入可能です。株式会社ライフコメリは、生活に関わる分野に進出しているといえるでしょう。
株式会社ムービータイム
1988年に設立された株式会社ムービータイムは、書籍を販売する会社です。「コメリ書房」を新潟・石川・三重に展開しており、書籍のほかにCDやDVDの販売もおこなっています。インターネットで注文した本を店舗で受け取るシステムを導入して利便性が高めるなど、消費者に寄り添った企業です。
株式会社ビット・エイ
1990年に設立された株式会社ビット・エイはシステム開発・運用・コンサルティング・Web・DTP制作・機器導入サービス・教育サービスをおこなっています。情報処理やシステム開発を目的に設立されました。
1990年に設立されたのち、1992年に株式会社コメリシステム開発部の業務を移管されています。
捧賢一さんの葬儀は出身地の新潟で
捧賢一さんの葬儀は、出身地である新潟県三条市でおこなわれています。多くの人が告別式に訪れて、別れを偲びました。葬儀の詳細や遺産を寄付した話題、お別れの会の実施についてみていきましょう。
捧賢一さんの葬儀の詳細
捧賢一さんは2018年5月8日の夜に肺炎のため死去。葬儀は新潟県三条市のVIPシティホール県央で5月16日におこなわれました。喪主は株式会社コメリの社長である捧雄一郎さんが務めています。
告別式には約300人が訪れ、社外取締役の松田修一さんが弔辞を読みました。弔辞では捧賢一さんが合理的な経営をおこなう人物であった一方、美術と地元を愛していたことを明かしています。
捧雄一郎さんは、捧賢一さんから引き継いだ会社で消費者にご利益を提供する仕組みを作っていくと発言しました。
遺産の2億円を新潟に寄付
遺産の一部である2億円は、新潟県三条市に寄付されています。妻のミヨエさんと株式会社コメリの社長である捧雄一郎さんが、捧賢一さんの遺志を継いで寄付をおこないました。捧賢一さんはスポーツが好きだったため、子どもたちのスポーツ環境整備を望んでいたといいます。
寄付金により、三条市には「三条市コメリ捧賢一記念少年スポーツ育成基金」が創設されました。
株式会社コメリではお別れの会を実施
株式会社コメリは2018年7月4日、お別れの会を開催しました。開催場所は、捧賢一さんの出身地である新潟県の朱鷺メッセ新潟コンベンションセンターです。お別れの会の実行委員長は、捧雄一郎さんが務めました。
ほかにも捧賢一さんが設立した雪梁舎美術館では、2018年10月8日まで「捧賢一追悼 良寛と村山半牧展」と題して良寛の書画や村山半牧の作品が展示されました。捧賢一さんが関わった多くの企業や団体がイベントを開催したことがわかります。
捧賢一さんは商人魂を持ち続けた人物だった
株式会社コメリを設立した捧賢一さんは、商人魂を持ち続けた人物でした。新潟県で始めた事業を全国チェーンまで成長させた手腕は、素晴らしいものです。現在は娘婿の雄一郎さんが跡を継ぎ、株式会社コメリを経営しています。今後も変わらず消費者のそばにあり続けるでしょう。
ご相談・お問い合わせください