森田童子の葬儀|素顔が謎に包まれた幻のフォークシンガーの最期とは

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2022/5/18

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ドラマ「高校教師」の主題歌だった「僕たちの失敗」などで知られるシンガーソングライターの森田童子さんが、2018年4月24日未明に65歳という若さでお亡くなりになりました。最期まで決して表舞台には姿を見せなかった森田童子さんの人生についてご紹介します。

公開日 : 2020/7/15

更新日 : 2022/5/18

目次

森田童子さんのプロフィール

森田童子さんは、日本のシンガーソングライターです。カーリーヘアにサングラス、男性的な服装というスタイルが特徴で、コンサートはもちろんレコードジャケットの写真などでも最期まで素顔を見せませんでした。そんな謎に包まれた歌手の森田童子さんがどのような人生を歩んだのかをご紹介します。

17歳の時に友人の逮捕をきっかけに高校を中退

森田童子さんが高校時代だった頃、日本の各大学で学生運動が盛んに行われていました。東京都内の高校に通っていた森田童子さんは、東京教育の学生運動と交流がありました。

 

その学生運動によって森田童子さんの友人が逮捕されたことをきっかけに、高校を中退します。その後しばらくは自由な生活を送りました。

22歳の時に歌手デビューし主にライブハウスで活動

高校中退後気ままな生活を送っていましたが、森田童子さんが20歳の頃親しくしていた友人が亡くなります。この出来事をきっかけに歌を作ることに目覚めた森田童子さんは、友人を亡くしたことを元に「さよならぼくのともだち」という曲を作詞・作曲しました。

 

そして、1975年10月森田童子さんが22歳の時「さよならぼくのともだち」でメジャーデビューを果たし、その後は主にライブハウス中心の活動を展開していきました。

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30歳の時に引退を宣言することなく活動休止

メジャーデビュー後は、ライブハウスで活動をしながらアルバム7枚、シングル4枚をリリースしました。1983年に発売した「狼少年 wolf boy」と新宿ロフトでのライブを最後に、引退を宣言することもなくそのまま活動を休止します。

 

活動休止のはっきりとした理由は明らかにされていません。世間では出産や病気という人もいましたが、そういったことではなかったようです。音楽活動をする中で、80年頃には「私たちの歌が消えていくさまを見てほしい」と話しており、森田童子さんと親交のあった方たちは「自分が言いたいことはもう言いつくしたから」という見方が強いようです。

 

活動休止後はイラストレーターとして活躍し、マネージャーを務めていた前田亜土さんと結婚、主婦業に専念する生活を送りました。

40歳の時「僕たちの失敗」が「高校教師」の主題歌に起用される

森田童子さんの1976年発売のシングル「僕たちの失敗」が当時大ヒットドラマとなった「高校教師」の主題歌に起用され、シングルCDは100万枚を売り上げるほどの大ヒットとなりました。それまで一部ではカリスマ的な存在だった森田童子さんの名前が世間に知れ渡ることとなります。

 

「高校教師」の脚本を書いた野島伸司さんは、高校時代に誘われて行ったライブハウスで森田童子さんを知り、強い印象を受けて楽曲を採用しました。また同年には「高校教師」が映画化され、1980年に発売された「たとえば僕が死んだら」が主題歌に起用され、この曲もヒットしました。

 

楽曲の大ヒットをきっかけに、マスコミは森田童子さんへ取材をしましたが「現在は主婦業に専念しており、音楽活動を再開する気は全くありません。」と、CDが売れても公の場所へは姿を見せることはありませんでした。

60歳の時、20年ぶりに楽曲を録音した

「僕たちの失敗」の大ヒットをきっかけに、2003年にベスト盤である「ぼくたちの失敗 森田童子のベストコレクション」が発売されました。このベスト盤に収録された「ひとり遊び」という曲では、何と20年ぶりに森田童子さんがギター・ピアノ・ハーモニカを自ら演奏し自宅で新規に収録され、これが生涯で最後の作品となりました。

「森田童子」という芸名は「笛吹童子」が由来だった

森田童子さんというのは本名ではなくアーティスト名です。この名前は、森田童子さんが生まれた1953年にラジオドラマとして放送され、同年には小説化、以降何度か映画化やテレビドラマ化された「新諸国物語 笛吹童子」から付けられました。

森田童子さんの魅力について

森田童子さんといえば、か細くやわらかな透き通るような歌声ととても悲しくて孤独な歌詞なのに不思議な包容力があります。どん底までの悲しみを経験した人にしか表現できないような優しさというのが森田童子さんの歌にはにじみ出ています。

 

自分という存在に対する空虚感や、友人や恋人との別れや喪失感を1度でも感じることが出来た人間なら、自分の内側の大切にしておきたい気持ちの何かを見つけたり共感し、1度聴いたら「森田童子の世界」にどんどん引き込まれてしまう魅力があります。

 

また、幻想的でありながら現実離れしているようにも感じさせず、聴く人を引き込んでいく作品ばかりで、流行にとらわれない詞の世界と曲は、いつの時代に聴いても新鮮に心に響いてきます。

 

1993年のテレビドラマ「高校教師」が放映された時、「主題歌を歌っている新人歌手は誰ですか?」といった問い合わせも少なくなかったそうで、それだけ森田童子さんの歌は流行に左右されないものということがいえます。

森田童子の父親は、なかにし礼の兄

森田童子さんの死後、世間を驚かせたニュースが「父親がなかにし礼の兄だった」という内容です。小説家・作詞家であるなかにし礼さんとどういった経緯で発覚に至ったのか、森田童子さんの父親はどのような人物だったのかについて説明します。

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未発表の遺作「血の歌」で血縁関係が記されていた

なかにし礼さんは小説家であり作詞家でもあります。これまで石原裕次郎さんや石川さゆりさん、「ドリフ」の愛称であるザ・ドリフターズの曲など、名だたる著名人の作詞を担当しました。小説の代表作は「兄弟」や「赤い月」などが有名です。

 

2020年12月、なかにし礼さんは心筋梗塞のため82歳で逝去しています。没後に遺族が遺品整理をしていたところ、「血の歌」と題された未発表作品が見つかりました。1995年頃に執筆されたもので、内容的に1999年の作品「兄弟」の習作であると考えられています。そこに森田童子さんが姪であることが明かされていました。

 

「血の歌」は翌年2021年12月に遺族によって「血の歌」が刊行されました。あとがきでは「父の兄と、その子である『謎の歌手』との葛藤に満ちた関係が、時代背景とともに濃密に描かれていて、これは発表に値する作品ではないかと考えた」と記されています。

森田童子さんの父親は元特攻隊

森田童子さんの父親は中西正一さんという方で、第二次世界大戦における特攻隊員だったとされています。特攻隊としての役目を免れることができましたが、戦後かなり自堕落的な生活を送っており、借金の総額は10億円に及んでいました。

 

それをほとんど立て替えたのが、弟であるなかにし礼さんです。なかにし礼さんが全ての借金を払い終えた2年後の1996年に、中西正一さんは72歳で逝去しています。その3年後の1999年に、兄とのことを書いた「兄弟」を刊行しました。

森田童子さんの死因について

森田童子さんは65歳という若さで亡くなられましたが、死因はどのようなものだったのかをお伝えしていきます。

亡くなる1年ほど前から入退院を繰り返していた

森田童子さんの死因は「うっ血性心不全」でした。亡くなる1年ほど前から体調を崩し入退院を繰り返していて、退院して間もなく自宅にて逝去されました。

 

2010年には夫前田亜土さんが亡くなり、森田童子さんは「近しい人物の死去によるショックと、自身の持病により活動が困難な状況です。」と語っており、2010年頃から病気を患っていたことから、投薬等の治療や大切な人を亡くしたことによる心労などが重なり辛い闘病生活を送っていたと思われます。

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うっ血性心不全について

森田童子さんの死因となったうっ血性心不全とは、何らかの原因で心臓のポンプ機能が弱まり、充分な量の血液を全身に送れなくなることによって、血液の滞留(うっ血)が起こってしまった「状態」のことを言います。

 

症状としては、主に呼吸困難や倦怠感、むくみなどがあります。「なぜ心不全を発症したのか」という原因となる病気を検査し、治療を行うことがとても重要です。

 

日本では心臓疾患で亡くなる人は年間約20万人と言われており、そのうちの約7万人が心不全による死亡です。65歳以上の高齢者でうっ血性心不全を起こすと原因と言われている病気には、「虚血性心疾患」「高血圧性心疾患」が多いと言われています。

森田童子さんの葬儀は親族のみで行われた

森田童子さんは、2018年4月24日未明に心不全のため65歳という若さで亡くなりました。森田童子さんの葬儀・告別式は近親者のみで行う「密葬」という形式がとられ、お別れの会なども行われませんでした。

 

森田童子さんの訃報はしばらく公表されることはありませんでしたが、亡くなってから約2か月後に遺族側から「日本音楽著作権協会(JASRAC)」に楽曲の権利変更の手続きを行う際に連絡があり、同協会の会報誌に掲載されたことにより公表されることとなりました。

 

森田童子さんは音楽活動をしていた頃から素顔を見せたことがなく、また本名も非公開で明かされていません。森田童子さんのことが分かる写真なども公表されておらず、未だミステリアスな部分が多い方です。

 

加えて実生活についてもほとんど公表することはなく、活動休止後は音楽活動を一切行わず晩年は主婦業に専念していたので、やはり最期も森田童子さんの生き方等を尊重し、親族のみでの葬儀が行われたのでしょう。

森田童子さんの追悼イベントが毎年開催

森田童子さんの突然の訃報に各界の多くのファンからも悲しみの声がよせられました。更に、森田童子さんの訃報が伝えられてから約1カ月後の2018年7月19日に、森田童子さんのファンが集まって曲を聴き語り合うという追悼イベント「夜想忌~さよならぼくのともだち~」が開催されました。

 

この時には、各界の著名人から寄せられた追悼の辞が披露され、森田童子さんの深く強い影響力を物語るイベントでした。そして、森田童子さんの一周忌を迎える2019年4月20日には「夜想忌2」が開催されました。

 

更に2020年4月25日には三回忌として「夜想忌 ~ぼくたちの失敗~ 森田童子三回忌」を開催し、「花まんま」で直木賞を受賞した作家の朱川湊人さんが、森田童子さんの楽曲から想起される短編小説を執筆したものを約30分の短編映画が製作され上映される予定です。

 

この映画には女優の佐伯日菜子さんが出演し、森田童子さんの楽曲が挿入歌として起用されており、完成作品を多くの方たちが心待ちにしていましたが延期となってしまいました。時期をみて開催される予定のようです。

最期の最期まで決して素顔を見せることのなかった森田童子さん

森田童子さんはデビューからわずか8年で音楽活動を休止し、その後は専業主婦という道を選びました。テレビドラマの主題歌として楽曲が起用され大ヒットとなった際にも、表舞台には出てくることはなく、最期の最期まで自分の生き方を貫き姿を見せることがありませんでした。

 

そんな人生を歩んだ森田童子さんの歌声はとても切なく、いつの時代に聴いても新鮮で心に響く名曲ばかりです。

 

革命という名の下で多くの若者が命を落とした学生運動を経験した森田童子さんの歌は、その時の心情や挫折感に寄り添ってくれるものでした。森田童子さんが残した作品はこれからもずっと多くの人たちに愛され心の癒しとして愛され続けることでしょう。伝説のアーティスト「森田童子」さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。