井上堯之さんの葬儀 | 太陽にほえろ!や「愚か者」で有名な作曲家
公開日 : 2020/7/15
更新日 : 2020/9/9
「太陽にほえろ!」のテーマや近藤真彦さんが歌う「愚か者」は多くの人がご存じの曲でしょう。そんなヒット曲を作曲した井上堯之さんは、それ以外にも多くの功績を残したミュージシャンなのです。そんな井上さんの葬儀はどのような様子だったのでしょうか。
公開日 : 2020/7/15
更新日 : 2020/9/9
目次
井上堯之さんのプロフィール
井上堯之さんの葬儀の様子に触れる前に、まず井上堯之さんのミュージシャンとしての業績を知っておきましょう。
上京してザ・スパイダースのメンバーになる
井上堯之さんは1941年3月15日に兵庫県神戸市で生まれました。井上さんは県立星陵高等学校を卒業した後は板前をしていましたが、音楽オーディションに参加するなど、音楽の道に進む意志を持っていました。
1961年に井上さんは神戸から上京し、池袋のジャズ喫茶「ドラム」で演奏していたザ・スパイダースの演奏を聴いてメンバー加入を申し出ました。これが認められて、音楽界に入ることが出来たのです。
井上さんはその後5年間、ザ・スパイダースのリーダーでドラム担当の田辺昭知さんの家に居候しました。この時期は井上さんは堯之ではなく孝之と名乗っています。井上さんは独学でギターをマスターし、リードギターとボーカルを担当するまでになりました。
所属するザ・スパイダースが大人気となる
ザ・スパイダースは日本にグループサウンズを確立したバンドで、ビートルズやローリング・ストーンズなどのブリティッシュロックの影響を受けています。
ザ・スパイダースは最初はザ・ベンチャーズ、アニマルズ、ザ・ビーチ・ボーイズなどの、海外から来日した有名なバンドの前座や演奏を務めました。また欧州のクラブでプロモーション演奏も行っています。
ザ・スパイダースは1965年に『フリフリ』でメジャーデビューし、翌年の『夕陽が泣いている』が120万枚の大ヒットとなりました。それ以後も『太陽の翼』『風が泣いている』『あの時君は若かった』といったヒット曲が生まれ、ザ・スパイダースの主演映画も公開されるなど全盛期を迎えました。
ザ・スパイダース解散後に井上堯之バンドを立ち上げる
しかしグループサウンズブームが起こるとともに競争も激しくなり、ザ・スパイダースのライブの観客動員数やレコード売上に陰りが見え始めます。またメンバーの堺正章さんや井上順さんはタレントとして人気になり、2人がバンド活動に参加しないことが多くなりました。
そして1970年にはメンバーのかまやつひろしさんが脱退し、これを契機にザ・スパイダースは年内で解散することになりました。解散後の翌1971年、井上堯之さんは残ったメンバーと共にPYGに参加しました。
PYGにはザ・タイガースの沢田研二さんやサ・テンプターズの萩原健一さんも参加していました。そして井上堯之さんは井上堯之バンドを立ち上げます。その後、沢田さんと萩原さんはソロ活動が多くなり、井上堯之バンドがPYGを引き継ぐ形になりました。
作曲家として日本アカデミー賞最優秀音楽賞や日本レコード大賞を受賞
井上堯之バンドは沢田研二さん、萩原健一さんと活動を共にします。そして萩原さんが出演した大ヒット刑事ドラマ「太陽にほえろ!」の音楽を井上堯之バンドが担当します。あの有名な太陽にほえろ!のテーマは井上堯之さんが演奏しているのです。
井上堯之バンドは沢田研二主演のTVドラマ「悪魔のようなあいつ」、萩原健一主演の「傷だらけの天使」「前略おふくろ様」などの音楽を担当します。そして井上さんは演奏だけでなく、「太陽を盗んだ男」などの音楽の作曲も行うようになりました。
さらに井上さんはあの大人気バンドのHOUND DOGの音楽プロデューサーも務めます。そして井上さんが音楽を担当した「火宅の人」が日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞し、作曲した近藤真彦さんの「愚か者」が日本レコード大賞を受賞するまでになったのです。
紅白出場、俳優、執筆とマルチに活躍する
レコード大賞を受賞した「愚か者」は井上堯之さんが萩原健一さんと一緒に作った曲で、萩原さんは自分が口ずさんだ歌詞に井上さんが曲を合わせたと語っています。そのため近藤真彦さん以外に萩原さんが歌うバージョンもあります。
井上さんは90年代にはミュージカルの音楽監督を務め、宇崎竜童さんとバンドを結成するなど多彩な活動をしています。1999年にはザ・スパイダースのメンバーだった堺正章さん・かまやつさんと井上さんの3人でソン・フィルトルを結成し、同年のNHK紅白歌合戦に出場しています。
井上さんは俳優としての活動も行い、2005年に出演した映画「カーテンコール」で男優賞を受賞しています。またギターの入門書や自叙伝「スパイダースありがとう! 」といった本の執筆も行いました。
井上堯之さんの最期
芸能界で活躍されていた井上堯之さんですが、晩年は病魔にむしばまれ、徐々に活動に支障が生じていたようです。
67歳で音楽活動からの引退を表明
順風満帆の人生に見えた井上堯之さんでしたが、2009年に突如、音楽活動からの引退を表明します。マスコミ各社に向けて、井上さんが一身上の都合と健康上の理由で、プロのミュージシャン活動から引退することが通達されました。
井上さんは同年の1月4日に病院で肺気腫との診断を受けました。自覚症状はないものの、1日30本を喫煙するヘビースモーカーであり、今後の健康状態を考慮して引退を判断したということです。
肺気腫とは肺の炎症により肺胞が破壊される病気で、肺胞を元に戻すことは不可能なため治療方法の無い怖い病気です。井上さんはまだ67歳でしたが、肺気腫の事を知って引退を決意したのでしょう。しかし実は引退の理由は健康問題だけではありませんでした。
77歳で敗血症で亡くなる
実は井上堯之さんは引退する数年前から、自身の音楽活動に不完全さを感じていたそうです。そこに肺気腫が見つかったことで、それをきっかけとして引退を決めたとのことです。ライブの予定がありながらそれを全て中止しての引退でしたが、それだけ追い詰められていたのでしょう。
井上さんは1995年に胃がんが見つかりましたが、手術で克服して活動を続けていました。その時は死ぬまで音楽活動を続けると語っていましたが、自分が満足できる音楽をファンに聴かせられないと悟った時が、ミュージシャンとしての最期なのかもしれませんね。
引退後は井上さんは北海道小樽市に移り住み、リハビリテーション施設にボランティアとして勤務しました。その傍らで施設などで音楽の演奏を行っています。その後東京に戻り、療養をしながらソロライブや童謡の作曲を行っています。
そして2018年5月2日、井上さんは77歳で敗血症で亡くなりました。
井上堯之さんの葬儀には元ザ・スパイダースのメンバーが集まった
井上堯之さんの葬儀はどのような様子だったのでしょうか。井上さんの最期に相応しい人々が集まって、その死を悼んだようです。
葬儀には元スパイダースのメンバーが集まった
2018年5月5日に井上堯之さんの通夜が執り行われ、翌日の6日には告別式が営まれました。音楽関係者によると井上さんが亡くなる前の最後の3月11日のライブではだいぶ痩せていて、声も出ていなかったので心配していたとのことです。
井上さんの葬儀には元スパイダースのメンバーの堺正章さん、井上順さん、加藤充さん、前田富雄さんらが集まり、他の音楽業界関係者20人が集まったとのことです。今や大物タレントとなった堺正章さんがすぐに駆けつけたほどに、井上さんは慕われていたのでしょう。
斎場の祭壇にはギターを抱えて笑顔の井上さんの姿の遺影が飾られました。参列した井上さんと付き合いのあったライブハウスの店長は、井上さんは日本のロックの礎を築いた人で、憧れだったとその死を悼みました。
井上堯之バンドの元メンバーが偲ぶ会を開催
井上堯之さんの葬儀の参列者の間からは、お別れ会を開きたいという声も上がりました。しかし井上さんはそういった会を行う事は望まないという遺言があったため、実際には行われませんでした。それでもかつての仲間の手で、井上さんを追悼するイベントが開かれたのです。
まずは2018年の8月18日に、東京都港区のスタジオ・アルディで、井上堯之バンドの元メンバーでドラム担当の鈴木二朗さんが参加して、井上堯之さんを偲ぶ会が開かれました。
そして翌年の4月28日にも一周忌として同じスタジオで、鈴木二郎さんが参加して再び、井上堯之さんを偲ぶ会が開かれたのです。
盛り上がった井上堯之さんを偲ぶ会
一周忌の井上堯之さんを偲ぶ会は大変盛り上がり、参加した鈴木二郎さんが井上さんの歌を歌い、ドラムの演奏を披露してくださったとのことです。午後1時から終電まで長時間行われ、多くの人が参加できたそうですね。
壁には多くの井上さんの写真とサインの入ったレコードや色紙、新聞の切り抜きが展示され、ファンには堪えられないイベントだったようです。PYGの記事も多く展示されて、沢田研二さんのファンが多く訪れたとのことです。
鈴木二郎さんがジュリーがポケットマネーでバンドメンバーをハワイに招待した話を披露するなど、沢田研二さんと井上堯之バンドのファンにはとても嬉しい追悼イベントだったようですね。
井上堯之さんはミュージシャンとして多くの業績を残した
井上堯之さんの業績とその最期の様子をお伝えしましたが、どのように感じましたでしょうか。太陽にほえろ!の演奏やマッチのヒット曲を作曲するなど大きな業績を残し、ザ・スパイダースのメンバーからも愛された井上さんの人生は、ミュージシャンとして理想と言えるのではないでしょうか。
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