醍醐猛夫さんの葬儀 | 王貞治さんが悼んだオリオンズの名捕手
公開日 : 2020/6/19
更新日 : 2020/9/10
オリオンズで正捕手として活躍し、プロ野球記録の4打席連続本塁打を放った醍醐猛夫さん。プロ野球選手としては決して有名ではないかもしれませんが、実はあの世界のホームラン王の王貞治さんに尊敬され慕われた存在だったのです。そんな醍醐さんの人生を詳しく説明しましょう。
公開日 : 2020/6/19
更新日 : 2020/9/10
目次
醍醐猛夫さんのプロフィール
オリオンズで活躍した名捕手、醍醐猛夫さんの葬儀はどのような様子だったのでしょうか。それを知る前に、醍醐猛夫さんの足跡を辿ってみましょう。
王貞治さんとバッテリーを組み甲子園で活躍
醍醐猛夫さんは1938年11月15日に東京都北区で生まれました。早稲田実業高校に進学し、1年生の1954年から捕手のレギュラーとして活躍しました。しかし2年生までは甲子園に出場することが出来ませんでした。
醍醐さんが3年生になった時、早稲田実業に大物新人が入ります。それは後の世界のホームラン王となる王貞治さんです。当時の王さんは投手で醍醐さんとバッテリーを組み、予選ではノーヒットノーランを達成するなど、1年生ながら大活躍をしました。
そして醍醐さんと王さんはついに夏の甲子園に出場します。醍醐さんはバッティングも良く3番を打っていました。しかし甲子園では2回戦で岐阜商業高等学校に敗退してしまいます。それでもあの王さんとバッテリーを組み、甲子園に出た醍醐さんのキャリアは素晴らしい物でしょう。
醍醐さんと王さんは2学年離れていたため一緒にプレイしたのは数か月で、プロでは対戦も少なかったのですが、王さんは醍醐さんとの思い出を後までずっと大切にしていたことが、後の醍醐さんの葬儀でわかります。
毎日オリオンズに入団し正捕手となる
醍醐猛夫さんは高校卒業後、1957年に毎日オリオンズに入団しました。そしてなんと新人で正捕手の座を掴み、1年目で113試合に出場したのです。バッティングでも2試合連続本塁打や、稲尾和久さんからタイムリーを打って連勝記録を20で止めるなど活躍しました。
その後は不振の年もあったものの、ずっと1軍に定着して活躍を続けています。1960年にはリーグ優勝にも貢献しました。そして1965年には初めて全試合に出場し、規定打席でホームラン15本、56打点と好成績を残しました。これが醍醐さんの最高のシーズン成績となっています。
この年以降は醍醐さんは不動の正捕手となり、オールスターの常連にもなります。そして1970年に10年ぶりのリーグ優勝、巨人との日本シリーズに全試合先発で出ています。しかし勝つことはできず、巨人のV6を許しました。そしてこれが最初で最後の王貞治さんとの公式戦の対戦になりました。
プロ野球タイ記録の4打席連続本塁打を達成
1971年には醍醐猛夫さんは通算1000本安打を達成しました。そして7月3日と4日でプロ野球タイ記録の4打席連続本塁打を達成します。醍醐さんは通算打率は.234で打者としてはそれほど打てる方ではありませんでしたが、それでも要所では目立つ活躍をしています。
オリオンズの正捕手として長い間活躍してきた醍醐さんですが、1973年から出場が減り始め、1974年にバッテリーコーチ兼任となり、1975年に引退しました。その後はオリオンズで2軍監督、1軍ヘッドコーチ、スカウト部長などを務めています。スカウトとしては小宮山悟さんなどの名選手を獲得しました。
醍醐さんはオリオンズ選手として毎日、大毎、東京、ロッテに所属しましたが、これは他には榎本喜八さんしかいません。ただし榎本さんは西鉄にトレードされたので、この時代に生涯ずっとオリオンズで一筋だった選手は醍醐さんだけなのです。
引退後も様々な分野で活躍
醍醐猛夫さんは引退後はオリオンズの球団の仕事以外にも、テレビ埼玉やBS12の野球解説者、全国野球振興会常務理事、サンディエゴ・パドレスの極東スカウトも務めました。メジャーからもその手腕を評価されていたのです。
また在宅介護支援デイケアの会社経営といった野球以外の分野でもその才能を発揮しています。息子の醍醐象器さんは東京医科大学理事長付参与になるなど、家庭にも恵まれました。象器さんは後に醍醐猛夫さんの葬儀の喪主を務めています。
しかしそんな醍醐さんの順調な人生にも、晩年は不幸が訪れてしまいます。
醍醐猛夫さんの最期
オリオンズで長年活躍し、引退後も充実していた醍醐猛夫さん。しかしその晩年は辛い闘病生活を送ったのです。
急性骨髄性白血病により闘病生活を送る
醍醐猛夫さんは76歳の時に急性骨髄性白血病を発症してしまいました。急性骨髄性白血病とは白血病の一種です。白血病とは、造血幹細胞が血液細胞となる途中でがん化する病気です。その中でもリンパ球以外の血液の細胞ががん化する病気が急性骨髄性白血病です。
急性骨髄性白血病は白血病の中でも原因が不明の病気です。急性リンパ性白血病はウイルスが原因の場合もありますが、骨髄性についてはなぜ発症するのかわかってないのです。
急性骨髄性白血病は治らない病気ではありませんが、醍醐さんは高齢になってから発症したために困難な状況になりました。5年間、入退院を繰り返して辛い闘病生活を送ったようです。
葬儀では王貞治さんが告別式に訪れて弔辞を読まれた
醍醐猛夫さんは闘病生活を送り、残念ながら81歳で亡くなりました。その葬儀には、かつて早稲田実業のチームメイトだった王貞治さんが訪れたのです。
告別式には早実でチームメイトだった王貞治さんが訪れた
醍醐猛夫さんは2019年12月11日0時42分、都内の病院で急性骨髄性白血病のため81歳で亡くなりました。告別式は17日の午前11時半から東京都文京区の護国寺で行われました。
斎場には元ロッテ監督の八木沢荘六さん、巨人の元スカウトの末次利光さんの他に、現在はソフトバンクホークス球団会長の王貞治さんが訪れたのです。前述の通り、王貞治さんと醍醐猛夫さんがバッテリーを組んだのは早実で数か月の間だけです。
プロではジャイアンツとオリオンズはリーグが違うため、対戦したのは日本シリーズで1度だけで、他はオープン戦とオールスター戦だけでしか出会ってません。王貞治さんと醍醐猛夫さんはそれほど深い縁はないように見えます。
王貞治さんに感謝されていた醍醐猛夫さん
それでも王貞治さんは醍醐猛夫さんの告別式に訪れたのです。短い間でも、早稲田実業での醍醐さんとのバッテリーにとても強い思い入れがあるのでしょう。王さんは告別式では醍醐さんに大きく育ててもらってありがたかったと感謝の言葉を述べています。
王さんは、自分は1年生の時はコントロールが悪くて醍醐さんは苦労されたようですが、おおらかに育ててもらえた、早稲田実業の生活があったから今がある、醍醐さんは一番元気で明るい人だったと、最後さんの人柄を讃えています。
あの世界のホームラン王の王さんにこれほどに讃えられるまでに、醍醐さんは皆から慕われる人だったことがわかります。
王貞治さんが読み上げた弔辞
王貞治さんが醍醐猛夫さんの告別式で読み上げた弔辞はどのような内容だったのでしょうか。それは要約すると以下のような内容です。
醍醐さんは病気を発症してから5年間、何度も入退院を繰り返して素晴らしい戦いをしました。醍醐さんの明るい性格と強い人間性が、辛い戦いを乗り越えて皆の心の支えとして生きられたのだと思います。
私は昭和31年に早稲田実業に入りました。ラーメン屋の息子だった私は、親があまり厳しくなく、天真爛漫にのびのびと成長することができました。そのまま野球部に入り、先輩達もうるさいことを言わずに自由気ままに野球に打ち込むことが出来ました。
王貞治さんが読み上げた弔辞の続き1
その早稲田実業の経験が、私の野球人生に大きく影響しました。その時の野球生活があるから今があります。醍醐さんは私の恩人でした。いつもニコニコしていて、投手だった私がストライクが入らなくても、根気よくリードしてくれました。
そんな醍醐さんの長所を伸ばす指導法が、今の野球のコーチには求められています。現代の子供たちの野球離れの原因は、勝ちにこだわりすぎることによる厳しいトレーニングや指導が少年たちを野球から遠ざけたからだと私は危惧しています。
いつも明るくにこやかな醍醐さんのような指導こそが、選手たちのやる気を引き出せるのです。醍醐さんのような指導が見直され、広く行われるようになれば、日本の野球回はよりよくなるのではないかと思います。
王貞治さんが読み上げた弔辞の続き2
人間はいつかはこのような時を迎えなければなりません。でも醍醐さんはそれまで明るくにこやかにこの日を迎えられたと思います。皆さんに勇気を与える良い人生だったのでしょう。後に続く我々も醍醐さんを見習い、人々に良い影響を与えられるようにしたいものです。
私も残り人生は長くはありませんが、改めて醍醐さんを見習って行きたいと思います。最後の5年間は苦しいこともあったのでしょうが、よく闘ったと思います。これからはゆっくりお眠り下さい。本当にありがとうございました。後輩 王貞治。
弔辞の内容は以上です。世界の王貞治さんに先輩としてこれほど慕われていた醍醐さんの人柄を偲ぶことができますね。
世界の王貞治さんに先輩として慕われた醍醐猛夫さん
醍醐猛夫さんの生涯とその最期をお伝えしましたが、どう感じられたでしょうか。醍醐さんはオリオンズで長年活躍しましたが、プロ野球選手としては地味な存在だったかもしれません。それでもあの世界のホームラン王に先輩としてこれほど慕われていたのですから、人には無いものを持っていらっしゃったのでしょう。
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