西部邁さんの葬儀 | 政治評論家の自殺を幇助した2人の顛末は?

公開日 : 2020/6/22

更新日 : 2020/9/10

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朝まで生テレビに出演していた評論家の西部邁さんの自殺と、それに協力者がいたことはニュースで大きく報道されました。この事件の真相はどういったものだったのでしょうか。この記事ではそれについて詳しく書いているので、興味がある人は是非ご覧ください。

公開日 : 2020/6/22

更新日 : 2020/9/10

目次

西部邁さんのプロフィール

保守系の政治評論家として論壇やテレビ番組で活躍されながら、自殺により亡くなられた西部邁さん。その死の詳細を知る前に、まず西部さんの業績を確認しましょう。

東京大学に入学し60年代安保闘争に参加

西部邁さんは1939年3月15日に北海道の山越郡長万部町で生まれました。西部さんの父は農協職員でした。西部さんは北海道札幌南高等学校を出ましたが、それまではマルクスやレーニンも知らず、政治や経済については関心がなかったそうです。

 

また西部さんは後のテレビ出演では雄弁に語っていますが、18歳までは吃音症で、喋るのが苦手で無口な少年だったそうです。それでも一浪して1958年に東京大学に合格しました。そして同年にいわゆるブントと言われる共産主義者同盟に入ります。

 

そして1959年から西部さんは東大教養学部のブントの自治会委員長を務めます。全日本学生自治会総連合の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加しました。このように西部さんは当時の大学生らしく左翼思想に関心がありましたが、自治会選挙の工作で共産党員の候補を落選させるといったこともしています。

東京大学を卒業し海外に渡る

西部邁さんは1961年には左翼過激派と決別しました。この頃から保守系の思想に傾きます。1964年に東京大学経済学部を卒業し、大学院に進学、経済学を専攻します。そして1971年に東京大学大学院を経済学修士として卒業しました。

 

このように西部さんは最初は左翼活動をしていましたが、1971年の赤軍による山岳ベース事件の集団リンチ殺人を見て、かつては左翼思想に共感していたことを反省します。

 

西部さんは横浜国立大学経済学部助教授、東京大学教養学部助教授を務めた後、1975年に初めての著書『ソシオ・エコノミックス』を出版し、従来の経済学を批判します。その後は海外に渡り、カリフォルニア大学やケンブリッジ大学に在籍します。

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東大教授を務めるものの2年で退職

西部邁さんは帰国後、保守系の評論家として活動します。そして1986年に東京大学教養学部教授に就任します。他にも放送大学客員教授やサントリー学芸賞選考委員も務めました。しかし東大教授に就いた2年後には東大を辞任してしまいます。

 

西部さんが東大を辞めた理由は、中沢新一さんを助教授に推薦したところ教授会で否決されてしまったからです。西部さんはこれに抗議して東大教授を辞任しました。西部さんはこの騒動を「東大の馬鹿騒ぎ」と評しています。

 

その後は鈴鹿国際大学や秀明大学の教授職を歴任しながら、「朝まで生テレビ」に出演して保守系の論客として広く知られるようになりました。

自身の病気や妻の死といった不幸が続く

西部邁さんは1994年からは保守思想を論じる月刊誌『発言者』を刊行していました。これは2005年には売上の問題で廃刊となり、西部さんは後継誌の『表現者』の顧問を務めました。また新しい歴史教科書をつくる会の理事にも参加しています。しかし2002年には保守系の漫画家として有名な小林よしのりさんと共に退会しています。

 

2013年には首相公邸で安倍晋三総理と会食してます。ただし西部さんは安倍総理を、本当の保守ではない、戦後の日本人の愚かさがにじみ出ていると批判しています。後に安倍総理を批判しているお笑いタレントの村本大輔さんと対談をして意気投合しています。

 

この頃西部さんは喉頭がんが出来ていることを告白しています。西部さんが「喫煙文化研究会」を起こしているほどの愛煙家であることと関係があるかもしれません。また2014年には妻を亡くしています。実は西部さんはこういった不幸が起こる前から、自分の死について考えていたのです。

西部邁さんの自殺の真相

東大の教授を務め、テレビでも有名な評論家だった西部邁さん。その死は不幸な自殺によるものでした。その死の前後に起きたことを詳しく述べましょう。

自身を慕う2人と自殺の計画を立てた

西部邁さんは50代からすでに自身の死を考えていました。喉頭がん以外に背中の持病の痛みや皮膚炎、神経痛に苦しみ、頚椎症性脊髄症で体を自由に動かせなくなっていました。そのため周囲の人たちに死にたいと漏らしていたということです。

 

そして2017年の夏に、西部さんは自身の番組『西部邁ゼミナール』のプロデューサーのMXエンターテインメント社員のK氏に、自殺についての協力の依頼をしました。K氏はそれを承諾し、西部さんの自殺に使用する道具の準備を始めました。

 

また同年10月に、西部さんが主催する私塾「表現者塾」の塾頭のA氏にも自殺の協力の依頼をしました。A氏もそれに応じ、11月に西部さんとK氏・A氏で西部さんの自殺の打ち合わせをしました。そして翌年1月20日に自殺を決行することを決めたのです。

 

K氏もA氏も西部さんの思想に共鳴し、師のように慕っていたため、西部さんの依頼を断ることが出来なかったことが後に判明しています。

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西部邁さんらは周到に自殺の準備をした

西部邁さんはパソコンが使えなかったため、K氏がパソコンで遺書を代筆しました。2017年12月にA氏とK氏は西部さんが自殺をする予定の多摩川の河川敷を下見しました。西部さん夫妻は多摩川河川敷を気に入ってたため、死に場所に選ばれたと考えられています。

 

自殺を決めた後、西部さんは仕事の打ち合わせや飲み会で1月に自殺すると公言していました。そして2018年の1月20日の夜に予定通り、西部さんとA氏・K氏が集まりました。自殺の直前に、西部さんは娘と新宿の文壇バーで飲酒しました。これが最後の別れとなりました。

 

西部さんは娘にこれから会う人がいるとだけ言って、午後11時50分頃に別れました。そして西部さんはA氏・K氏とレンタカーで多摩川河川敷に向かいました。0時50分頃に河川敷そばに着くと、A氏は西部さんとK氏を見送りました。

西部邁さんは2人の手を借りて自殺を決行した

西部邁さんとK氏は河川敷に着くと、K氏は木にロープを結び付け、西部さんの体にはハーネスを巻いて、それらを結んで西部さんが木から離れないようにました。これは入水自殺した後に流されないようにするためでした。

 

また西部さんは毒も持っていて、これを口に含みました。そして多摩川に入水しました。K氏とA氏はそのまま引き上げました。こうして、西部さんは2018年の1月21日未明に78歳で自殺を遂げたのです。

 

西部さんの娘は父と別れた後に不審に思い、警察に届け、西部さんの息子にも伝えました。捜索した結果、息子が川に浮かぶ西部さんを見つけました。西部さんはすでに意識がなく、川辺にはパソコンで作成した遺書が残されていました。

遺書には娘や警察への気遣いが記されていた

西部邁さんの遺書は娘宛には、君にこれ以上迷惑をかけたくないこと、自殺に同意できなくても分かってもらえると思っていること、これから兄弟と良い人生を送ってほしいこと、自分には葬儀や墓は不要であるものの、自分の知人からの飲食の誘いは受けて欲しいことが記されていました。

 

さらに警察宛の遺書には手を煩わせることへの気遣いが書かれていました。西部さんの遺体は解剖され、溺死によるものと診断されました。この時点では警察は西部さん単独による自殺であると考えていました。

西部邁さんの葬儀と、自殺に協力した2人のその後

西部邁さんは2人の協力者により自殺を決行しました。西部さんの葬儀と、2人の協力者はその後、どうなったのでしょうか。

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西部邁さんの葬儀は密葬で行われた

西部邁さんは遺書で自分の葬儀は不要と書きましたが、近親者のみの密葬が行われました。渋谷区幡ヶ谷の代々幡斎場に、西部さんの遺体が棺に納められて安置され、遺族と西部さんの知人達はそこで最後のお別れをしました。戒名は「慧海院釋誥邁」です。

 

出棺の時には、西部さんが好んで歌っていた「蒙古放浪歌」が歌われ、棺の中にその歌詞が書かれた歌集が納められました。そして火葬が行われました。驚くべきことに、K氏はその葬儀に、自殺の協力者と知られないまま出席していたのです。

 

その後警察は西部さんの死に不審な点があると判断し捜査を始めました。西部さんは体が不自由なため一人で自らを縛れるはずがなく、使用出来ないはずのパソコンで遺書を作成しているのもおかしいからです。

協力者が逮捕された後、「西部邁先生を偲ぶ会」が開かれた

警察の捜査の結果、A氏とK氏が容疑者として浮かびました。そして2人は4月5日に西部邁さんの自殺幇助の容疑で逮捕されたのです。西部さんの娘はこれに対し、2人に対して父が迷惑をかけてしまい申し訳ないとコメントしています。

 

この事件について多くの著名人がコメントし、小林よしのりさんは警察は見逃せばよかった、自分が頼まれたら手伝ったかもしれない、安楽死制度があればいいのにと発言しています。

 

4月24日にはK氏が主催するはずだった「西部邁先生を偲ぶ会」が都内のホテルで開催されました。この会には300人もの方々が出席し、司会の立川談四楼さんや漫画家の黒鉄ヒロシさんなど多くの著名人がいました。

 

会場の西部さんの遺影の前には逮捕された2人の減刑嘆願書が用意され、出席者は署名をしました。会では西部さんへの献杯が終わると出席者が順番に登壇し、西部さんの思い出を語ったということです。

自殺に協力した2人の裁判が開かれた

7月12日に自殺幇助で起訴されたA氏とK氏の初公判が東京地裁で開かれました。A氏は起訴内容を認め、西部邁さんの息子が出廷しA氏を擁護しました。A氏の裁判は即日結審し、懲役2年、執行猶予3年の有罪判決が言い渡されました。

 

K氏はA氏と違い、西部さんは自身の意志で入水したのであり自分は幇助していないとし、無罪を主張しました。9月12日にK氏はMXエンターテインメントを懲戒解雇されています。9月14日に第三回公判が開かれ、K氏にはA氏と同様に懲役2年、執行猶予3年が言い渡されました。

 

A氏とK氏は被告としての姿勢は違ったものの、2人とも執行猶予付きの比較的軽い刑になっています。一般には執行猶予中に何も無ければ懲役刑は執行されません。西部さんと2人には強い信頼関係があったこと、遺族が2人の処罰を望んでいなかった事がその理由となっています。

西部邁さんの自殺は社会に波紋を投げかけた

西部邁さんの業績とその死にまつわる出来事を述べましたがどのように感じましたでしょうか。西部さんの自殺の理由は病気の苦しみであり、日本に安楽死制度があれば自殺に協力した2人が幇助に問われることはありませんでした。西部さんの死が安楽死について考える一つのきっかけになったのは間違いないでしょう。