小川誠子さんの葬儀|女流本因坊を獲得した囲碁棋士六段が急逝

公開日 : 2020/6/25

更新日 : 2020/9/10

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女流棋士である小川誠子さんは68歳でこの世を去りました。70歳まで囲碁をやっていたいという願いは、残念ながら叶いませんでした。囲碁の番組ではソフトな語り口からファンに親しまれた小川誠子さんの葬儀はどのようなものだったのか、まとめました。

公開日 : 2020/6/25

更新日 : 2020/9/10

目次

小川誠子さんの経歴

たくさんの人に親しまれた女流棋士の小川誠子さん。どんな経歴をお持ちだったのでしょうか。小川さんは幼少期から囲碁の才能を発揮し、生涯にわたり囲碁の世界を追及していた人でした。

幼少期から囲碁に親しむ

小川誠子さんは、1951年4月1日に福井県福井市にて誕生しました。幼少期に転居しているため、愛知県名古屋市の育ちです。お父さまやおじいさまも囲碁の有段者であった小川さんは、6歳のときから囲碁を打ち始めました。日本棋院中部総本部に通って、酒井利雄八段の指導を受け、めきめきと上達していきます。

中学卒業と同時にプロを目指す

すばらしい才能を持った小川誠子さんは、1965年には女流アマ選手権で優勝を果たします。この選手権では、ほかに優勝候補の方がおり、小川さんはダークホースでした。決勝の相手は、いつもなら勝てない相手でしたが、このときは勝ててしまったそうです。このときまだ中学2年生という若さでした。この出来事で世間に名前を知られるようになり、その髪型から「おかっぱ本因坊」と呼ばれるようになりました。

 

この優勝をきっかけに、小川さんは本格的にプロの道を目指すようになります。名古屋市から上京して木谷実九段の内弟子として、道場に入門することとなりました。このとき「本当にやっていけるのか」という気持ちと、「がんばろう」という気持ちが交錯したそうです。また、小川さんは女性であるということで料理のお手伝いという役割も担っていました。

 

小川さんが入門した当時、木谷実九段の道場にはそうそうたる顔ぶれの内弟子がいました。小林光一名誉棋聖や趙治勲名誉名人などです。小川さんは、こうした人たちと一緒に修行を積めたことが何よりも財産になっている、と語っています。

 

また、木谷師匠からかけられた言葉として「自分が怖いときは、相手も怖いと思っているから勇気を出しなさい」というものがあったそうで、これが師匠から送られた唯一のアドバイスだったというエピソードがあります。

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プロ入り後も活躍

小川誠子さんは、1970年にプロ入りを果たします。1979年、80年には女流選手権戦を連覇、1986年には女流本因坊戦、1987年には女流鶴聖戦と、4期にわたってタイトルを獲得しています。1995年には六段に昇進。それだけにとどまらず、2008年には女流棋士の史上二人目となる通算500勝という偉業を成し遂げます。

 

しかし、華々しい経歴の裏では「囲碁を打つのは楽しいが、勝負がつくのがつらく、囲碁を好きでない時期もあった」と人知れず苦悩していたことをインタビューで明かしています。小川さんはそういった苦悩を乗り越え、囲碁の普及などにも尽力していくようになります。また、2010年から2年間は棋士会の会長、2012年から6年間は日本棋院の理事を務めました。囲碁に関する著書も多数出版しています。

 

テレビ番組「徹子の部屋」では、囲碁の対局が終わると2~3Kg体重が減ってしまうことを明かしており、脳も汗をかくんだということをコメントしたことがあります。

俳優の山本圭さんと結婚し話題になる

プライベートでは、1977年に俳優の山本圭さんと結婚をしました。人気俳優と女流棋士という組み合わせと、2人の年齢が一回りほど離れていたことから、当時話題になりました。2人の出会いのきっかけは、山本さんが所属していた俳優座で囲碁が盛んに行われており、そこへ小川誠子さんが遊びに来たことでした。また、1986年には結婚9年目にして娘さんを授かっています。

 

山本さんは1940年生まれの本格派俳優です。これまで数々のドラマや映画、舞台に出演しています。なかでも「ひとつ屋根の下」、「白線流し」、「天地人」などのテレビドラマへ出演していたことで知られています。

 

1983年には、夫婦2人でハウスのCMに出演したことがありました。山本さんがボルシチを作り、それを妻の小川さんが食べるという微笑ましいものでした。

 

 

テレビや教科書でも活躍

スター棋士だった小川誠子さんは、テレビに出演する機会が多くありました。夫が俳優の山本圭さんということで、お2人で「徹子の部屋」に出演したこともあります。テレビだけでなく、小学校の教科書に登場することもありました。

囲碁の解説で親しまれる

小川誠子さんは1984年からの10年間という長きにわたり、NHKの囲碁番組の聞き手役を務めていました。やわらかく穏やかな語り口が、視聴者からの人気を集めていました。そのような関係もあってか、NHKでは小川さんが亡くなられたあと、2020年5月に「忘れえぬ棋士 小川誠子」という追悼番組を放送しています。

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徹子の部屋へ出演

2017年、結婚40周年を迎えたときに、小川誠子さんと山本圭さんは2人そろってテレビ朝日系列の「徹子の部屋」に出演しています。黒柳徹子さんは、俳優と女流棋士である2人のことを「動と静くらいの違い」と例えました。

 

この番組の中で、1986年に生まれた娘さんが結婚したことが報告されました。山本圭さんは当時「やすらぎの刻」というドラマに出演中で、小川さんと娘さんが一緒にスタジオ見学に行ったエピソードが披露されました。

忘れ得ぬ師の言葉というコラムが教科書に掲載された

2007年4月、小川誠子さんの書いたコラムである「忘れ得ぬ師の言葉」が、東京都世田谷区の教科書に採用されるという出来事がありました。当時、世田谷区の小中学校では日本語教育の一環として「哲学」を取り入れており、その教科書に小川さんのコラムが掲載されたのでした。

 

コラムの内容は、プロ入りがかかった大事な場面で1局落としてしまったとき、師匠の言葉がどれだけありがたかったか、という内容でした。その言葉の重みを伝えたことで、哲学の授業に採用されたのでしょう。

小川誠子さんの死因は?

小川誠子さんは、2019年10月30日に体調不良で休場届を提出していました。そしてお亡くなりになったのが11月15日のことで、休場届を提出してからわずか2週間という早さでした。68歳でした。突然の訃報に、世間では驚きの声と、囲碁界のマドンナを惜しむ声が続々と出てきました。また、このことにより七段を追贈されました。

 

報道では「死因は病気」と発表されており、何の病気だったのかは明らかにされていません。ただ、夫である山本圭さんは小川さんのお別れ会のときに、2014年に小川さんが大腸がんを患っていたことを明かしています。また、2019年には再発してしまい、夏ごろからは体調がすぐれなかったそうです。小川さんは70歳までは囲碁を打ちたいという気持ちを明かしていたそうで、その願いはあと少し届きませんでした。

小川誠子さんの葬儀

小川誠子さんの葬儀はどんなものだったのでしょうか。葬儀のあとにはお別れ会も開かれ、交流が広かった小川さんだけに、たくさんの人が弔問に訪れました。

葬儀について

小川誠子さんの訃報を伝える報道では、やはり急逝だったためか「通夜や葬儀については未定」となっていました。その後、葬儀は近親者のみで執り行うことが発表されています。

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お別れの会について

小川誠子さんの葬儀は近親者のみで執り行われたため、死去翌年、2020年2月17日には東京都内のホテルでお別れの会が開かれました。祭壇にはにこやかに微笑む小川さんの遺影が飾られ、弔問に訪れた人たちはピンクのカーネーションを献花し、早い別れを惜しみました。弔問客は約400人訪れました。

 

このお別れ会の発起人は、吉永小百合さんです。小川さんの夫である山本圭さんと吉永さんが共演したことをきっかけに、家族ぐるみのお付き合いをしていました。小川さんは、周囲にあまり病気のことを明かしていなかったそうで、吉永さんは病気のサポートをもっとさせてほしかったと、呼びかけていました。また、小川さんと吉永さんの親交が深かったことがよく分かるエピソードも披露されました。小川さんを自宅に招いた際、デザートのアップルパイにばかり気が行き、メインの食事をしっかりと作れなかったことを悔やんでいた、というものです。

 

弔問客にはギタリストの村治佳織さんと、バイオリニストの岡部麿知さんの姿もありました。おふたりは、吉永さんのデビュー曲である「寒い朝」を演奏して故人を偲びました。この曲は、小川さんが生前カラオケでよく歌っていた曲だったのです。

小川誠子さんはたくさんの人に愛された

小川誠子さんは生前、囲碁を愛し、囲碁からも愛された人でした。さまざまなタイトルを獲得して女流棋士のエースとされていましたが、長い囲碁人生の中で「自分は囲碁に向いていないのではないか」と悩むこともあったそうです。しかし、囲碁の普及に力を尽くしていたことを考えると、やはり心から囲碁のことが好きだったのでしょう。

 

テレビで囲碁の解説をしたり、雑誌でコラムを連載したり、著書を執筆するなど、精力的に囲碁の活動をされていた小川さん。親しみやすい人柄もが偲ばれます。天国でも囲碁を打っていることでしょう。