高井保弘さんの葬儀 | 世界の代打男と呼ばれたプロ野球選手の生涯

公開日 : 2020/6/17

更新日 : 2020/9/8

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阪急ブレーブスで活躍し、世界の代打男と呼ばれた高井保弘さん。しかし高井さんの野球人生は決して順風満帆なものではありませんでした。それでも多くの野球人やファンから慕われた高井さんの葬儀には、沢山の人が集まったのです。そんな高木さんの生涯をご紹介しましょう。

公開日 : 2020/6/17

更新日 : 2020/9/8

目次

高井保弘さんのプロフィール

阪急ブレーブスに一筋で代打ホームランの世界記録を築いたプロ野球選手の高井保弘さん。その最期の様子を知る前に、高井保弘さんの経歴を知っておきましょう。

アマチュア野球で活躍し阪急ブレーブスに入団

高井保弘さんは1945年2月1日に愛媛県今治市で生まれました。今治西高校では1年生で4番を任されるほどの活躍で、愛媛県予選準決勝にまで進みますが甲子園に出ることはできませんでした。それでも高校の時から「四国に高井あり」との呼び声があったのです。

 

そして社会人野球の名古屋日産モーターを経て1964年に阪急ブレーブスに入団しました。日産では場外に飛んで民家の瓦を割る打球を連発して、スカウトに注目されていたとのことです。高井さんには他の2球団からも誘いがありましたが、阪急はベテランが多いためチャンスがあると思い選んだとのことです。

 

入団した高井さんは2軍の5年間で首位打者1回、本塁打王2回、打点王2回という素晴らしい成績を残しました。ところが2軍でそれほどの成績を残しながら、1軍ではあまり起用されなかったのです。

相手投手のクセを見抜く技術を取得する

高井保弘さんが1軍であまり起用されなかった理由は、変化球が苦手だったことと、守備が上手くないことでした。当時の阪急の一塁にはスペンサーや加藤英司と言ったレギュラーがいて、阪急が所属するパリ―グは今と違って守備をしなくて良いDH制度が無く、高井さんが活躍できる機会が無かったのです。

 

そのため高井さんは1軍では主に代打で起用されていましたが、高井さんは最初は代打で好成績を残すことが出来ませんでした。そこで相手投手を観察してメモを取っているスペンサーを真似するようになりました。

 

メモを取るうちに、高井さんは相手投手のクセを見抜けるようになり、それをバッティングに生かせるようになってきました。そして1970年には5本のホームランを打ちました。これが後の世界の代打男の始まりだったのです。

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世界記録を更新し世界の代打男に

高井保弘さんは1972年には主に代打での起用ながら15本ものホームランを打ちました。そして1974年には通算14本目の代打ホームランを打ち、当時の代打本塁打日本記録を塗り替えたのです。またシーズン6本の代打本塁打も当時の日本新記録でした。

 

高井さんは1974年にオールスターゲームに出場し、オールスター史上初の代打逆転サヨナラ本塁打を打ちました。そしてこの活躍を見た外国人記者がDH制導入を主張したことで、その導入が検討されはじめたと言われています。

 

そして高井さんは1975年に通算15本の代打ホームランを放ち、ジェリー・リンチが保持していた当時の代打本塁打の世界記録を更新しました。高井さんはついに世界の代打男になったのです。

ようやくレギュラーを掴むも不振に

そして1975年から、高井保弘さんにとって待望の、DH制度(指名打者制度)がパリーグに導入されました。高井さんはすぐにはレギュラーになれませんでしたが、1977年についにDHのレギュラーの座を掴みました。そして初めて規定打席を打つことができたのです。

 

その翌年の1978年、高井さんはDHで打率.302、ホームラン22本、打点77と素晴らしい成績を残します。翌1979年には打率を.324と伸ばし、リーグ優勝にも貢献して高井さんは阪急の主力選手として完全に定着しました。

 

ところが高井さんは1980年から急に打撃の不振に陥ります。そしてまた代打に戻ってしまいました。これがプロの厳しさというものでしょう。

永射保投手から最後の代打ホームランを打つ

1981年の西武戦で高井保弘さんは左腕の永射保さんから、最後の代打ホームランを打っています。この時も高井さんは永射さんの「グラブを高く上げ、下ろした後に動かなければ速球」というクセを見抜き、代打サヨナラホームランを打ちました。

 

この時、打席に入る前にチームメイトに「俺が勝負を決めるから、お前たちは帰る準備をしておけ」と予告したそうです。世界一の代打男の真骨頂と言えるでしょう。しかしこれが最後の27本目の代打ホームランとなりました。

 

翌1982年、高井さんは2軍落ちを通告されると、その時に引退を決断したそうです。高井さんは代打と言う仕事を「ひと振りで家族を養う仕事」と答えてますが、もう養えなくなったと判断したのでしょうね。

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引退後も家族を養うため頑張った

高井保弘さんは引退した後はラジオ関西の野球解説者を務めました。それ以外にも居酒屋や整体院を経営しますが、不幸なことに阪神大震災で店を失ってしまいます。そして52歳にして初めて就職活動を行い、ビルメンテナンスの会社で警備員をしていました。

 

活躍した元プロ野球選手が警備員をするというのはあまり無いケースですが、家族を養うことをモットーにしていた高井さんは、プライドよりも家族のために稼ぐことを優先したのでしょう。ただ高井さんは引退した選手が参加するマスターズリーグにも出場し、大阪ロマンズでプレイしました。

 

なお高井さんの長女は宝塚月組に所属していた松波美鶴さんで、あの天海祐希さんと同期です。自慢の愛娘のために引退後も頑張って働いていたのでしょうね。

高井保弘さんの最期

世界の代打男と言われたほどの高井保弘さんですが、その晩年と死の様子はどうだったのでしょうか。それについて大物の元野球選手が語っています。

腎臓病でかなり痩せてしまった高井保弘さん

高井保弘さんは2019年12月13日に74歳で腎不全で亡くなりました。腎不全とは腎臓の機能が低下する病気で、体調が徐々に悪化して行ってしまいます。晩年の高井さんの様子について、同じ阪急のチームメイトで世界の盗塁王と言われる福本豊さんが伝えています。

 

福本さんによると、亡くなるまでの数年間は高井さんはとても痩せてしまい、ブーちゃんというあだ名がそぐわないほどやつれてしまっていたとのことです。OB会を欠席していたので心配していましたが、亡くなってしまいとても残念と語っています。

 

なお高井さんは福本さんの2年先輩でしたが、福本さんにブーちゃんと呼ばせていたそうです。このことからも高井さんの優しい人柄を伺うことができます。

選手時代から体調不良に悩まされていた高井保弘さん

高井保弘さんは身長が173cmとプロ野球選手としては小柄で、体格には恵まれていませんでした。さらに指が短く、このためボールを素早く掴めず守備が上手くなれませんでした。バッティングでも手の小さい不利を補う特注のバットを使用していました。

 

しかし小さな体で無理をしていたため、特注バットによる軟骨突起や、両膝の捻挫・椎間板ヘルニア・脇腹や両足首の痛みと体の不調に長い間、悩まされていたのです。プラスチックのコルセットを腹に巻いたり、手首の保護のためのスキー用手袋をして試合に出たこともあります。

 

元々、体がそう強くなかった高井さんが、長生きは出来なかったのは無理もないことかもしれません。それでも精いっぱい生きた高井さんの人生には、多くの人が魅力を感じることでしょう。

高井保弘さんの葬儀には70人の野球人が集まった

高井保弘さんの葬儀はどのような様子だったのでしょうか。高井さんを想う多くの元プロ野球選手の方々が集まり、手厚い葬儀が取り行われたようです。

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通夜には70人の野球人が集まる

2019年12月13日に高井保弘さんが亡くなると、翌14日に兵庫・西宮市のエテルノ西宮で通夜が営まれました。喪主は妻の安枝さんでした。通夜には元阪神監督の吉田義男さん元チームメイトの加藤秀司氏さんや福本豊さん70人の方々が集まりました。

 

またサブマリンの大投手として名高い山田久志さんや、漫画ドカベンの作者の水島新司さんから献花が届けられました。福本さんは新人の頃に高井さんの凄いバッティングを見て、これでもレギュラーになれないのかとプロのレベルの高さを知ったということです。

 

福本さんは高井さんが代打で活躍できるようになったのは、自分の事のようにうれしかったとのことです。高井さんはその後DHでレギュラーになりましたが、もっと早くDH制があればさらに打てただろうと高井さんの才能を惜しみました。

 

また加藤さんも高井さんの打席での集中力の凄さを讃え、吉田さんはマスターズリーグで一緒にプレイして、そこでも良く打っていたと高井さんのことを懐かしんでいます。

告別式には80人の方々が集まる

高井保弘さんの通夜があった翌日には告別式が同じくエテルノ西宮で営まれました。告別式には通夜よりさらに多い80人の方々が参列しました。

 

告別式には高井さんと同じ元阪急で、プロ野球史上最も速い球を投げたと言われる山口高志さんが参列しました。山口さんは、高井さんは自分で書いた投手のクセのメモをいつもよく見ていて、やさしそうな笑顔が印象的だったと思い出を語っています。

 

ファンの方々も参加し、出棺の時には阪急ブレーブスのユニホームを掲げる方もいたそうです。多くの人に愛されていた高井さんの人柄が偲ばれますね。

代打の一振りで人々を魅了した高井保弘さん

高井保弘さんの生涯とその最期をお伝えしましたが、どのように感じられましたでしょうか。高井さんは世界の代打男と言われるほどの成績を残しながら、不遇な時期もあり、晩年は病気にも苦しみました。それでも高井さんの葬儀では多くの野球人やファンにその死を惜しまれ、高い人気を誇っていたことがわかりますね。