古賀俊昭さんの葬儀|教育に尽力した当選七回の元東京都議会議員

公開日 : 2020/7/18

更新日 : 2020/9/9

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自由民主党所属で東京都議会の当選7回を誇る古賀俊昭さんが2020年3月9日にお亡くなり、葬儀が行われました。72歳でした。学生の頃から自分の考え方を持ち、教育に対してただならぬ熱意を見せていた古賀俊昭さんの経歴について、お話ししていきます。

公開日 : 2020/7/18

更新日 : 2020/9/9

目次

古賀俊昭さんの葬儀

古賀俊昭さんが、2020年3月9日に亡くなられました。古賀俊昭さんは、自由民主党所属の政治家であり、東京都議会に七回当選された議員です。

 

2017年の東京都議会選挙にも出馬し、見事当選されています。東京都議としての職を遂行されている中で、2020年の3月に亡くなられました。72歳でした。

 

死因は腹膜炎です。腹膜炎とは、腹腔内を覆う膜に炎症が起きる病気のことで、ひどい腹痛を伴い、死に至ることもあります。古賀俊昭さんの死は突然で、多くの人にショックを与えました。葬儀は都内で行われました。

 

東京都議会は古賀さんの議席を、7月5日に行われる都京都知事選と同時に補選として選びます。

古賀俊昭さんの経歴

それではここからは、古賀俊昭さんの経歴について見ていきます。古賀さんの学生時代や、その政治的な立場、考え方などを紐解く鍵になります。

学生時代

古賀俊昭さんは熊本県の生まれです。古賀さんは1947年の生まれで、学生時代は学生運動の真っ最中でした。新民族主義運動の団体である「日本学生同盟」に所属していました。

 

「日本学生同盟」は早稲田大学で作られた同名が骨組みとなって作られた組織であり、三島由紀夫などの指示を受けていました。

 

古賀俊昭さんはこの団体が示す日本の自主独立を目指す新民族主義に共鳴し、学生運動を行っていました。また、彼らが行っていた主張の一つが、「祖国再生」です。

 

古賀さんの考え方に大きな影響を及ぼしましたが、政治家になってからの彼の考えは日本同盟の主張とはまた違ったものとなっています。古賀俊昭さんは熊本から出てきて、近畿大学の法学部に入学しました。

秘書から議員へ

近畿大学を卒業した後、古賀俊昭さんは上京し国会議員秘書になります。衆議院の議員の秘書として仕事をしながら、議員とはどのようなものか、政治家とはどのようなものかを学びました。

 

約10年間秘書を務めた後、古賀さんは東京都日野市にて、市議会議員選挙補欠選挙に立候補をします。1981年、当時34歳で初当選を果たします。

 

以降四期、十二年間にわたり日野市の市議会議員として職を全うしました。日野市において、古賀俊昭さんは大きな影響力を持つ存在となります。

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東京都議会議員

日野市で議員を四期務めた後、古賀俊昭さんは1993年東京都議会の議員選挙に出馬します。所属は日本新党で、日野市選挙区でした。彼はそこで見事初当選を果たし、東京都議会の議員になります。古賀さんは46歳でした。

 

三年間に任期を務めた後、1996年に新進党の公認を受けて、衆議委員議員に立候補します。東京都第二十一区からの出馬でしたが、この選挙には落選してしまいます。彼にとって初めての、そして最後の落選でした。

 

翌1997年には衆議院議員の伊藤達也さんの支援を受け、無所属として東京都議会議員に復職を果たします。

 

以降、六期間連続で当選を果たし、約二十二年間にわたって東京都の議員として精力的な活動を行っていました。2001年からは自由民主党の所属として出馬しています。

著書など

古賀俊昭さんはこれまでに3冊の本を手掛けています。一つは、『こんな偏向教師を許せるか!―戦慄の現場報告・自殺まで考えた女子中学生』です。過激なタイトルですが、足立区で起きた人権に関わる問題についての現場報告や行政の対応についての本です。

 

2冊目は、『教科書から見た日露戦争』です。乃木希典や東郷平八郎などの記述がなされています。3冊目は『日本人なら知っておきたい近現代史50の検証』です。日本人の歴史認識について、それが本当に正しいのか問いかけるような内容の本になっています。

 

いずれも教育に関する著書となっており、古賀さんの精力的な活動が伺えます。また、古賀さんの趣味は、手品だそうです。また、歴史が好きで新撰組が特にお好きだそうです。スポーツもおやりになりますが、空手は四段と相当な腕前でした。

古賀俊昭さんの主張

古賀俊昭さんの主張は、「過激すぎる性教育」に対しての強い批判や、「教育の復興」です。

 

また、拉致問題の解決に関しても強い意欲を持っており、北朝鮮による日本人拉致問題の完全解決を図る東京都議会議員連盟会長の役職も果たしていました。

七生養護学校事件

2003年に、古賀俊昭さんは、東京都立七生特別支援学校を視察しました。その際にこの学校の性教育を批判し、教材を没収するなどの行為を行いました。

 

この行動が、都議会議員が学校の境域に干渉するものだとして古賀さんらは訴訟を起こされ、賠償を命じられました。

 

2018年にも、足立区の学校における教育内容について疑問を持ち、都の教育委員会に調査を行わせました。

 

結果としてその教育内容は容認されましたが、このように古賀俊昭さんは、教育に関して強い自分の考え方を持っており、それを実行するために毅然とした態度で行動を起こす人物であるということが窺えます。

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教育正常化

教育に対する古賀俊昭さんの強い姿勢は有名でしたが、その取り組みの一つとして、古賀さんは教育再生・地方議員百人と市民の会東京支部理事を務めてらっしゃいました。

 

この会は、日本の地方議員や教育関係者らで構成されている特定非営利活動法人です。1999年に増木重夫氏と長谷川潤氏が中心となって設立されました。増木氏が事務局長に就任しました。そして2010年にこの団体は特定非営利活動団体として認められました。

 

主張は「現代社会における数々の矛盾の背景に厳然と横たわる学力低下、道徳心の欠如等、教育の後輩を直視し、未来を担う日本の子供たちのために、地方議会を教育改革の場として捉え、なかんづく健全な学校教育の再生を目指す」というものです。

 

古賀俊昭さんは東京支部の理事として活躍されました。また、古賀さんは2007年に設立された教育正常化推進ネットワークについても関係がありました。

 

この会は、古賀俊昭さんを手本に、教育の正常化を目指す団体です。古賀さんの死について、追悼の意を示していました。

拉致問題について

古賀俊昭さんは教育問題の他に、拉致問題についても非常に強い信念と精力的な活動を行っていました。

 

拉致問題とは、北朝鮮の工作員が、日本の国民を北朝鮮へ連れ去り自国の工作員に仕立てる行為のことです。

 

北朝鮮側は拉致を行ったことを認めていて、小泉純一郎政権の2002年には五人の拉致被害者の帰国が実現しました。古賀俊昭さんが東京都議会で3回目の任期に当たっているころです。

 

拉致被害者救出運動が始まった頃、地方議員の会もできましたが、そこで都議会から古賀俊昭さんが中心となって動いていました。

 

公の場でではありませんが、「首相官邸の前で座り込みでもしなきゃダメだ」と言ったこともあり、自民党所属ながら、安倍晋三総理の拉致問題への対応には批判的でした。

 

横田恵さんの父が2020年の6月に亡くなったこともあり、拉致問題の解決が遅れないように祈るばかりです。

古賀俊昭さんの政策

政治家としてとても大切である政策ですが、古賀俊昭さんは一体どのような政策を掲げていたのでしょうか。

 

選挙で当選7回を誇る選挙スペシャリストです。その政策が日野市民と東京都民の心に響いていたことは間違いありません。詳しく見ていきましょう。

古賀俊昭さんのマニフェスト

古賀氏のキャッチフレーズは「古賀俊昭と力を併せ、倶に進もう」です。古賀さんの基本政策は教育、防災、花粉症対策、教育支援に関わる分野です。

 

まず教育に関してですが、「青少年に国語・国史・国学・国防の基礎知識と、国旗国家を尊重する教育を実施」です。彼が繰り返し主張してきた教育の復興と通ずるものがあります。

 

防災に関しては、「無電柱化、電力・食料・医療の安全確保、消防団や防災隣組の結成による地域防災に強化」です。古賀さんはかねてより電柱の危険性について指摘していました。東京に地震が来る前に、無電柱化を目指していました。

 

教育支援に関しては、「大都市の特性に合った保育園の整備」を掲げていました。待機児童の問題は大きくなっています。一時あるツイートがきっかけでとても話題になりましたが、その後対策が進められているものの、まだまだ問題は解決していません。

 

その他にも、中小企業と個人商店の支援を行う経済政策や、高齢者や障害者のための在宅支援など福祉政策も掲げています。

 

古賀俊昭さんの特徴を挙げると、彼は東京都議会花粉症対策推進議員連盟会長でした。花粉症は、日本の国民病であり、議会で議論されるほどの大きな問題です。都民の暮らしを快適なものにするために、古賀さんは花粉症の分野でも尽力されていました。

 

古賀俊昭さん亡くなる

自民党所属で長年にわたって東京都議会で議員を務めてきた古賀俊昭さんが、3月に亡くなられました。

 

古賀さんは日本の教育について、また拉致問題について精力的に取り組んでおられました。その強い姿勢、発言から批判されることもありましたが、彼は毅然とした態度で接し続けました。古賀さんに影響を受けた人物や団体も多くあります。

 

都議会の七期目の任期途中であり、突然の死でした。心より、ご冥福をお祈りいたします。