高市圭二さんの葬儀|騎手から調教師になった男の人生とは?
公開日 : 2020/6/24
更新日 : 2020/9/9
調教師として多くの馬を勝利に導いてきた高市圭二さん。後腹膜脂肪肉腫のため、2020年2月17日に64歳で亡くなりました。亡くなるまでにどのような人生を送ったのか、葬儀はどんなスタイルでおこなわれたのかについてお伝えします。
公開日 : 2020/6/24
更新日 : 2020/9/9
目次
高市圭二さんのプロフィール
馬の調教師として名を馳せた高市圭二さんは、2020年2月に64歳で亡くなりました。晩年は闘病生活を送っていた高市圭二さんですが、まずはどのような活躍をしていたのか、プロフィールをみていきましょう。
1978年に騎手デビュー
1955年生まれの高市圭二さんは、1978年に騎手デビューを果たしました。騎手になったきっかけは、ハイヤーの運転手をしていた父親が馬主を乗せていたことでした。馬主から調教師の荒木静雄さんを紹介され、中学卒業後に騎手候補生として競馬の世界へ入ります。
荒木静雄厩舎に所属した当時は騎手候補生が50人ほどおり、高市圭二さんの同期は14人ほどでした。初の騎乗は1978年3月4日で、初レースでありながら初勝利を獲得しています。引退までに騎手としてJRA25勝を挙げましたが、華々しい成績を残したわけではありませんでした。
1996年に調教師へ転身
1990年に騎手を引退した後は、嶋田功厩舎の調教助手をしています。1996年に調教師の免許が交付されて調教師へ転身し、厩舎を開業しました。調教した馬の初出走は1996年12月22日であり、結果は8着に終わっています。
初めての勝利は1997年3月8日におこなわれたレースでした。1998年におこなわれた京成杯では、高市圭二さんが調教したマンダリンスターが優勝します。JRA重賞制覇を成し遂げ、後にビーマイナカヤマやミヤギロドリゴも活躍しました。
調教した馬の中で特に活躍を見せたのはファストフレンドです。エンプレス杯・クイーン賞・東京大賞典・帝王賞などさまざまなレースで勝利し、2000年にはNARグランプリ特別表彰馬に選出されています。
レースに向けて馬を万全な状態に仕上げる、高い技術を持っていたことがうかがえます。
1999年と2000年に優秀調教師賞を受賞
1999年と2000年には優秀調教師賞を受賞しています。優秀調教師賞とはJRAの優秀な調教師に与えられるもので、関東と関西それぞれで選ばれます。1~5位まで順位付けされており、高市圭二さんは関東で1999年に4位、2000年に3位となりました。
1999~2000年にかけては藤沢和雄さんが1位を獲得しています。藤沢和雄さんは2020年6月に史上2人目となる、JRA通算1500勝を達成した人物です。現役で達成するのは初めてのことでした。
藤沢和雄さんは1988年に厩舎を開業しており、調教の際には高市圭二さんを乗せることが多くありました。高市圭二さんの騎乗技術を高く評価していて、正確に馬に乗ってくれると発言したといいます。
2000年には制裁を科されたことも
2000年に高市圭二さんは騎手の後藤浩輝さんを殴打して、過怠金10万円の制裁を受けています。高市圭二さんが管理していた馬から騎手が落馬し、カラ馬が後藤浩輝さんの騎乗した馬の邪魔をしたと発言したことに激怒したのです。
レース後にカラ馬から不利を受けたと話していたところを高市圭二さんが通りがかり、後藤浩輝さんの胸ぐらを掴む騒動となりました。制裁を受けたのは一度だけで、以後は問題をおこしていません。
後藤浩輝さんは2006年にも別の調教師から背中を叩かれています。背中を叩かれたのは、調教師の谷原義明さんが指示したとおりに馬を走らせなかったことが理由です。谷原義明さんは高市圭二さんと同じく過怠金10万円の制裁を受けました。
高市圭二さんの闘病生活
騎手を引退後は調教師として活躍した高市圭二さんですが、2017年にがんが発覚します。一度は現場に復帰したものの、再び体調を崩し闘病生活を送っていました。高市圭二さんの闘病生活についてみていきましょう。
2017年にがんが見つかる
2017年の夏、高市圭二さんは突然背中の痛みに襲われました。病院で検査を受けたところ、後腹膜脂肪肉腫と診断されます。後腹膜脂肪肉腫とは後腹膜から発生する肉腫のことで、とても希少ながんです。
発症するのは2万人に1人程度であり、切除が難しいため放射線治療や薬物療法が必要になります。高市圭二さんは抗がん剤を点滴しながら闘病をおこない、陽子線治療を受けました。60キロあった体重は闘病生活で42キロまで落ち込んだといいます。
抗がん剤による副作用で食欲不振や頭痛、吐き気に悩まされましたが、常に馬のことを考えて過ごしていました。週末はすべてのレースをチェックして、馬の様子や厩舎で働くスタッフのことを気にかけていたのです。
2018年に現場復帰するものの再び入院
完治はしなかったものの、2018年6月に現場復帰を果たします。陽子線治療によって痛みが和らぎ、体重が47キロまで回復したためです。腫瘍の大きさは8分の1ほどまで小さくなりましたがほかの場所に転移している状況で、抗がん剤の投与は変わらず続けていました。
現場復帰をした1年後には高市圭二さんが管理をしていたシングンオペラの子どもであるシングンマイケルが勝利し、重賞制覇を成し遂げています。シングンマイケルは2020年1月に最優秀障害馬を受賞するまでになりました。
しかし高市圭二さんは再び体調を崩して茨城県土浦協同病院へ入院しており、授賞式には参加できませんでした。
2020年2月に死去
現場復帰を願って闘病生活を送っていた高市圭二さんですが、願いは叶わず2020年2月17日に64歳で死去しました。調教師の定年は70歳のため、調教師として在籍した状態で亡くなっています。
闘病生活は2017年から3年にわたりました。後腹膜脂肪肉腫は5年生存率が40~60%と低く、発症する部位によっても生存率は異なります。最期まで馬のことを考え、一度復帰した際には現場で苦しい表情を出すことはありませんでした。
高市圭二さんと馬の関係
高市圭二さんは馬を調教する際のこだわりがありました。さまざまな工夫をおこなっていたからこそ、ファストフレンドなどの名馬を生み出したのでしょう。こだわりの詳細や一番活躍した馬であるシングンマイケルについてご紹介します。
馬を調教する際のこだわり
高市圭二さん自身は当たり前のことをしているだけだと発言していましたが、調教には強いこだわりがありました。飼い葉を食べなかったファストフレンドに関しては、葉をミキサーにかけたり色々な種類の飼い葉を用意したり、工夫を凝らしています。
厩務員が口に葉を持っていき、1時間以上かけて食事をさせたこともあったといいます。活躍した馬だけでなく、レースで結果を出していなかった馬に対しても真剣に向き合い、常に馬のことを考えて行動していました。
こだわりゆえに厩務員と揉めたことも
厩舎を開業して間もないころは厩務員と揉めたこともありました。常に馬のことを考えるため、ほかの厩舎よりも厩務員の仕事量が多くなったことが理由です。揉め事を防ぐために高市圭二さんは月に1回、必ずミーティングをおこなうようになりました。
意見を言う場ができ、コミュニケーションが取れたことで厩舎には一体感が生まれました。高市圭二さんの厩舎からレースに勝てる馬が次々と誕生したのは、馬に関わる人たちの一体感が強いからでしょう。
一番活躍した馬はシングンマイケル
高市圭二さんはシングンマイケルの父親であるシングンオペラの管理をしていました。シングオペラはレースで成果を残しておらず、最後のレースでは故障をしています。通常レースで結果を残せなかった馬が種牡馬入りすることはできません。
しかしオーナーだった伊坂重憲さんが高市圭二さんに強くお願いして、種牡馬になることができたのです。結果として生まれたのがシングンマイケルでした。シングオペラを管理してからシングンマイケルが勝利するまでの約20年間、懸命に世話をしてようやく勝利を掴むことができたのです。
父親のシングオペラは2019年の春に亡くなっています。
葬儀会場は美浦トレーニングセンター厚生会館分館
葬儀は美浦トレーニングセンター厚生会館分館でおこなわれました。葬儀の詳細をご紹介します。
告別式には250人が参列
通夜は2020年2月24日、告別式は25日に日本調教師会関東本部葬として営まれました。告別式には250人が参列しています。喪主は長男の高市憲吾さん、葬儀委員長は一般社団法人日本調教師会の手塚貴久本部長が務めました。
葬儀がおこなわれた美浦トレーニングセンター厚生会館分館は、美浦トレーニングセンターの敷地内にあります。美浦トレーニングセンターは東京ドーム約48個分の巨大な調教施設で、厩舎の数は約100です。
逝去に伴い管理馬が転厩
高市圭二さんが管理していた38頭の馬は、大江原哲厩舎に転厩しています。大江原哲さんは高市圭二さんの先輩にあたり、頻繁に病院へ見舞に行っていました。38頭の馬の中には、シングンマイケルも含まれています。
高市圭二さんは競馬に人生を捧げていた
1978年に騎手として馬に関わってから亡くなるまでの42年間を、高市圭二さんは競馬に捧げました。2017年にがんが発覚してからは闘病しながらの生活でしたが、闘病中も管理する馬を勝利に導くなど精力的に活動を続けたのです。
馬を愛し、多くの人から慕われた高市圭二さんの生きざまは、たくさんの人の心に焼き付いているでしょう。
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