石牟礼道子さんの葬儀 | 水俣病による公害問題を世に伝えた作家

公開日 : 2020/6/24

更新日 : 2020/9/7

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水俣病にまつわる作品を執筆し、世間に訴えた石牟礼道子さん。石牟礼さんが表に立つことで注目され、日本全国に水俣病の問題が周知されることになりました。そんな石牟礼さんの作家としての生涯と、その最期はどのようなものだったのでしょうか。

公開日 : 2020/6/24

更新日 : 2020/9/7

目次

石牟礼道子さんのプロフィール

生まれ育った地元で発生した水俣病の問題を広く世に伝えた作家、石牟礼道子さん。その最後の様子を知る前に、まず石牟礼さんの功績について詳しく見て行きましょう。

熊本県天草市で生まれる

石牟礼道子さんは1927年3月11日に、白石亀太郎さんと吉田ハルノさんの長女として、熊本県天草市で生まれました。吉田さんの父は建設や回船業などの事業を手広く展開して、白石さんはその部下として勤めるうちに吉田さんと結ばれました。

 

石牟礼さんは3歳の時に栄町に移り住み、近所の女郎屋や髪結い屋の女性たちにかわいがられました。当時の栄町は大手化学工業のチッソの城下町として発展していましたが、このことが後にこの地域の大きな災いとなることは当時は知る由もありませんでした。

 

この頃に石牟礼さんと親しかった女郎が刺殺されるという事件がありましたが、このことは石牟礼さんの心に傷を残し、たびたび文章にしています。

学業で優秀な成績を収め16歳で代用教員を務める

石牟礼道子さんが小学二年の時に、祖父の事業が破産してしまいます。父も祖父の元で働いていたため、裕福だった石牟礼さんの生活は貧しくなりました。それでも石牟礼さんは明るく、毎日のように水俣川河口で遊んで暮らしていました。

 

石牟礼さんは学校の成績はとても優秀だったため、現在の水俣高校に進学することが出来ました。高校でも成績は優秀で、クラスメートから慕われたということです。石牟礼さんはこの頃から短歌を詠み始めました。

 

戦争が始まると、石牟礼さんは卒業後に教員養成所に入り、若干16歳で田浦小学校の代用教員を務めました。それほどに優秀だったのです。戦争が終わる頃には一月ほど戦災孤児の世話をし、その出来事を『タデ子の記』として書いています。これが石牟礼さんの初作品となりました。

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文筆活動を開始し『苦海浄土 わが水俣病』を発表

1947年に石牟礼道子さんは学校を退職し、中学教師の石牟礼弘さんと結婚しました。翌年に長男が誕生しています。そして1951年から新聞や雑誌に短歌を投稿するようになり、それが評価され歌誌『南風』の会員になりました。

 

1956年に石牟礼さんは『短歌研究』新人詠に入選し、有望な新人歌人と見做されるようになりました。しかし石牟礼さんはこの頃に水俣市の詩人の谷川雁さんに出会い、短歌よりも詩や文章の創作に気持ちが向かい始めます。

 

そして谷川さんが創刊した『サークル村』に参加し、当時発生していた水俣病の患者についての文章を1960年に投稿しました。これが代表の作品『苦海浄土 わが水俣病』の始まりとなりました。

水俣病が社会問題化することで注目されはじめる

石牟礼道子さんの苦海浄土が出版社の目に留まり、原稿の依頼が来るようになりました。石牟礼さんは1962年に西南戦争を扱った『西南役伝説』を発表しています。これは西南戦争を体験した老人へのインタビューから構成され、これが石牟礼さんの作品のスタイルになって行きます。

 

石牟礼さんは主婦業をやめて作家業に専念したいと思うようになりました。それは皮肉にも水俣病が社会問題になることで実現されます。1968年に石牟礼さんは水俣病対策市民会議を設立し、患者への支援に乗り出します。

 

そういった活動から『朝日ジャーナル』が石牟礼さんに注目し、石牟礼さんは同誌に多くのルポルタージュを執筆しました。

水俣病問題のシンボル的存在になる

そして1969年に『苦海浄土 わが水俣病』が講談社より発刊されます。公害問題が社会で関心を集めていたので、この作品は注目されいくつかの賞を受賞しました。しかし石牟礼道子さんは水俣病患者の苦しみを書いた作品で受賞は出来ないとして、全て辞退しました。

 

同年に水俣病被害者がチッソを相手に熊本地裁に訴訟を起こし、石牟礼さんは水俣病を告発する会を結成して患者を支援したのです。石牟礼さんの元には患者とその関係者や運動家が集まり、マスコミの取材が殺到し、石牟礼さんはテレビにも出演して一躍時の人となりました。

 

1970年には石牟礼さんは原告団とチッソの株主総会にも出席し、水俣病問題のシンボルと言われるまでになりました。1971年にはチッソ本社前で座り込みの抗議が始まり、石牟礼さんはこれも支援して長期間、東京ですごしました。

 

 

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水俣病以外の作品も高い評価を得る

石牟礼道子さんは水俣病問題の運動に従事する間、急性肺炎を起こして入院したり、白内障で左目がほぼ失明するなど健康面で苦しみました。しかし石牟礼さんの夫の弘さんや子供たちは石牟礼さんの活動をよく支えました。

 

石牟礼さんは水俣病に関連する作品の執筆を多く行いましたが、1972年の原告団勝訴の後はそれ以外の分野の作品も出版しています。自伝的作品の『椿の海の記』ではアジアのノーベル賞と言われるマグサイサイ賞を受賞しました。

 

1986年には西日本文化賞、1992年には紫式部文学賞を受賞し、1993年には週刊金曜日の創刊に参加し、編集委員になっています。1999年には地元の天草の島原の乱を扱った。『アニマの鳥』という歴史小説を刊行しています。

 

そして2002年には朝日賞、2004年には詩集『はにかみの国』が芸術選奨文部科学大臣賞を受賞しました。こうして石牟礼さんは水俣病の運動家というだけでなく、作家として高い評価を得るに至ったのです。

石牟礼道子さんの病気との戦いとその最期

石牟礼道子さんは高齢になってもなお創作を続けましたが、それは辛い病魔と戦いながらの活動だったのです。

パーキンソン病と戦いながら創作活動を継続

石牟礼道子さんは70代でパーキンソン病にかかります。パーキンソン病とは体の動きに障害が生じる神経変性疾患です。しかし石牟礼さんはそれでも創作活動をやめず、口述筆記で執筆を続けたのです。

 

石牟礼さんはパーキンソン病を「神様からの贈り物」と言いました。それはこの病気の症状が水俣病と似た部分があったからです。亡くなる2年前の講演で、石牟礼さんは病気やそれを引き起こしたチッソと和解できるかどうかが今後のテーマと語っています。

 

そして2018年2月10日、石牟礼さんはパーキンソン病の急性増悪のため、熊本市の介護施設で90歳で亡くなりました。水俣病や自らの病気と戦いながら多大な業績を残した石牟礼さんの生涯は、今後も語り継がれることでしょう。

 

石牟礼道子さんのお別れの会には前皇后さまがいらっしゃった

大きな功績を挙げた著名人の石牟礼道子さんの葬儀とお別れの会は盛大な物でした。そしてお別れの会には、先の皇后さまが弔問にいらっしゃったのです。

葬儀には60人の方々が集まった

石牟礼道子さんの葬儀は亡くなった2日後の2月12日に、熊本市でしめやかに営まれました。喪主は長男の道生さんです。葬儀には石牟礼さんの近親者や知人が60人集まったとのことです。

 

水俣市で患者を支援する施設を運営している加藤タケ子さんは、石牟礼さんは患者の生きる逞しさを信じていたと声を詰まらせていたとのことです。

 

そして4月には石牟礼道子さんを送る会が開かれました。こちらのお別れの会は大きな規模で、驚くべき方がいらっしゃったのです。

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石牟礼道子さんを送る会には千人もの方々が出席した

2018年4月15日に水俣フォーラムや朝日新聞社などが共催した「石牟礼道子さんを送る会」が東京の有楽町朝日ホールで開かれました。1000人もの方々が集まり、ステージ上には石牟礼さんの大きな遺影が飾られました。そして主な参加者が壇上で、石牟礼さんの思い出を語りました。

 

水俣病で父親を亡くし、生前の石牟礼さんと親交があった芦北町の漁師の緒方正人さんは、かつては水俣病を起こしたチッソと同様、自分も自然の幸を奪い利益を得る人間であることに苦悩したそうです。そんな緒方さんを石牟礼さんは、命の世界によく帰ってきたという表現で救ってくれたそうです。

 

詩人の高橋睦郎さんは石牟礼さんの苦海浄土を民衆の叙事詩と讃え、患者と共に苦しむことができる共苦の人だから書けたと語りました。批評家の若松英輔さんはいずれ水俣病が忘れられた時、石牟礼さんが残したものを若い世代に語り伝えなければならないと思いを新たにしました。

先の皇后さまも出席され、献花を行われた

そして石牟礼道子さんを送る会には、先の皇后で現在は上皇后の美智子様もいらっしゃいました。前皇后さまは石牟礼さんの遺影を見つめられ、白い花を捧げて、深く一礼をされました。そして長男の道生さんを気遣い、石牟礼さんが慈悲深い人であったことを讃え、日本の宝を失ったと語られました。

 

また前皇后さまは石牟礼さんと初めて会ったのは、2013年7月の社会学者の鶴見和子さんを追悼する催しだったことに触れました。多くの会に出席されている前皇后さまに覚えられるほど、石牟礼さんの存在は皇后さまの心に強く残っていたのです。

 

前皇后さまは同年の10月に、先の天皇陛下と水俣市に訪れた際、胎児性患者と面会をしたのは石牟礼さんに依頼されての事だったと明かされました。道生さんは前皇后さまに、面会してくださったので石牟礼さんが感激していたことを前皇后さまに伝えました。

 

このように先の皇后さまがお別れの会に出られるほどに、日本社会における石牟礼さんの存在は大きなものだったのです。

水俣病を世に広く訴えた石牟礼道子さん

石牟礼道子さんの生涯とその最期を伝えましたが、いかが思われましたでしょうか。石牟礼さんがいなかったら、水俣病が広く日本人全体に周知されることはなかったかもしれません。石牟礼さんは公害問題におけるとても大きな存在だったのは間違いないでしょう。