園田義男さんの葬儀|人生のすべてを柔道に捧げた男の最期とは

公開日 : 2020/6/27

更新日 : 2020/9/9

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多くの柔道選手を育成してきた園田義男さんは、2018年1月29日に大動脈りゅう破裂のため72歳で逝去しました。柔道に人生のすべてを捧げた男は、どのような最期を迎えたのでしょう。園田義男さんの生きざまについてお伝えします。

公開日 : 2020/6/27

更新日 : 2020/9/9

目次

園田義男さんのプロフィール

柔道の世界で活躍した園田義男さんの葬儀に興味がある方は多いでしょう。まずは園田義男さんが歩んだ人生についてご紹介します。

1965年に第17回全日本学生選手権大会で優勝

1945年に福岡県で生まれた園田義男さんは、生まれつき病弱で体も小柄でした。しかし兄の影響を受けて中学で柔道部に入部したことをきっかけに、小柄ながらも才能を開花させます。

 

徐々に試合で勝てるようになり、当時の福岡電波高校で現在の福岡工業大学付属城東高校へ進学後は、金鷲旗高校柔道大会で優勝。金鷲旗高校柔道大会とは福岡市で開催されるオープントーナメントです。高校3年生のときには柔道部の主将を務めました。

 

当時の電子工業大学で現在の福岡工業大学に進学した1965年には、第17回全日本学生選手権大会で優勝し、翌年におこなわれた世界学生選手権大会でも優勝を果たします。弟の園田勇さんも柔道に打ち込んでいて、1967年の第5回ユニバーシアードでは兄弟それぞれの階級で王者になりました。

 

園田義男さんは軽量級、園田勇さんは中量級です。

1969年に第6回世界選手権大会で金メダル獲得

大学を卒業して日本運送に就職した1969年、第6回世界選手権大会で金メダルを獲得。弟の園田勇さんも別の階級で金メダルを獲得し、世界大会初の兄弟優勝を達成しました。世界選手権大会で優勝したことで気が緩み、1972年の全日本選抜体重別選手権大会は3位にとどまります。

 

園田義男さんが柔道で活躍する一方、母校の福岡電波高校は生徒数の減少に悩まされていました。ピーク時に5000人ほどいた生徒は約200人まで減少していたといいます。

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1976年に高校の柔道部指導員になる

就職を機に大阪で暮らしていた園田義男さんですが、出身校の福岡電波高校で柔道部の再建を頼まれた1976年に、日本運送を退職して高校の柔道部指導員と体育の教師へ転身します。高校の名称は1974年に福岡工業大学附属高等学校へ改称していました。

 

しばらく柔道部指導員として活動していたところ、のちにシドニーオリンピックで金メダルを獲得することになる田村亮子さんの存在を知ります。田村亮子さんは子どものころから柔道の才能を開花させていました。

 

園田義男さんは福岡工業大学附属高等学校への入学が可能なよう、1988年に女子柔道部を創設。田村亮子さんを福岡工業大学附属高等学校へ勧誘します。

1991年に田村亮子さんが入部

1990年に福岡国際女子選手権大会で優勝したことをきっかけに、多くの高校が田村亮子さんの勧誘に乗り出しましたが、1991年に福岡工業大学附属高等学校へ入学しました。入学の理由には園田義男さんの勧誘のほか、田村亮子さんの柔道を指導してきた鎌田智博さんが柔道部の監督を務めていたことも影響しています。

 

園田義男さんは女子柔道部に入部した田村亮子さんの指導に専念します。指導は実を結び、高校生ながら1992年にバルセロナオリンピックで銀メダル、1993年に第18回世界選手権大会で金メダルを獲得。

 

指導を受けたほかの部員も活躍を見せ、1994年に入部した日下部基栄さんはシドニーオリンピックで銅メダルを獲得しています。口で伝えるのではなく、行動で示すことが園田義男さんの指導方法でした。

1996年に本を出版

園田義男さんは1996年に「田村亮子を育てた男・克って勝つ」を出版しています。田村亮子さんを育成する中で、自分自身が成長した経験が綴られました。本には柔道一筋の人生から得たものや勝つことの大切さについても書かれています。

 

本の中で園田義男さんは、第二の田村涼子さんを育てることが夢であると記しています。指導を受けた多くの生徒が大会での優勝やメダル獲得を果たしているため、夢は達成されたといえるでしょう。

 

本を出した理由としては、もともと本の出版が夢だったことと、母親に自分の人生について語りたかったことを挙げました。

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2009年から高校の校長を務める

高校は2001年に福岡工業大学附属坂東高等学校へ改称しました。柔道部の監督を続けながら学校の運営にも関わるようになり、校長代理や福岡工業大学の理事を引き受けます。2009年から2016年にかけては高校の校長を務めました。

 

経営危機にあった高校は園田義男さんの力もあって経営が回復し、現在も多くの生徒が通っています。柔道部の監督については2014年から、息子の園田義大さんが引き受けています。

高校では送る会を開催

園田義男さんが2016年に校長の座を引退した際には「園田義男先生を送る会」が開催されました。開催されたのは福岡市にあるクリオコートホテル博多で、2016年12月4日におこなわれています。

 

開催目的は功績と苦労をねぎらうことでした。多くの人が園田義男さんに感謝していることが伝わりますね。高校の名称が福岡電波高校のころに関係があった人から柔道部のOB・OGまで、さまざまな人が集まりました。

園田義男さんが育成した選手と成績

園田義男さんが育成した選手はたくさんいますが、中でも好成績を収めたのが田村亮子さんと日下部基栄さんです。2人の成績をみていきましょう。

田村亮子さん

田村亮子さんは小学2年生のときに柔道を始め、小学4年生のとき九州少年柔道大会の団体戦で優勝します。小学6年生時には全日本少年少女武道錬成大会の団体戦で優勝し、子どものころから柔道界で活躍していました。

 

自分よりも体重の重い男子を投げ飛ばしていて、有名な存在だったようです。中学でも活躍ぶりは変わらず、中学3年生のときに出場した福岡国際女子柔道選手権大会では大会最年少で優勝しています。

 

高校で園田義男さんと出会い、16歳のときに出場したバルセロナオリンピックでは銀メダルを獲得。国内外でおこなわれたさまざまな大会で優勝を総なめにします。高校卒業後に進学した帝京大学でも活躍し、1996年のアトランタオリンピックでは銀メダルを獲得。

 

アトランタオリンピックでは金メダルを期待されていたため悔しい結果となりましたが、2000年のシドニーオリンピックでは悲願の金メダルを獲得します。結婚をして谷亮子となり臨んだ2004年のアテネオリンピックでも、金メダルを獲得。

 

2008年の北京オリンピックで銅メダルを獲得した後、2010年には政界入りも果たしています。現在は2人の子どもに恵まれ、専業主婦として生活しています。

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日下部基栄さん

日下部基栄さんは小学1年生のときに、田村亮子さんが柔道をする姿に感銘を受けて柔道を始めました。全国中学校大会では史上初めての3連覇を果たし、目覚ましい活躍を見せました。高校で園田義男さんと出会い、1996年の世界ジュニア選手権で優勝。

 

短大を経て福岡県警へ入庁後も活躍していましたが、1999年の試合中にじん帯を断裂するケガを負いました。しかしリハビリをしながら出場した五輪選考会で出場権を得て、2000年のシドニーオリンピックでは銅メダルを獲得。

 

園田義男さんの教え子2人がオリンピックでメダルを獲得したことになります。オリンピック後の2002年に、福岡国際女子柔道選手権大会とフランス国際大会でも優勝。痛めていたじん帯の傷が悪化して、2004年のアテネオリンピックではメダルを逃しました。

 

2005年に現役を引退して、現在は福岡大学の女子柔道部で監督をしています。

2018年に死去し福岡県内で葬儀が営まれる

校長を退職した後は出身地である福岡県柳川市で生活を送っていましたが、2018年1月に亡くなります。突然の死に多くの人が驚き、悲しみに暮れました。死因や葬儀に関する情報をご紹介します。

死因は大動脈りゅう破裂

2018年1月29日、72歳で園田義男さんは亡くなりました。死因は大動脈りゅう破裂です。大動脈りゅう破裂とは太い血管の大動脈にできたコブが破裂するもので、死亡率は80~90%に上ります。破裂するまで無症状のため、急死につながりやすい病気です。

 

園田義男さんも破裂するまで無症状だったとみられ、多くの人が突然の死を嘆きました。大動脈りゅうの原因としては、加齢による動脈硬化が挙げられます。高血圧や糖尿病の人がなりやすいですが、原因不明のこともあります。

告別式には約600人が参列

葬儀と告別式は2月1日に、福岡県柳川市の天光社三橋式場で営まれました。喪主は妻の園田いつ代さんが務め、告別式には約600人が参列しました。参列者には、現在は結婚して名字が変わった谷亮子さんや日下部基栄さんなどの教え子がいます。

 

谷亮子さんはインタビューに対して感謝の気持ちを述べるとともに、高校時代の稽古が忘れられないと涙ながらに語りました。兄弟で柔道をおこなってきた弟の園田勇さんは、兄の突然の死を信じられない様子だったといいます。

園田義男さんは柔道を愛した男だった

柔道部の監督として、高校の校長として多くの若者の育成に関わってきた園田義男さんの告別式には、600人もの人が参列しました。たくさんの人に信頼されてきたことがわかります。

 

柔道家として活躍したのち、多くの柔道家を育成してきた園田義男さんは最期まで柔道を愛した男でした。