佐々木正さんの葬儀 | スティーブ・ジョブズが認めた電卓の父
公開日 : 2020/6/17
更新日 : 2020/9/5
「ロケット・ササキ」の異名を持ち、電卓の父と言われたシャープ副社長の佐々木正さんの葬儀はどういったものだったのでしょうか。この記事では佐々木さんが産業界に残した功績とその最期の様子を詳しく解説するので、是非ご覧ください。
公開日 : 2020/6/17
更新日 : 2020/9/5
目次
佐々木正さんのプロフィール
電気メーカーのシャープ元副社長で「ロケット・ササキ」の異名を持つ佐々木正さん。その葬儀について知る前に、まず佐々木正さんの経歴について触れておきましょう。
大学生の頃から軍の技術研究に携わる
佐々木正さんは1915年5月12日に島根県浜田市に生まれました。その後台湾に移り住み、旧制台北高等学校では高校生ながらマンゴーの品種改良の研究を行っていました。卒業後は京都帝国大学に入学します。
大学時代、佐々木正さんは中国語、英語、ドイツ語に堪能なマルチリンガルで、大学生でありながら逓信省に呼ばれて電話機の開発に携わっていました。1938年に大学を卒業し、軍の命令でレーダーに使う真空管の研究のため、後のデンソーテンとなる川西機械製作所に入社します。
そして佐々木正さんは技術研究のためドイツに派遣されます。行きはシベリア鉄道でしたが、帰りは戦況が激しくなったため潜水艦のUボートで帰国し、設計図を持ち帰っています。
軍の命令で電波兵器の開発に従事
帰国後、佐々木正さんはレーダーではなく人を殺傷する兵器「怪力電波」の開発を軍に命じられます。電子レンジの原理でマイクロ波を照射する兵器を作ることになったのです。佐々木正さんは心を痛めましたが、これも皆が生き残るためと思い開発を続けました。
そして捕虜を使った怪力電波の人体実験の時が訪れましたが、ちょうどその時に玉音放送が流れ日本が敗戦したため、実験は中止されました。佐々木正さんは実験兵器を湖に沈めたということです。
研究所から神戸に帰ると、川西機械の工場は被害を受けずに残っていました。喜びもつかの間、佐々木正さんはGHQに呼び出されました。佐々木正さんは兵器開発のせいでアメリカ軍に処刑されるかもしれないと覚悟を決めたそうです。
GHQの命令でアメリカに留学することに
佐々木正さんはGHQに呼ばれると、米軍の大佐に、佐々木正さんが大学時代に開発した電話機が使い物にならないと叱責されました。呼び出しの理由は幸いにも兵器開発とは無関係だったのです。
そして米軍に電話機の技術を勉強するようにと指示され、アメリカに留学することになりました。その時に米軍の大佐から、川西機械の工場が爆撃されなかった理由は終戦後に米軍が工場を利用するためだと聞かされたということです。
佐々木正さんは世界最先端の通信技術を持つるAT&Tのベル研究所に留学することになりました。大学生の時の電話機開発が後になって役立ったのです。
アメリカ留学でトランジスタの技術を学ぶ
佐々木正さんはアメリカでジョン・バーディーンら3人の人物に出会います。後にトランジスタの発明でノーベル物理学賞を受賞する科学者たちです。佐々木正さんはバーディーンさんと仲が良く、家に招かれたりしていました。
そして佐々木正さんはバーディーンさんから後のトランジスタに使われる技術を学びます。真空管の代替となったトランジスタの存在を、日本人でいち早く知ることが出来たのです。佐々木正さんは帰国後、トランジスタの開発を始めます。
トランジスタの国内開発の先駆者となった佐々木正さんには、多くの企業から引き抜きがかかるようになりました。その中には後のシャープ創業者の早川徳次さんと、松下電器創業者の松下幸之助さんがいました。
MOS LSIの普及の立役者に
佐々木正さんは最初に声をかけてくれたシャープの前身である早川電機工業に入社することになりました。1964年のことです。この時すでにトランジスタの電卓は存在しましたが、価格は53万円で重さは25キロもありました。今のスマホ時代から見れば信じられない代物です。
佐々木正さんは電卓の量産に着手します。そのためにMOS LSIの量産が必要と判断して国内メーカーに声を掛けました。しかしどこも技術的に困難と判断し応じてくれませんでした。そこで佐々木正さんは留学の経験を活かし、アメリカのロックウェル社に声を掛けました。
ロックウェルは佐々木さんの依頼に応じて、MOS LSIの量産に成功しました。このLSIはアポロ12号でも使用され、佐々木正さんはNASAからアポロ功労賞を授与されす。
電卓の父、ロケット・ササキと呼ばれるように
MOS LSIを採用したおかげで電卓の価格は5分の1、重さは18分の1になりました。LSIは今のパソコンヤスマホにも使用されているので、佐々木さんは世界のエレクトロニクスの発展に大きく貢献したと言えます。
佐々木正さんの功績はLSIだけではありません。電卓の画面のニキシー管を液晶パネルに置き換えたのも佐々木正さんです。当時は暗くて反応が遅く使えないと言われていた液晶を佐々木正さんが改良したのです。これが液晶のシャープの礎となって、佐々木正さんは電卓の父と言われるようになりました。
またソーラーパネルを採用した電卓も佐々木正さんの発案です。このようにロケットのような勢いでアイデアを出す佐々木正さんを、アメリカのエンジニアはロケット・ササキと呼んだそうです。
ソフトバンクの創業にも貢献
佐々木正さんは孫正義会長のソフトバンクの創業にも関わっています。孫正義さんはある時、シャープに自らが開発した「音声機能付き他言語翻訳機」を売り込みに来ました。その時シャープの専務だった佐々木正さんは孫正義さんを見込んで、銀行に融資を斡旋しました。
その頃の孫正義さんは全くの無名でしたが、銀行は佐々木正さんが言うのならと1億円を孫正義さんに融資したということです。
孫正義さんはその資金を元にアメリカで事業を起こし、それがのちのソフトバンクの元になりました。そういった縁で佐々木正さんはソフトバンクの相談役にもなっています。
あのスティーブ・ジョブズにアドバイスをした
佐々木正さんの世界的に有名なエピソードは、アップル創業者スティーブ・ジョブズにアドバイスをしたことです。ジョブズさんは80年代に社内のジョン・スカリーとの争いに負けて失脚していた時期がありましたが、この時に来日して佐々木正さんを訪ねたのです。
当時シャープの東京支社長だった佐々木正さんの前で、ジョブズさんはジーンズ姿で素足にサンダル、ソファの上であぐらをかいていたそうです。流石の佐々木正さんもここは日本だとジョブズさんをたしなめましたが、ジョブズさんはこれが自分のスタイルと変えなかったとのことです。
その場で佐々木正さんはジョブズさんにこれから何をしたいのかと尋ねると、ジョブズさんは音楽をやりたいと答えました。それならばと佐々木正さんは当時ウォークマンが大ヒットしていたソニーの大賀典雄さんを紹介しました。
さらに佐々木正さんは、これからはネットワークの時代になるので、通信IT機器が求められるとも助言しました。この会見から後に大ヒットしたiPod、iPhoneが生まれたと言われています。佐々木正さんは今のスマホ時代の立役者と言えるかもしれませんね。
サムスン会長と信頼関係を築く
1970年代、日本電気がサムスンの技術盗用を警戒していた頃、佐々木正さんは日本電気の小林宏治会長、サムスンの李健熙会長を食事やゴルフに誘い、仲を取り持ちました。それが縁でサムスンとシャープは製造分野で提携することになりました。
しかしその後サムスンの業績がシャープをしのぐようになり、佐々木正さんの判断が批判されました。これに対し佐々木正さんは、今の現状は自らが進歩を止めたことが原因であると述べていました。しかしその後サムスンがシャープに特許訴訟を起こします。
この訴訟については佐々木正さんはさすがにサムスンを批判しましたが、その後に李健熙会長と直接話をして和解することが出来たのです。
佐々木正さんの最期
電卓の父と言われるほどの偉大な業績を残した元シャープ副社長の佐々木正さんですが、その最期はどのようなものだったのでしょうか。
102歳で肺炎のため亡くなる
佐々木正さんは2018年1月31日に肺炎で亡くなりました。かなりのご高齢だったので、冬の寒さを越すことが出来なかったのでしょう。佐々木正さんは90歳を過ぎても活動をしていて、NPO法人を設立して理事長に就任し、技術者同士の交流に貢献していました。
また100歳になって「世紀の会」という佐々木正さんの百寿のお祝いの会も開かれました。佐々木正さんは100歳を過ぎてマスコミの取材を受けていて、今後は数字や理屈だけの世界が終わり、夢の世界までもがコンピューターと統合される、人はAIと共に歩むようになるといった予測をしています。
孫正義さん主催の盛大なお別れの会が催された
偉大な業績を残した佐々木正さんの葬儀やお別れの会はどういったものだったのでしょうか。佐々木正さんに相応しいビッグネームが主催した大規模な会が行われました。
通夜と告別式は近親者だけで行われた
佐々木正さんの葬儀は通夜も告別式も近親者のみで行われました。佐々木正さんは大手企業のシャープの副社長にまで上り詰めましたが、その葬儀は質素な物だったようです。
しかし、佐々木正さんの死去を産業界は放ってはおかなかったようです。その後に業界の超大物が盛大なお別れの会を催しました。それは佐々木正さんに生前にお世話になったソフトバンク会長の孫正義さんです。
孫正義さん主催のお別れの会は200人の方が集まった
佐々木正さんが亡くなった2018年の4月26日に、東京丸の内のパレスホテルで佐々木正さんの盛大なお別れ会が催されました。呼びかけたのはソフトバンク会長の孫正義さんです。それに応じて佐々木正さんにゆかりのある200人の方々が集まりました。
会において孫正義さんは、佐々木先生は大恩人であり、佐々木先生と出会わなければ今の私もソフトバンクもなかったと弔辞を述べました。孫正義さんは佐々木正さんから受けたご恩をとても深く感謝して、ずっと忘れていなかったのです。
会場では大きな祭壇に佐々木正さんの遺影が飾られました。孫正義さんは、自分と縁もゆかりもなかった佐々木先生が親身になって相談に乗ってくれて、励ましてくれたことをとても感謝していると述べたそうです。
電卓の父の佐々木正さんは産業の発展に大きな貢献をした
佐々木正さんの業績とその最期を紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。技術者として素晴らしい業績を残し、スティーブ・ジョブズや孫正義と言った大物経営者にも尊敬された佐々木正さんの功績は、ずっと語られ続けることでしょう。
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