池内紀さんの葬儀 |「風のように」と願った文学者の「逝き方」とは

公開日 : 2020/6/25

更新日 : 2020/9/9

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池内紀さんは兵庫出身のドイツ文学者です。大学教授を55歳で退官した後、ドイツ文学の翻訳やエッセイの執筆をおこないました。生前、「風のようにいなくなりたい」と語った池内紀さんは、どのような人生を送り、どのような逝き方をしたのでしょうか。

公開日 : 2020/6/25

更新日 : 2020/9/9

目次

池内紀さんのプロフィール

池内紀(おさむ)さんはドイツ文学者として、ゲーテの「ファウスト」やフランツ・カフカ全集の翻訳をおこなったことで有名です。他にも将棋や登山、旅行などさまざまな趣味を持ち、それを題材にした味のあるエッセイも著しています。まずは、池内紀さんのプロフィールについてご紹介します。

高校時代、兄の死と短歌への傾倒

池内紀さんは1940年11月25日、兵庫県姫路市で誕生しました。戦中戦後の貧しい時代、母子家庭の中で育ちましたが、後にそのことを「(生活力が身についたので)生まれた時期が幸運だった」と語っています。

 

姫路西高等学校に進学した年に、愛知の大手建設会社に勤めていた兄が現場の事故で亡くなります。父親のいない池内家において大黒柱として期待されていた兄の死は、池内紀さんに大きなショックを与えます。

 

当時、愛知県の安城市は「日本のデンマーク」と呼ばれていました。池内紀さんは兄のお骨の入った木箱を抱きながらそのことを思い出し、「高校を出たら、どこか遠くへ行こう。デンマークは気がすすまないが、デンマークのように遠いところがいい」と考えます。

 

また、同じく高校在学中に短歌の投稿を始めました。当時高校生の間に短歌ブームがあったことに加え、は高校の図書館の司書として働いていた女性が歌人であったこと、また子供時代に親戚に招かれ、カルタの会に参加していたことが、短歌に興味を持つきっかけとなっていたのかもしれません。

 

高校3年生になると短歌雑誌に短歌が掲載され、短歌結社から入会を誘われるほどの腕前を持つようになりました。

 

高校生時代の「遠い所へ行きたい」という想いと、短歌という一つの文学への傾倒が、後に彼をドイツ文学への道に進ませたのかもしれません。

 

 

18歳で東京外国語大学に入学、その後東京大学へ

池内紀さんは18歳で東京外国語大学外国語学部に入学し、卒業後は東京大学大学院人文科学研究科修士課程に進学しました。大学院の受験に備え、「ドイツ文学史」を読んだことがきっかけで、ナチス文学に興味を持ちます。

 

中でもオーストリアの作家であり批評家であるカール・クラウスについて深く研究を進め、修士論文のテーマにも選びました。ふとしたことから結ばれた池内紀さんとカール・クラウスのふしぎな縁は、彼の一生を通して続いていくことになります。

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24歳で大学卒業後、神戸大学助教授に

24歳で東京大学の修士課程を卒業後、1年間の助手時代を経て神戸大学の助教授の職を得ます。そこでドイツ語を教える傍ら、カール・クラウスの「人類最期の日々」とエリアス・カネッティの「眩暈」の翻訳を行いました。

 

また、三宮にある映画館で洋画を楽しみ、映画館の支配人が発行しているファン新聞に寄稿しました。池内紀さんは、それが活字になったエッセイの最初の一つであった、と後に振り返っています。

26歳でウイーンに留学

神戸大学に赴任して2年目の7月、政府奨学金を利用してウィーンに留学します。しかし大学の講義には出席せず、街歩きを授業として、カフェや劇場や映画館を渡り歩く生活を送ります。俳優エルフリーデ・オトーの公演を見に行ったり、作家の自宅パーティーに参加したりと、当地の人々との出会いにより、学校の講義以上の豊かな経験を得ていきます。

 

また、市立図書館に通い、新聞や報道の中からカール・クラウスの戯曲「人類最期の日々」に登場するセリフに用いられているエピソードを探すという途方もない作業を行っています。

 

ウィーンに留学して2年目の1968年には、近隣国であるチェコスロバキアの変革運動、いわゆる「プラハの春」が始まります。若い時代に歴史的な大きな事件と遭遇したことも、彼の意識に大きな影響を与えたに違いありません。

 

3年目には政府奨学金の延長ができず、留学続行が難しくなりましたが、オーストリア文学協会から代わりに奨学金を出してもらって留学生活を続けました。その時文学協会事務長を務めていたフラウ・ブロノルド(フラウは『夫人』という意味)と呼ばれる女性とは留学を終えて日本に帰った後もたびたび会う仲となりました。その親交は2001年にフラウ・ブロノルドが亡くなるまで続きました。

31歳で東京都立大学教授に

ウィーンでの留学生活は2年半で終わり、日本に帰って再び神戸大学に勤め始めた池内紀さんに、東京都立大学から教授の声がかかります。池内紀さんは半年悩んだ末に東京に行くことを決心しました。そのため、東京都立大学の赴任は下期の10月からとなりました。

 

この頃結婚をし、二人のお子さんに恵まれました。後にイスラム研究者となる息子、池内恵(さとし)さんは、東京都立大学に赴任しておよそ1年後に誕生しています。

 

庭つきの小さな中古の家を買い、月に一度、駅前の中華料理店で夕食をとるのが一家の贅沢という、穏やかな日々が続きます。

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45歳で東京大学文学部教授に

45歳の時、東京大学の主任教授となります。その際「10年で辞める」ことを条件に挙げています。その理由として池内紀さんは55歳以降は自由に生きたいと考えたこと、教授としての責務が自分に向いていないこと、政治性を持たない人間は主任をつとめられないと考えたことを上げています。

 

主任教授と言うとしかつめらしい印象を受けますが、池内紀さんは授業や教授会の最中に居眠りをし、学生に指摘されたり学部長にからかわれたりするなど、ユーモラスなエピソードを残しています。

 

また、公開講座の講師を務めた際には、聴講生の名簿の中に昔付き合っていた女性の名前を見つけ、講義に集まった1000人の中から彼女を探し出そうとして講義に集中できなかったと語っています。いくつになっても純粋で人間らしい池内紀さんの人間性がうかがいしれる、面白いエピソードです。

55歳で退官、ドイツ文学の翻訳に力を入れる

池内紀さんは55歳でかねてより宣言していた通り教授の職を退官し、ドイツ文学の翻訳を始めとした文筆業に転身します。ライフワークともいえるカール・クラウスの他、ゲーテの「ファウスト」やフランツ・カフカの全集を翻訳するなど精力的に活動します。

 

中でもフランツ・カフカの全訳には6年を費やし、2000~2001年をかけて無事刊行されました。その後カフカに関する連載「カフカの書き方」、「カフカの生涯」が共に2004年に書籍化されました。その時池内紀さんは「『ドイツ文学者」などの肩書で生きてきたのが、おつとめを果たし終えた気がした」と述べ、晩年はドイツ文学者に加えて「エッセイスト」として生きていくと決意します。その時、池内紀さんは63歳でした。

63歳でエッセイストとなり、精力的に活動

先ほどご紹介した通り、池内紀さんは63歳でエッセイストを名乗るようになりました。趣味である登山や散歩、旅行に関するエッセイを精力的に書き続けました。元東大教授、それもドイツ文学者の書くエッセイと考えると、インテリ過ぎて堅苦しい文章なのではと思われがちですが、池内紀さんの書く文章はとてもシンプルで分かりやすく、巧みなユーモアに満ちています。時折添えられる手書きの文字や絵も味があり、くすっと笑えるような温かみが感じられます。

 

高血圧以外はこれと言った持病もなく健康で、妻である水緒(みお)さんのサポートのもと、精力的に文章を書き続ける日々を送ります。

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78歳、心不全で死去

池内紀さんは晩年も新聞や雑誌のコラムを10本以上引き受けていました。しかし段々と体が衰弱していき、仕事をこなすのが難しいこともあったようです。それでもその時請け負っていた全ての文章を書き終え、入稿を済ませた後、「病院に行きましょうか」と声をかける水緒さんを制して床に就き、そのまま虚血性心不全で亡くなりました。2019年8月30日、79歳の誕生日まであと3ヶ月というところでした。

池内紀さんの葬儀とは?

最後まで飄々と、そして精力的に生きてきた池内紀さん。そんな池内紀さんが亡くなった後の様子や、葬儀はどのようなものだったのでしょうか。

息子・恵さんは父が亡くなったことを隠し、父の代わりに仕事をした

池内紀さんは、生前自分の死後のことについて、「葬式は身内だけでやれ。やらなくてもいい。お別れの会などといったものは一切ご無用、弔問などお断りする」、「全てを終えてから公表するように」という希望を伝えていました。

 

息子・恵さんはその希望を叶えるため、池内紀さんが亡くなった8月30日から葬儀を行う9月3日までの間、父に代わって次々送られてくる文字起こしや構成のFaxに返事を送り続けました。それは子供の頃から父の仕事を見ているからこそできたことでした。

 

池内紀さんの訃報が公表されたのは9月4日午後。恵さんは父、池内紀さんの希望を見事に叶えたのです。

葬儀は家族葬、戒名もなし

9月3日、数名の血縁者のみで葬儀が営まれました。参列者やその内容は公表されていませんが、「最小限の、一通りのことはした」と恵さんは語っています。

 

また、恵さんは、池内紀さんに戒名をつけず、俗名で送り出しました。池内紀さんはその名前で生き、書いて、そして旅立っていったのです。それは恵さんが「山伏が生きて仏になるような」と語るほどの立派な最期だったそうです。

大らかに暖かく、飄々と生きた池内紀さんの「逝き方」とは

76歳の時に池内紀さんが著したエッセイ「すごいトシヨリBOOK」では、自らが迎えた老いと、いずれ迎える死への思想が、朗らかなタッチで描かれています。そこで池内紀さんは、「これまでずっと、どんな生に向かって、どんなふうに生きるかという選択をしてきた。最後はどんな死へ、どんな死に方をするのかという選択があっていい。僕は、風のようにいなくなるといいな」と語っています。

 

自分だけの「生」を生きるのと同じように、自分だけの「死」を死にたいという池内紀さんの強い願いが叶えられたのかどうか、それは死を迎えた池内紀さん本人にも分からないことかもしれません。

 

しかし、その生と死は残された人たちに鮮烈な印象を与え、そのたくさんの著書と共に、人の心を打ち続けています。それは風のようにさりげなく、しかし風のように人の心をざわつかせ、新しい息吹を運ぶものであったのかもしれません。