住吉都さんの葬儀|ソチ五輪代表のスピードスケート選手が自室で死去
公開日 : 2020/6/25
更新日 : 2020/9/10
住吉都さんの葬儀は、長野市内で非公開にて執り行われました。住吉さんは、スピードスケート選手として活躍し、ソチオリンピックへの出場経験もありました。そんな素晴らしい選手の葬儀が非公開でひっそりと行われた理由は何だったのでしょうか?
公開日 : 2020/6/25
更新日 : 2020/9/10
目次
住吉都さんの経歴
スピードスケートで活躍した住吉都さんの経歴はどんなものだったのでしょうか。幼少期からスピードスケートに親しみ、抜群の身体能力と努力でオリンピック出場も果たしている住吉さん。大学時代には、平昌オリンピックで金メダルを獲得した小平奈緒さんと切磋琢磨した仲でもありました。
スピードスケートを始めたのは小学一年生の頃
住吉都さんは、北海道釧路市で1987年3月17日にこの世に生を受けました。釧路市は、スピードスケートが盛んな地域ということもあり、小学校一年生のときからスピードスケートを始めています。
そのきっかけは、先にスケートを習っていたお姉さんの付き添いに行っていたことでした。スケートリンクの近くに雪山があり、最初はそこで遊ぶのが大好きだった住吉さんですが、その興味が徐々にスピードスケートへと向いていったのでしょう。
その後、スピードスケートの魅力にどんどんハマっていき、才能を開花させていった住吉都さん。釧路北陽高校在学中には、インターハイで1500mに出場し、見事に8位入賞を果たしています。
高校時代に住吉さんを指導した榊稔監督は、住吉さんを高く評価していました。住吉さんは勝ち気で身体能力が高く、男子とも対等にやりあっていたそうです。その上、勉強もしっかりとでき、国立大学である信州大学へと進学を果たしました。
才能を開花させた大学時代
大学時代には、インカレ総合3連覇など華々しい成績を残している住吉都さん。小平奈緒選手と切磋琢磨しながら実力をつけていきます。中距離選手から短距離選手に転向したのも大学時代のことでした。
大学時代にはインカレ総合3連覇を果たす
大学は北海道を離れ、長野県にある信州大学へ進学します。信州大学は国立大学であるため、簡単に入れる大学ではありません。住吉都さんはスピードスケートに打ち込む傍らで、勉学にもしっかりと勤しんでいたのでしょう。非常に努力を惜しまない人柄だということが見てとれます。
住吉さんは、大学時代にはインカレで総合3連覇という偉業を成し遂げます。インカレとは「全日本学生選手権大会」のことで、高校で言うならばインターハイに相当します。つまり、大学が参加するスポーツ大会の最高峰に位置づけされているのです。大学4年時には、総合に加え1000mで優勝を果たしたこともあり、中距離選手から短距離選手へと転向することを決意します。
同級生の小平奈緒選手について
信州大学時代には、小平奈緒さんと同級生になります。小平奈緒さんといえば、バンクーバー、ソチ、平昌と3回のオリンピックへ出場している経験があります。平昌オリンピックでは、500mで金メダル、1000mで銀メダルを獲得しているエリートです。
社会人になるころには、スピードスケートの短距離部門で女子ナンバー1の評価を得ていたのが小平奈緒選手でした。その2番手とされていたのが、住吉選手です。2人は切磋琢磨しながら、スピードスケートに打ち込んでいたのではないでしょうか。
社会人1年目で所属スケート部が解散
大学を卒業して社会人となった住吉都さんは、スケート部を所属する企業へ就職します。しかし、入社1年目のこれからというときに、スケート部が解散してしまいます。これは、企業の経済的なものが理由でした。
しかし、タフな住吉さんはそこでスピードスケートを諦めたりはしませんでした。練習する環境を求めて、各地を転々とする暮らしが始まります。ほとんど家に戻らなかったため、家賃がもったいないという理由で契約していたアパートを解約し、貯金を切り崩しながら競技を続けました。当時の心境について「このままじゃ終われない」という気持ちだったということを話しています。
その後、日本オリンピック委員会が行っているアスリート支援事業のもと、所属先がローソンに決定しました。安定した環境を手に入れ、ソチオリンピックを目指していくようになります。
ソチオリンピックに出場
2014年にはロシアで行われたソチオリンピックへ出場を果たします。結果は、500mで14位、1000mで22位でした。住吉都さんは、「初めてのオリンピックはとても刺激的だった」としながらも、思うような最高の滑りができず、結果には満足していない様子でした。地元である釧路市では、オリンピック時にパブリックビューイングが設置され、地元の期待を一心に背負いながらソチの地へ向かったであろうことが想像されます。
また、小平奈緒選手もソチオリンピックに一緒に出場しています。小平選手は500mで5位入賞、1000mで14位という成績を残しています。大学時代を共にしたライバルと共に闘えるということで、お互いに心強いものがあったことでしょう。
平昌オリンピックは出場が叶わず
住吉都さんは、ソチオリンピックのあと現役を続行し平昌オリンピックへの出場を目指していました。しかし、平昌五輪代表選考競技会では500mで16位、1000mで18位と成績がふるわず、平昌オリンピック出場を逃してしまいます。しばらく前から腰を痛めており、思うような練習が出来ていなかったと言われています。
そして、平昌五輪代表選考競技会の約一ヶ月後には、長野市の自室で亡くなっているのが発見されました。2018年1月20日のことで、まだ30歳という若さでした。
住吉都さんの死因は?
住吉都さんの死因は何だったのでしょうか。ご遺族は死因を公表していません。しかし、NHKでは住吉さんの死因を「自殺」と報道したことから、自分で命を断ってしまったと考えている人が多いようです。
スピードスケートが原因ではない
もし本当に自殺だったとしたなら、何が原因だったのでしょうか。出場を目指していた平昌オリンピックの代表選手に落選し、絶望して命を絶ってしまったのでは、という意見がありました。しかし、これについては信州大時代に住吉都さんを指導した結城コーチのコメントで「スピードスケートの調子が上がらなくて、というわけではない。スケートがだめになったからという負けの気持ちではない。ほかにも色々あったと聞いている」という、住吉さんを弁護するものがあります。
今となっては、住吉さんが命を断ってしまった原因ははっきりとは分かりません。明るく、実直な性格から、周りからの人望が厚かったという住吉都さん。弾ける笑顔が印象的なだけに、その亡くなり方はショッキングなものでした。
住吉都さんのブログ
住吉都さんは生前、ブログを書いていました。スピードスケートについてのことは書かれていませんが、自分を鼓舞する言葉や、大丈夫だよと自分に言い聞かせるような言葉が残されています。こうしてブログに自分の胸の内を吐き出すことで、苦しさを乗り越えていたのかも知れません。
スピードスケート界からは悲しみの声
平昌オリンピッ直前という時期に、住吉都さんが急死され、驚きと悲しみをもって報道がされました。スピードスケート関係者からは、あまりの突然の死に、戸惑いと悲しみのコメントが多く寄せられています。
小平奈緒選手のコメント
平昌五輪代表選考競技会で住吉都さんの落選が決定したあと、小平奈緒選手は「奈緒の金は私の金」という言葉をかけてもらったことを明かしています。住吉さんと一緒に練習をする機会もあり、「スケートに一生懸命な姿が忘れられない」と話しています。
また、平昌オリンピックで金メダルと銀メダルを獲得し、会見が開かれたときにも、住吉さんについて質問が及びました。小平奈緒選手は、涙ぐみながら「本人に直接、メダルのことを報告できないことが残念」と語りました。長い間、お互いを鼓舞し合いながらがんばった同級生が、こんなにも早く亡くなってしまうというのは想像を絶する悲しみです。
橋本聖子さんのコメント
日本スケート連盟の会長である橋本聖子さんも、住吉都さんの訃報に驚きを隠せないようでした。日本スケート連盟へは、住吉都さんが所属するローソンから一方が入ったとのことで、「どうしたこうなったのか」と、無念さをコメントしました。
釧路北陽高校の榊稔監督のコメント
住吉都選手の恩師である釧路北陽高校の榊稔監督は、2017年の夏に北海道帯広市で住吉さんと会う機会があったと言います。そのときには腰の状態を悪くしていた住吉さん。榊監督はそのときの住吉さんの印象について「元気がないように見えた」と話しています。その頃から、なにか住吉さんの中に悩みや苦しみがあったのかも知れません。
住吉都さんの葬儀は非公開
住吉都さんの葬儀は、ご遺族の意向からすべて非公開で執り行われました。そのため、どんな方が参列したのか、いつ行われたのかということは、全く報道されていません。
ただ、小平奈緒選手はご遺族の了承を得て、最後のお別れができたことを明かしています。ソチオリンピックに一緒に出場し、スピードスケートを共にがんばった仲ですから、2人にしか分からない特別な絆があるのではないでしょうか。
住吉都さんは才能にあふれる努力家だった
住吉都さんは笑顔が素敵で、コメントに力がある明るい方でした。一握りの人しか叶えることのできないオリンピック出場も果たし、スピードスケートの才能にあふれるすばらしい選手でした。早世されたことが残念でなりません。ご冥福をお祈りします。
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