大塚実さんの葬儀 | 大塚商会創業者の社葬とお別れの会は盛大だった
公開日 : 2020/6/19
更新日 : 2020/9/10
たのめーるのテレビCMなどでOA機器商社の大塚商会を御存じの方は多くいることでしょう。大塚商会を創業した大塚実さんの最期は、その功績に相応しい盛大なものでした。この記事では大塚さんの人生とそのお別れについて記述していますので是非ご覧ください。
公開日 : 2020/6/19
更新日 : 2020/9/10
目次
大塚実さんのプロフィール
大手OA機器商社の大塚商会を創業した大塚実さんの葬儀はとても盛大なものでした。それを見る前に、まず大塚実さんの経歴を知っておきましょう。
学徒動員により南方戦線に出征
大塚実さんは1922年10月9日に栃木県益子町で生まれました。その後、現在の真岡高等学校を卒業しています。大塚実さんは母校を愛し、後の真岡高校の耐震工事に1億5千万円、グランドの人工芝整備に2億6千万円もの寄付をしています。
高校卒業後の1940年、大塚実さんは中央大学に入りました。しかし日本は第二次世界大戦に参戦し、1943年12月に学徒出陣により、大塚実さんは陸軍宇都宮連隊に入隊します。そして1944年5月には陸軍予備士官学校に入り、11月にシンガポールのシルサ南方軍教育隊に入隊します。
その後、大塚実さんは1945年4月にビルマ戦線に出征します。そして8月に終戦を迎えました。大塚実さんは最前線に送られながら、幸いにも戦争を生き延びることができたのです。
理研光学に入社、後に大塚商会を起業
終戦後、帰国した大塚実さんは1947年に理 研光学に入社しました。これは現在のリコー株式会社です。大塚実さんは営業マンとして優秀な成績を挙げますが、当時の社長の市村清さんと対立し、1961年にストライキを起こします。
しかし大塚実さんは敗れ、理 研光学を退社することになりました。そしてその年に自ら大塚商会を立ち上げて起業したのです。後から見るとこのトラブルは大塚実さんにとって、大きな転機になったと言えますね。
大塚商会を立ち上げた大塚実さんは、コピー機などのOA機器の販売を始めました。しかし大手企業と取引するのは困難だったため、中小企業に機器の実物を持ち込んで現金決済するという手法を取りました。これが功を奏し、売上を飛躍的に伸ばしました。
成長を続けた大塚商会
そして1968年、大塚実さんはリコー社長の市村清さんと和解し、リコーの製品を扱うようになりました。それからは大塚商会はリコーの1番のパートナーとなったのです。
大塚商会は1976年にNECとオフィスコンピューターの特約店契約を結びます。それ以後NECとはずっと強い関係で結ばれ、これが両社の売上を大きく伸ばすことになりました。大塚実さんはNECのサーバ事業にも助言するなど、両社は深い関係にあります。
80年代に入り、大塚商会は個人向けのパソコンの販売、CAD事業、ホテル経営、インターネットプロバイダといった多角化経営も始めます。1999年にはOAサプライECサイトの「たのめーる」を時代に先駆けて開始しています。
そして2000年に大塚商会は東京証券取引所一部に上場します。大塚商会は名実ともに大手企業になったのです。大塚実さんは日本の産業の発展に貢献したと讃えられ、「経済産業大臣賞」を受賞しています。
その後の大塚実さんは2001年に長男の大塚裕司さんに社長職を引き継いで会長に就任し、2004年には相談役名誉会長になりました。
環境保護活動を支援して社会貢献
大塚実さんは環境保護活動にも熱心に取り組みました。NPO法人の日本橋川・神田川に清流をよみがえらせる会の特別顧問を務めています。
またホテル経営をしていた縁で、熱海市が2006年に財政危機宣言をした時に協力を申し出て、熱海市の熱海梅園を整備して梅の木の生育を保護しています。さらにツヅジやモミジの植樹も行いました。これにより梅園は観光資源としての価値が高まったのです。
他にも鴨川市の大山千枚田の保全や益子町の陶芸を通した国際交流活動にも貢献し、紺綬褒章を受賞しています。さらに出身の益子町の名誉町民にもなっています。大塚実さんは地元の誇りと言えるでしょう。
亀の歩みは兎より速いことを知れ
大塚実さんは社訓で「亀の歩みは兎より速いことを知れ」という言葉を用いて、自分にとっての最大のポリシーとしていました。兎と亀の童話のように、足の遅い亀でも一歩一歩休まず着実に目標に向えば足の速い兎に勝てる、という教訓を社員に説いていました。
また困難を味方にすることも教えていました。困難には耐えるだけでなく、困難を味方にすること、困難を言い訳にせず、困難を一人より先に解決して武器にするようにと語ってました。これは大塚実さんがリコーを去り大塚商会を起業した事例を元にしているのは間違いありません。
大塚実さんの社長室にはいつも青銅の亀の象が飾られていました。災いも転じて福となし、亀のように遅くとも諦めず着実に歩むという大塚実さんの教えは、どんな人にも役立つ世の理と言えるでしょう。
大塚実さんの最期
戦争やトラブルによる退職といった苦難を乗り越えて、一代で大塚商会という大企業を立ち上げた大塚実さん。その最期はどのような様子だったのでしょうか。
老衰により96歳で大往生
大塚実さんは2004年に相談役名誉会長となり、大塚商会の経営からは距離を置いて、それ以後は社会貢献活動に従事しました。先に述べた熱海市の梅園の整備を2007年から7年がかりで行っています。
2009年には大塚実さんの功績を讃え、梅園に「大塚実氏顕彰記念碑」が建てられました。そのセレモニーに出席した大塚実さんは車椅子に座っていて、体が弱っていることが伺えます。それでもスピーチを行い、ピースサインで写真に応じるなど元気な様子を見せています。
そして大塚実さんは2019年9月7日に、96歳で老衰により亡くなりました。晩年は体調を崩していたようですが、天寿を全うし大往生を遂げたと言えるでしょう。
大塚実さんの社葬には550人、偲ぶ会には1140人もの方々が集まった
大企業の創業者である大塚実さんの葬儀はどのような様子だったのでしょうか。それに相応しい大規模なもので、大塚実さんに縁のある業界の大物経営者も集まったのです。
通夜と告別式は親族のみで行われた
大塚実さんの通夜と告別式は近親者のみで行われました。大塚商会という大企業の会長でも、まずは家族や親せきのみでお別れをして欲しかったのでしょう。
しかしその後に取り行われた社葬とお別れの会は、大塚商会創業者に相応しい大規模なものだったのです。
社葬には550人もの人が集まった
大塚実さんの社葬は亡くなった翌月の2019年10月29日に東京の築地本願寺本堂で行われ、大塚商会の幹部やOB、業界関係者ら550人もの方々が集まりました。当日は大塚実さんの死を悼むように小雨が降っていたということです。
かつて大塚実さんが在籍していたリコーの山下良則社長が弔辞を述べ、大塚商会はリコーにとって重要なパートナーであり、大塚実さんが在籍してた頃に一番の営業成績を挙げたこと、当時の社長の市村清さんとは紆余曲折を経て融和したこと、戦争の経験から祖国に尽くし美しい自然を残すことを天命としていたと大塚さんが語っていたことが披露されました。
NECの新野隆社長は、NECと大塚商会の間には強い信頼関係があること、大塚商会がお客様を一番に大事にしてきたことに触れ、大塚商会を日本になくてはならない会社に成長させた大塚実さんの功績を讃え、大塚裕司社長の元での更なる発展を確信していると述べました。
横浜銀行の大矢恭好頭取は、現在の大塚商会社長の大塚裕司さんは、かつて横浜銀行の行員として貸付業務を担当しており、これは大塚実さんが自分の後継者として社外で経験させてしっかり育てたいという意図があったことを明らかにしました。
社葬は大塚裕司社長の挨拶で締められた
大塚実さんの社葬は最後に現社長の大塚裕司さんの挨拶で締められました。大塚裕司さんは、お客様第一で事業を拡大してきたこと、自分が父の大塚商会に入社した時の年齢は38歳で、それまでに転職を5回経験してきたことも父と同じで、不思議な運命を感じていることを語りました。
そして創業の精神を引き継ぎ、理想の会社を目指すことが亡き大塚実さんに報いる唯一の道であることを信じてこれからも頑張って行くとして挨拶を締めています。天国にいる大塚実さんも現社長を見てきっと安心していることでしょう。
さらにこの社葬の後に、「大塚実氏を偲ぶ会」が開かれました。この会は驚くべき規模で開催されたのです。
大塚実氏を偲ぶ会には1140人もの方々が集まった
大塚実さんが亡くなった年の12月2日に、東京・内幸町の帝国ホテルで「大塚実さんを偲ぶ会」が開催されました。この会にはなんと1140人もの人が集まったのです。この様なお別れ会でこれだけの人数が集まることは異例で、大塚実さんの存在の大きさが伺えます。
会場には大きな花の祭壇と大塚実さんの遺影が飾られ、展示コーナーには大塚実さんが携わった千葉県鴨川市の棚田や益子町の陶芸、熱海の梅園の写真が掲示されました。さらに再現された会長室や、「亀の歩みは兎より早いことと知れ」を含む大塚実さん直筆の社訓の額が飾られました。
また大塚実さんが使用していたネクタイなども展示されました。これほど充実したお別れの会を催してもらって、天国の大塚実さんも満足していることと思います。
大塚商会を創業した大塚実さんは日本の産業の発展に貢献した
一代で大塚商会を創業した大塚実さんの人生とその盛大なお別れの会について記述しましたが、いかがでしたでしょうか。大塚さんは大企業を創立しただけでなく、日本の産業のOA化を促進し、自然や文化の保護活動にも努めました。大塚さんは日本社会に大きな貢献をしたと言えるでしょう。
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