和田一夫さんの葬儀 |激動の人生を駆け抜けた元ヤオハン会長

公開日 : 2020/6/24

更新日 : 2020/9/10

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両親が営む小さな青果店を、わずか30年で国際的な流通グループ「ヤオハン」に発展させた和田氏。激動の人生を駆け抜け、90歳でこの世を旅立ちました。和田氏がどのような苦労を重ねてきたのか、その人生や葬儀の詳細についてお伝えします。

公開日 : 2020/6/24

更新日 : 2020/9/10

目次

和田一夫さんのプロフィール

世界的に有名な総合スーパー「ヤオハン」を育て上げた和田氏。全てが順風満帆だったわけではなく、苦労や試行錯誤を繰り返してきました。逆境にも負けない「不屈の精神」を持っていた和田氏はどのような人生を駆け抜けたのでしょうか。

神奈川県小田原市に誕生

和田氏は「かまぼこ」や「小田原城」で知られる、神奈川県小田原市の出身。1929年3月2日、熱海市内で青果店(八百半商店)を営んでいた、父・良平、母・カツの間に長男として誕生しました。

母・カツは、NHK連続ドラマ「おしん」の主人公のモデルとも言われることがあり、5人の子供達を大学進学させるため、生活を切り詰めながら夜中の12時まで働き続ける「町内一の働き者」でした。

店舗と自宅が全焼

1950年、熱海市内の温泉街を焼き尽くした「熱海大火」が起こりました。ひな壇上の地形と強風が原因で火事があっという間に広がり、979棟が全焼する大火事となってしまいました。

 

和田氏の自宅と八百半商店も例外ではなく、この大火に飲み込まれて全焼。家族は無事でしたが、全てを失ってしまいました。それでもくじけず、焼け跡に仮店舗を立てて営業を再開する両親を助けました。

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八百半に入社

母の「大学入学」という想いを受け、日本大学経済学部に入学し、1951年には無事に卒業を果たします。その後すぐに両親が営む「八百半商店」に社員として入社。親子で店舗を盛り上げていきました。

「八百半デパート」へと改名

1956年、今まで行っていた掛け売りから現金正札販売へ切り替え「八百半商店」から「八百半食品デパート」に商号を変更。社長就任も果たし、本格的にヤオハングループの発展へ歩みを始めます。

 

この3年前には生涯の伴侶となる妻・きみ子さんと結婚もしています。結婚、商号変更と、順風満帆の日々を過ごしていました。

海外へ進出

商号変更の後、静岡県富士市にある「富士ショッピングセンター」への出店を皮切りに、伊豆半島に7店舗も出し「チェーン展開」を進めました。

 

そして1971年、海外進出の第1号として、ブラジルのサンパウロに店舗をオープン。当時日本のスーパーが海外進出した事例はなく、業界初として注目されました。

 

その後もブラジルにとどまらず、アメリカ、マレーシア、台湾、タイなど、世界中に展開を進め成功を収め続けます。

 

1989年にはヤオハン・インターナショナルホールディングスを設立し、社長に弟の和田晃昌氏が就任。和田氏は会長に就任しました。

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ヤオハン・ジャパンの誕生

着々と海外進出を続ける中、1991年に「八百半デパート」から「ヤオハン・ジャパン」に商号変更をし、さらに未開の地へとヤオハンの展開を進めていきます。

ヤオハンの倒産

店舗を増やし続けながら株式上場も行い、年商はあっという間に1,000億円を超えていました。和田氏はヤオハン社長の座を弟の和田晃昌氏に譲り、会長に就任します。そして家族とともに中国へ移住し、さらにさまざまなビジネスを手がけていきます。

 

順調に見えたヤオハンジャパンでしたが、1997年9月18日、経営悪化のため倒産。負債総額はおよそ1,600億円と言われ、世界16か国に展開していた450の店舗が、整理や売却されました。

 

和田氏は日本に帰国し、全ての役職を辞任。ピーク時には年商5,000億円をたたき出していましたが、一文無しとなってしまいました。

経営コンサルティング業務を開始

ヤオハン倒産の翌年である1998年、和田氏は倒産をものともせず、コンサルティング業務を新たに立ち上げます。その後、長きに渡り国際経営コンサルタントとしてセミナー活動などを行いながら、さまざまな企業の経営の立て直しに力を尽くしました。

和田一夫さんが貫いた理念

和田氏は、ヤオハン倒産後も元社員から感謝されるような人柄でした。和田氏が貫き通した理念は多くの人を魅了し、その理念を持たずには小さな青果店から国際的な流通グループへの成功もなかったでしょう。

 

どんな素晴らしい理念だったのか、いくつかご紹介しましょう。

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社員教育における理念

国際的に通用する人材を育てるため、和田氏は社員教育にも力を注いでいました。「いつも明るく・楽しく・元気よく・力いっぱい頑張る」という言葉を大切にし、「明るい心や表情から発せられる前向きな言葉は、影響力が大きく運命を決める」ということを諭しました。

 

また他人を思いやり、協力することの大切さも「自分が5・相手も5」と数字を用いて説明。「相手にマイナスなイメージを持てば5-5でゼロになり何も生まれない。相手に割り切った考えを持てば5÷5で1になる。」

 

「しかし相手と協力すれば5+5で答えは10になり、愛を掛ければ5×5で25の結果を出すことができる。」

 

これらはほんの一握りの教えであり、元ヤオハン社員はそのほかにも多くのことを学びました。その教えを活かし、起業をして経営者となった方も少なくありません。

 

 

経営に関する理念

「たとえモノが無くなっても、人間は無尽蔵のエネルギーがある。会社が倒産して無一文になっても、人間のエネルギーはなくならない。また復活しようと考えて新たな挑戦をすればよい。失敗の検証と反省はすべきだが、くよくよする必要はない」という「無一物中無尽蔵」の母の教えを大切にしていました。

 

また「夢は必ず実現するので、あきらめずに夢を描き続ける。現状にとどまらずチャレンジを続ける」という、常に前進し続けることの大切さについても言及しています。

 

このような理念があったからこそ、ヤオハン倒産後も立ち上がり、高齢になってもチャレンジを続け、素晴らしい功績をおさめ続けることができたのでしょう。

和田一夫さんの最期

年商5,000億円の国際的な流通グループの経営、コンサルティング業務、経営書籍の出版など、さまざまなことを手がけていた和田氏。その素晴らしい頭脳と経験を持って、積極的な活動を行っていました。

 

しかしある日突然、和田氏死去の悲しいニュースが日本中に流れ、多くの人が驚きと悲しみに包まれることとなりました。

死因

2019年8月19日午前2時54分、和田氏は静岡県伊豆の国市にある自宅で亡くなりました。90歳という長寿で、死因は老衰でした。亡くなった時の細かな状況などは公表されておらず、亡くなったという事実は10日後の29日に、親族によって明らかとなりました。

 

さまざまなニュース番組で訃報が流れ、和田氏の生前に仕事などで関わりのあった方のみならず、日本中が涙したのは言うまでもありません。

 

また和田氏の訃報は日本国内にとどまらず、和田氏が特別な思いで長年に渡りビジネス展開をしていた中国でも伝えられました。

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葬儀

和田氏の葬儀は9月21日の午前10時より、静岡県伊豆の国市内にある「JAハートフルメモリー韮山会館」で行なわれました。

 

妻のきみ子さんが喪主を務め、親族やヤオハングループの元社員・関係者が参列。ヤオハン倒産後に再建支援を行った、当時ジャスコ会長であった岡田卓也氏の姿もあり、多くの方が焼香し、和田氏との別れを惜しみました。

 

妻のきみ子さんからは「ヤオハン倒産後22年も経つが、大勢の皆さまから弔辞をいただき本当に感謝している」といった言葉もありました。

和田一夫さんの訃報に寄せられた声

和田氏の地元である静岡県在住の方や、海外在住経験のある方からなど、ヤオハンに対する思い出や和田氏への感謝の気持ちが、数多くネット上に寄せられています。

海外在住経験者の声

「海外在住の頃、ヤオハンをよく利用していた。その頃は日本の食品が購入できるお店は少なかったため、とても助かりました。海外進出をする活動力がすごいと思った。」

 

「有名なショッピングモールの1つであるプラザシンガポールは、シンガポールに住んでいた頃はヤオハンだった。2階にあるレストランが好きでよく利用した。」

 

「アメリカ在住の頃、韓国系のお店で時々売られる日本食や現地スーパーで売られているアメリカ産のキッコーマン醤油などを購入していたが、初めてできた日本人向けの食品店がヤオハンだった。日本の日用雑貨や菓子類を本格的に扱ってくれた店で、親にサンリオの筆箱を買ってもらったことを今でも覚えている。」

 

「海外にいると、ヤオハンはあって嬉しいスーパーだった。ヤオハンの名前が変わった後も、ヤオハンと呼び続けている。」

静岡県出身者の声

「ヤオハンでいろいろな物を買ってもらった思い出がある。ヤオハン倒産後に熱海店がダイエーに変わっても、ヤオハンの面影があったので特に用事がなくても行っていた。人口5万に満たない熱海から、世界中に300店舗以上も展開させたのは素晴らしい功績だった。」

 

「小さい頃、大きなデパートは隣の市にしかなかったが、地元駅前にヤオハンが開店して衝撃を受けた。御褒美はヤオハンで買ってもらい、今では普通になっている、トレイに自分でパンを取ってレジに向かうスタイルのパン屋もヤオハンが初めてだった。ヤオハンが駅前からなくなった時は寂しかった。たくさんの思い出をありがとうございました。」

 

「ヤオハンができた当時、母におぶわれて2階のレストランで食事をしたことを覚えている。伊豆が水害にあった時には、食材を無料提供し、今でも伝説になっている。ヤオハンを名乗る中国スーパーを、もう自分の店ではないと言っていたのをテレビで見た時は悲しかった。激動の時代を生き抜いた和田氏のご冥福を祈ります。」

「世界の流通王」として一時代を築いた和田一夫さん

「世界の流通王」と言われた和田氏は、世界16か国に450もの店舗を展開し、ヤオハンの名を広めました。90歳で他界されましたが、その理念や経験は多くの経営者に今も受け継がれています。

 

顧客・社員・取引先の一人ひとりを大切にした和田氏だからこそ、亡くなった後も感謝の気持ちや特別な思いを持ち続けている方が多いのでしょう。

 

和田一夫さんのご冥福を心よりお祈りします。