金子兜太さんの葬儀 | 「アベ政治を許さない」を書いた俳句界の重鎮
公開日 : 2020/6/24
更新日 : 2020/9/10
日本の俳句界の重鎮の金子兜太さんは2018年に98年の生涯を終えました。金子さんは戦後の社会性俳句運動の中心となり、多くの人の言論活動に多大な影響を与えました。そんな金子さんの晩年とその葬儀はどのようなものだったのでしょうか。
公開日 : 2020/6/24
更新日 : 2020/9/10
目次
金子兜太さんのプロフィール
軍務を経て日本銀行で勤務しながら、俳人として大きな業績を残した金子兜太さん。その葬儀について知る前に、まず金子兜太さんの経歴について押さえておきましょう。
高校に入り初めて句を詠む
金子兜太さんは1919年9月23日に埼玉県比企郡小川町で生まれました。父の金子元春さんは医師で、元春さんもまた「伊昔紅」を号する俳人でした。俳誌「若鮎」を発刊し、秩父音頭を復興させた業績があります。
父の元春さんの代表句は「元日や餅で押し出す去年糞」というユーモラスなもので、桂三木助さんやビートたけしさんに引用されて一時期の間、有名になりました。
金子兜太さんは1937年に旧制水戸高等学校に入学し、そこで初めて俳句会に参加、「白梅や老子無心の旅に出る」を詠みました。その後金子さんは全国学生俳誌「成層圏」に参加し、高校生の頃から俳人としての活動を開始したのです。
戦争を生き延びて帰国し日本銀行に入行
金子兜太さんは1941年に東京帝国大学経済学部に入学しました。大学では俳誌「寒雷」を主催する加藤楸邨さんに師事しました。「寒雷」は俳誌ですが参加者が対等に議論する場を作る目的もあり、学生が多く参加して後の社会性俳句を推進しました。中曾根康弘さんも投句しています。
戦時中のため金子さんは1943年に大学を繰り上げ卒業し、日本銀行に入行しました。しかしすぐに海軍経理学校に入校、海軍主計中尉となり南方戦線のトラック島に出征して、200人の部下を率いました。トラック島の戦況は悲惨を極め餓死者も出ましたが、金子さんは奇跡的に一命をとりとめました。
金子さんは1946年に捕虜としてアメリカ空軍基地の建設に従事し、11月に復員船で日本に帰国、1947年2月に日本銀行に復帰し、4月には同じ俳人の塩谷皆子さんと結婚しました。
銀行員として勤務する傍ら俳人として躍進
金子兜太さんは日本銀行では福島支店、神戸支店、長崎支店と転勤を重ねた後に、1960年に東京本店に戻りました。仕事については本人が窓際でなく窓奥、1日に数回、開けるだけの本店の金庫番だと自嘲しましたが、そのおかげで俳人としての活動のための余裕ができました。
俳人としては金子さんは1947年に「寒雷」に復帰し、社会性俳句運動の中心となった俳誌「風」にも参加しました。金子さんは日銀では労働組合の初代事務局長も務め、俳人としての立場から社会運動に熱心に取り組んだのです。
金子さんは「波郷と楸邨」を『俳句研究』に執筆し、日本ペンクラブの会員になりました。1957年には「俳句の造型について」を発表して俳句造型論を展開しました。1958年に新俳句人連 盟の中央委員に推薦され、前衛俳句の旗手という評価を得るようになりました。
日銀退職後、俳人として躍進
金子兜太さんは1962年に有志達と同人誌「海程」を発刊しました。1974年には日本銀行を55歳で定年退職しています。これにより金子さんは俳人・俳句の研究者としての活動に専念できるようになりました。
金子さんは退職後、1974年に上武大学文学部の教授に就任し、1983年から現代俳句協会会長、1985年に「海程」の主宰、1987年に朝日俳壇選者、1992年に日本中国文化交流協会常任理事、2000年に現代俳句協会の名誉会長、2005年に日本芸術院会員に就任します。
このように金子さんは日銀退職後に俳人として躍進し、俳句界の重鎮となったのです。しかし2006年には妻の皆子さんを失うという不幸もありました。
政治活動に協力し「アベ政治を許さない」を揮毫
金子兜太さんは日銀で組合局長を務め、社会性俳句運動を推進していたように政治活動にも参加していました。最も目に付くのは、反安倍政権デモで使用されるプラカードの「アベ政治を許さない」の筆をとったことでしょう。ニュースで多くの人が目にしたと思われます。
これを依頼したのは作家の澤地久枝さんで、金子さんはこちらからでもお願いしたいと喜んで引き受けたそうです。揮毫(筆で書く)するにあたり、安倍でなくアベとした理由は、「安心が倍になる」という良い意味があるので避けたということです。
また2015年からは中日新聞・東京新聞の記事「平和の俳句」の選者も務めています。2018年には表現の自由を守る立場から「俳句弾圧不忘の碑」を建立しました。これは戦時中の軍部による反戦俳句の弾圧事件の記録を残す目的で建てられました。
ただし金子さんは社会性俳句はイデオロギーを根底に持つのではなく、自分の社会への姿勢から生まれるものだと規定しています。金子さんは俳句は政治活動の道具でなく、純粋なものであるとしたかったのではないでしょうか。
金子兜太さんの代表句
金子兜太さんを代表する俳句にはどのようなものがあるのでしょうか。以下が代表の作品と言われています。
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子(『少年』、1955年) 水脈(みお)の果(はて)炎天の墓碑を置きて去る(『少年』、1955年) 銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく(『金子兜太句集』、1961年) 彎曲し火傷(かしょう)し爆心地のマラソン(『金子兜太句集』、1961年) 人体冷えて東北白い花盛り(『蜿蜿』、1968年) 霧の村石を投(ほう)らば父母散らん(『蜿蜿』、1968年) 暗黒や関東平野に火事一つ(『暗緑地誌』、1971年) 梅咲いて庭中に青鮫が来ている(『遊牧集』、1981年) おおかみに蛍が一つ付いていた(『東国抄』、2001年) 夏の山国母いてわれを与太という(『東国抄』、2001年)
花や蛍などの自然を愛し、社会風刺も込められた金子さんの俳風が伺えますね。
金子兜太さんの最期
日本の俳句界の重鎮として活躍していた金子兜太さんですが、その晩年はどういった様子だったのでしょうか。
急性呼吸促迫症候群により98歳で死去
金子兜太さんは2018年1月から体調を崩し、朝日俳壇の選者などの職務を休んでいました。2月6日に誤嚥性肺炎の疑いで熊谷市内の病院に入院し、20日に急性呼吸促迫症候群で98歳で亡くなられました。その死は息子の真土さんとその奥さんが看取っています。
急性呼吸促迫症候群とは敗血症や肺炎やなどが契機となって、重い呼吸の障害をきたす病気です。根本的な治療法がなく、金子さんの年で治すのは困難だったようです。金子さんの最後の時の苦しみが少なかったことを祈りたいですね。
なお金子さんの死にあたり、朝日新聞の記者が知人からの情報を聞いただけで、金子さんの親族に確認をとらずに亡くなる前日に死亡速報を出して問題になりました。担当記者は14日出勤停止懲戒処分となり、その上役も減俸などの処分を受けています。
金子兜太さんのお別れの会には800人の方が集まった
金子兜太さんの葬儀はどのように行われたのでしょうか。俳人として優れた業績を残し、多くの人に慕われた金子さんに相応しい、盛大で立派な葬儀とお別れの会が催されました。
金子兜太さんの葬儀には思い出の品々が展示された
金子兜太さんの葬儀は2018年3月2日に熊谷市の彩雲で営われました。喪主は金子さんの子息の真土さん、読経は臨済宗総持寺の住職が行いました。亡くなった2月20日から準備期間をとっていただけに、斎場には金子さんにまつわる様々な展示がされました。
斎場には金子さんの「ありがとう」と揮毫した色紙や、最後の句稿、愛用の広辞苑とルーペ、写真や著書などが展示されました。金子さんは自分の死後に、お世話になった方々にお礼をしたいため、自らの葬儀のための終活を行っていたのだと思われます。
祭壇は白と紫の生花を飾った2部屋にまたがる大きなもので、中央には金子さんの遺影が配置されました。また熊谷市近辺の風習で、参列者には長寿銭が配られました。封筒はご祝儀用ですが、金子さんのように長寿で亡くなった方の葬儀ではよく見られるものです。
斎場では多くの方々がお別れの言葉を述べた
金子兜太さんの葬儀では熊谷市長の富岡清さんが弔辞を読み上げ、金子さんが生前、熊谷市は二つの川に挟まれたのびのびとした平野で、ゆっくりとした生活を送れた、住んでよいところだとおっしゃっていたことが忘れられないと、その死を悼みました。
金子さんの出身地の皆野町長の石木戸道也さんは、今後も金子さんの遺志を継ぎ、俳句と秩父音頭を大切に守っていくとの言葉を述べました。
金子さんが長年主宰してきた俳誌「海程」に共に取り組んできた秩父俳句連 盟の関田清延会長は、海程の句会を10年以上も一緒に行って来たので、寂しいの一言に尽きますと述べました。
この様に金子さんを慕う多くの人々の手により、葬儀は粛々と執り行われました。そしてその後に開かれたお別れの会はさらに多くの方々が集まったのです。
金子兜太さんのお別れの会には800人もの方々が集まった
6月22日に東京都千代田区の有楽町朝日ホールで、金子兜太さんのお別れの会が開かれました。会場には800人もの方々が集まり、献花をして金子さんを偲びました。お別れの会では金子さんの生前の姿の映像が上映され、金子さんの代表句が紹介されました。
現代俳句協会顧問でこの会の発起人代表の宮坂静生さんは、金子さんの戦時中の苦難について語り、戦争は悪であり、反戦活動の必要性を訴え、金子さんは国民詩人と言うべき偉業を成し遂げたと讃えました。
また金子さんと親しかった俳人の黒田杏子さんは、いつも気さくで威張らず、誰に対しても平等に接する人でしたとその人柄を懐かしみました。金子さんの息子の真土さんは、知性を持って行動することを重んじた父の偉業を讃えました。
こうして多くの人に慕われた金子さんのお別れの会は、盛況のうちに幕を閉じたのです。
社会性俳句を広め多くの人に影響を与えた金子兜太さん
俳人の金子兜太さんの業績とその最期の様子について述べましたが、いかがでしたでしょうか。金子さんは反権力の人という印象もありますが、本人はあくまで自由に生きただけ、自由の俳人と言われると嬉しいと述べています。我々も金子さんを見習って自由で奔放に生きたいものですね。
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