野中広務さんの葬儀|毒まんじゅう・差別に屈しない政治家の最後とは
公開日 : 2020/6/24
更新日 : 2020/9/10
「政治は弱い人のためにある」という信念を貫いた政治家の野中広務さん。2018年1月26日、京都市内の病院で逝去されました(享年92歳)。戦争反対論者でもあった野中広務さんは、どのような葬儀を選んだのでしょうか。豪腕政治家がたどった最後をお伝えいたします。
公開日 : 2020/6/24
更新日 : 2020/9/10
目次
野中広務さんのプロフィール
差別を憎み、戦争のない平和を願い続けた野中広務さん。いったい彼はどのような葬儀のかたちを選んだのでしょうか。まずは、野中広務さんについてのプロフィールを詳しく紹介していきます。
53歳、京都府副知事に就任
野中広務さんは、いわゆるエリートコースを歩んできた政治家ではありません。京都府園部町の農家の生まれで、旧制京都府立園部中学校を卒業後に18歳で大阪鉄道局の業務部本局に採用されます。20歳の時には召集令状が来て太平洋戦争を経験しました。
終戦後の26歳、戦後の地域復興を目指して青年団活動に参加していたことから、生まれ故郷である園部町町議会議員として地方行政に携わるようになります。その後は園部町長や京都府議会議員などを務め、53歳で京都府の副知事にまで登り詰めるのです。
58歳、衆議院議員に初当選
野中広務さんは京都府副知事時代に、府庁職員の間違った税金の使い方を徹底的に指導します。ここから、野中広務さんの豪腕ぶりが開花していきます。そして58歳の時、衆議院京都2区の補欠選挙で初当選を果たすのです。
当初、野中広務さんは中央政界に進出する気はなく、副知事を任期終了した後には生まれ故郷の重度障碍者福祉施設の理事に専念しようと考えていたそうです。しかし、「地方政治の苦しみを知っている人に進出して欲しい」と竹下登さんの勧めがあり、出馬を決められたそうです。
69歳、村山内閣に初入閣
自民党として中央政界に進出した野中広務さんは、同じく地方政治の苦しみを知る竹下登さんの側近として頭角を現すようになります。自民党を離党した小沢一郎さんを攻撃する急先鋒として注目されるようになったのです。
考えの異なる政敵は容赦なく追い詰めるスタンスに、野中広務さんはやがて「政界の狙撃手」と異名されるようになります。その後、豪腕ぶりはますます高まり、69歳のときには、村山内閣に自治大臣・国家公安委員長として初入閣するまでになるのです。
73歳、小渕恵三に懇願されて内閣官房長官に
仕事ができる野中広務さんは、第84代内閣総理大臣の小渕恵三さんに懇願されて、内閣官房長官に就任します。豪腕ぶりを政界で発揮し続け、小渕恵三さんが倒れてしまった後は自民党幹事長として大活躍しました。
「影の総理」と評されるようになったのもこの頃で、ついには野中総理待望論が囁かれるまでになったのです。しかし、後継者に恵まれなかった野中広務さんの影響力は政界のなかで少しずつ低下していってしまいました。
78歳、毒まんじゅう発言…そして引退へ
2003年、野中広務さんは自民党総裁選挙で対立していた小泉純一郎さん支持に寝返った一部の議員に「毒まんじゅう」という言葉を投げかけます。これは名言となり、同年のユーキャン流行語大賞に選出されるまでになりました。
しかし、それでも小泉純一郎さんの再選を止めることはできず、失意のなか政界を引退することとなります。その後は京都府内の大学で客員教授となったり、京都府土地改良事業団体連合会の会長理事となったりして、再び地方行政に携わることとなるのです。
92歳、多臓器不全で逝去
野中広務さんは、全国土地改良事業団体連合会(全土連)で会長理事として余生を捧げながら、後進の応援にも積極的に参加していきます。その間には、全土連を政治的影響力から守るために自民党を離党したり、復党したりといった期間もありました。
そして2018年1月26日、野中広務さんは多臓器不全で死去します。後に、野中広務さんは「差別とたたかう政治家」「弱者へのまなざしを大切にする政治家」として、政界や多くのメディアから惜しまれていくのです。
野中広務さんが差別とたたかう政治家といわれるのはなぜ?
一見、裏の権力者のようなイメージが漂う野中広務さん。しかし、本当の姿は、差別を憎み、権力と闘い続ける政治家でありました。ここでは、「政治は弱者のためにある」という信念を貫き通した野中広務さんの背景についてクローズアップしていきます。
自身が被差別部落出身だったから
関西地方には、関西電力の事件など現在でも部落出身者への根強い差別や、それにまつわる不正が残っています。とりわけ、京都府は激しい差別が繰り広げられていました。野中広務さんの出身地・京都府園部町も部落と呼ばれる地域だったのです。
そこで、野中広務さんは差別されて働く在日朝鮮人の姿を目の当たりにして衝撃を受けます。さらには、大阪鉄道局に勤めていた時も自身が被差別部落出身であることから、同僚や後輩にあからさまな差別の目で見られていたことを知って愕然とするのです。
在日女性に育てられ償いの気持ちが生まれたから
野中広務さんは、ご自身の本のなかでもよく話されているように自身が被差別部落出身者であることを公言している政治家です。幼少の頃、在日韓国朝鮮人の女性が子守としてやってきて、野中さんを含める6人兄弟を世話をしてくれていたのだそうです。
幼かった野中広務さんは在日の女性と食事を共にするなかで、「朝鮮に償いたい」という気持ちが生まれました。そのことからも、野中広務さんは京都副知事時代に、在日朝鮮人が不法占拠していたゼロ番地と呼ばれる土地を区画整理して、松ノ木団地誕生に尽力しています。
親心を持って部落差別の原因を解消したから
野中広務さんは、自身が被差別部落出身であることと、在日韓国朝鮮人に償いたい気持ちがあることから差別とたたかう政治家になりました。しかし、野中広務さんは、差別を逆手にとって利権を得ようとする在日韓国朝鮮人やエセ同和団体には厳しい態度で対応します。
不正の温床となっていた同和控除の終了こそが、真の部落差別解放であると野中広務さんは考えていたのです。野中広務さんの働きかけによって、国はこの同和控除に対して解消の通達をすることになりました。
ハンセン病に対する差別解消にも尽力したから
野中広務さんが行ったのは、部落差別の解消だけではありません。強制的な隔離や差別に苦しむハンセン病患者にも助けの手を差し伸べています。らい予防法の違憲性を求めて行われていた国家賠償訴訟に対して、国に控訴しないように働きかけたのです。
当時の厚生労働大臣の坂口力さんが医師であったことは、野中広務さんにとって追い風にもなりました。結果的に、国は控訴を断念し、ハンセン病原告団の主張を全面的に認めて和解が成立することとなったのです。
小泉純一郎と対立したのはなぜ?
差別に苦しむ人々へのまなざしを忘れず、徹底的に寄り添い続けた野中広務さん。しかし、そんな野中広務さんが政治家を引退することになったきっかけは、時の総理大臣・小泉純一郎さんの存在でした。
野中広務さんは、自身の悲惨な戦争体験から戦争反対を強く唱える政治家です。国のために命を捧げることが国民の本懐だという考えに、多くの人が染まり、命を落としてきたのが戦争時代です。
そんな過ちを二度と繰り返さないために、野中広務さんは9条の改正だけは絶対にしてはいけないと主張してきたのです。しかし、小泉純一郎さんは米国とイラクの戦争に対する支持を表明してしまいます。そんな国の総理大臣の姿に、野中広務さんは意見せずにいられなかったのです。
野中広務さんの葬儀は?お墓はどこ?
野中広務さんの葬儀については密葬であったと報道されています。喪主は野中広務さんのひとり娘の夫である河合純さんが務められたようです。娘さんご夫婦が、なぜ野中姓でないかというと、野中姓を名乗ることでお婿さんが部落差別にあうことを懸念したからだそうです。
葬儀の詳細について報道がほとんどされていないのは、野中広務さんが自分が受けた苦しみを後世に残すことのないようにという配慮からだったのでしょう。ちなみに、お墓は「京都市内の小さなお寺」であると、細野豪志さんがツイッターで述べられています。
場所は、京都市東山区の佛光寺本廟だそうです。ウェスティン都ホテルのそばにあるので、野中広務さんを慕うジャーナリストや議員や京都の人々にとっては足を運びやすい場所です。野中広務さんの命日には、墓前がお花でいっぱいになっているとのことです。
お別れ会は京都グランヴィアホテルにて
近親者による密葬とのことで、通夜・告別式などについてはほとんど情報のなかった野中広務さん。しかし、お別れ会は京都駅からほど近い京都グランヴィアホテルにて、4月14日に行われました。こちらのホテルは京都の地元の方が、冠婚葬祭によく使う人気のホテルです。
お別れ会は野中家と自民党の合同主催で行われ、実行委員長は二階俊博さんが務めました。安倍総理大臣をはじめ、石破茂元幹事長、森喜朗元首相、かつての政敵・小沢一郎さんなど政界の大物を含め約3000人が参会したとのことでした。
白い仏花を基調にした豪華な祭壇が印象的です。お別れ会のなかで、野中広務さんのひとり娘・河合多恵子さんは亡き父の平和を願う気持ち、そんな父を誇りに思っていることを述べられたそうです。
野中広務さんは最後まで差別と闘い続けた
野中広務さんの葬儀は、近親者による密葬です。最後まで、部落差別と闘い続けていたからこその決断だったのではないでしょうか。お墓は由緒ある佛光寺本廟です。人が選ぶ最後にはいろいろなかたちがあることを、ぜひ参考にされてはいかがでしょうか。
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