竹村健一さんの葬儀 | パイプと関西弁で親しまれた人気評論家

公開日 : 2020/6/15

更新日 : 2020/9/10

竹村健一さんの葬儀 | パイプと関西弁で親しまれた人気評論家のサムネイル画像

若い世代でなければ、竹村健一さんを御存じの方は多いでしょう。パイプをくわえながら「だいたいやねえ」と関西弁で語る竹村さんはテレビやラジオでとても有名でした。そんな竹村さんの葬儀はどういったものだったのでしょうか。竹村さんの人生とその最期をここで紹介しましょう。

公開日 : 2020/6/15

更新日 : 2020/9/10

目次

竹村健一さんのプロフィール

2018年7月8日に亡くなった有名な評論家の竹村健一さん。その最期について気になる所ですが、まずそれを知る前に竹村健一さんの業績について知っておきましょう。

マスコミや産業界、学会を経て評論家デビュー

竹村健一さんは1930年に大阪府大阪市東成区で生まれました。その後京都大学を卒業し、フルブライト奨学金制度の第一号として、アメリカのシラキュース大学・イェール大学やフランスのパリ大学に留学しました。最終学歴はシラキュース大学大学院新聞科修了です。

 

大学院を卒業した竹村さんは1955年に毎日新聞社の英字新聞の記者となりました。その後、1963年には新日鐵グループに転職し、調査部長となっています。ところか1年で退職し、追手門学院大学の英文科助教授や拓殖大学客員教授になっています。

 

竹村さんは大学での勤務中にマーシャル・マクルーハンのメディア論を紹介した著書「マクルーハンの世界」で注目され、評論家として活動するようになりました。海外留学やマスコミ、産業界で勤務した経験を活かし、広い知識が評価されるようになったのです。

竹村健一さんの著作「マクルーハンの世界」

竹村健一さんが「マクルーハンの世界」で広めたマーシャル・マクルーハンのメディア論とはどんな内容だったのでしょうか。マクルーハンの主張は「メディアはメッセージである」といったものです。

 

メディアは情報を伝達する媒体であると認識されていますが、マクルーハンの説ではメディアそのものがメッセージ性を持つとしています。またメディアは人間の体を拡張したもので、目であり耳であって、いずれ古くなって切り捨てられるとされています。

 

ただし竹村健一さんはマクルーハンの説を自分なりにアレンジして、テレビはラジオと違って大衆を扇動しないクールなメディアであるという自説を加えています。竹村さんがテレビで活躍したのもそういった背景があるのでしょう。

ご不明点は、ぜひ
ご相談・お問い合わせください
お客様にピッタリの斎場探しをお手伝いさせていただきます。
見積もりページへ飛ぶ見積もりページへ飛ぶ
freecall-bannerfreecall-banner

「これだけ手帳」が大ヒット

竹村さんはテレビに積極的に出演し、常にパイプを片手に持つ姿で有名になりました。手帳を見せながら「資料を沢山持っている奴は仕事が出来ない。私はこれだけですよ」とアピールするテレビCMが人気になりました。

 

そのCMは手帳ではなくシュレッダーのCMでしたが、たくさん資料を持つ人は仕事が出来ないという持論を基に発売された「これだけ手帳」がヒットし、1980年代から30年もの間販売されました。現代のスマホに近い考え方で、竹村さんが時代の先を行っていたことが分かります。

 

竹村さんは「だいたいやねぇ」と言う口癖がとても有名で、歯に衣を着せぬ関西弁で人気になりました。だいたいやねぇというセリフはタモリさんのモノマネ芸でも使われ、誰もが知るところとなっています。

「デリーシャス」「日本の常識は世界の非常識」等の流行語を生み出す

竹村さんは本業は評論家で沢山の著作物がありますが、テレビやラジオにも積極的に出演し、TVCMにも多く登場しています。特にキッコーマンの「デリシャスソース」のCMでは「デリシャスじゃなくてデリ―シャスよ奥さん」と言うセリフがとても有名になりました。

 

また今でもよく使われる「日本の常識は世界の非常識」と言う言葉も竹村さんが流行らせたものです。言動にインパクトのある竹村さんは日本の大衆言論のトレンドリーダーだったのです。

 

竹村さんはテレビの報道番組やラジオの評論番組に沢山出演し、「電波怪獣」と言われるほどの売れっ子で時の人となっていました。竹村さんは日本の20世紀を代表する評論家だったのは間違いありません。

仕事はスマートで広くレジャーを楽しむ

物を持たない仕事術を提唱しただけに竹村さんの仕事はとてもスマートで、著作物は全てテープに録音する口述筆記で行っています。1年に36冊も出版することもあり、どれも最低3万部は売れているというベストセラー作家でした。

 

著作とメディア出演だけでなく、太陽企画出版や善光寺温泉ホテルの経営と言ったビジネスも行い実業家としての側面もあります。さらに学校法人AICJ鴎州学園の理事長も務めるといった教育分野での事績もあります。

 

竹村さんは遊びも大変積極的で、趣味はテニス・スキー・スキューバダイビングと様々なアウトドアを楽しみました。しかもスキーは57歳、スキューバは58歳で始めるというチャレンジ精神を持っていたのです。

ご不明点は、ぜひ
ご相談・お問い合わせください
お客様にピッタリの斎場探しをお手伝いさせていただきます。
見積もりページへ飛ぶ見積もりページへ飛ぶ
freecall-bannerfreecall-banner

何にでも興味を持ち、多くの業績を残す

竹村さんは世の中のあらゆることに関心を持つと自認し、ピアノを弾き、社交ダンスの教師免状まで持っていました。著作物は経済や社会批評だけでなく、占いやバレエの本まであります。「これだけ手帳」では「ぼくなんかこれだけですよ。」という楽曲のプロデュースまでしています。

 

ただし竹村さんは本業の海外通の評論家としての事績も多く、フィナンシャル・タイムズ等の海外マスコミの記事を多く日本に紹介する功績を残しています。そういった記事をブログでも紹介し、ネットの時代でも多いに活躍しています。

 

竹村さんは自らを「八百万(ヤオロ)ジスト」と称し、自分は何にでも関心がある、人間は興味を持ってやる気があれば何でもやれるが持論でした。それを実践することで、世の中のあらゆることに興味を持って活動することができたのです。

多岐に渡る活動で多くの著名人と交流

竹村さんは仕事でもレジャーでも多岐に渡って活動したため、広い交友関係を築いています。ニュージーランドで登山家の三浦雄一郎さんに偶然出会い、そのままスキー場に同行したという逸話もあります。

 

またソニー創業者の盛田昭夫さんとはテニス仲間で、家族ぐるみの付き合いがありました。経済評論家の大前研一さんとは一緒にスキューバダイビングを楽しんでいたということです。

 

それ以外にも中曽根康弘元首相、堺屋太一さん、石原慎太郎さん、渡邉恒雄さんといった政界財界の大物と親しかったことで有名です。堀江貴文さんとの共著もあり、若い世代の著名人とも交流がありました。

80歳で評論活動を引退し、悠々自適の日々を過ごす

評論家というだけでなくマルチタレントとして活動していた竹村さんですが、80歳を機に全ての活動から引退し、それ以後は穏やかな老後を過ごしています。引退してからは旅行やテニスを楽しんでいたそうです。

 

とても派手な活動をしていた竹村さんが、人生の終りの9年間は静かに生活していたのは少し、意外に感じるかもしれません。人生の終りは家族と過ごす豊かな時間を大切にすることが、人間らしい生き方と言えるのではないでしょうか。

竹村健一さんの最期

評論家としてマルチで活躍しながら晩年は引退して静かに暮らしていた竹村さんですが、その最期はどのようなものだったのでしょうか。

ご不明点は、ぜひ
ご相談・お問い合わせください
お客様にピッタリの斎場探しをお手伝いさせていただきます。
見積もりページへ飛ぶ見積もりページへ飛ぶ
freecall-bannerfreecall-banner

2年の闘病後に多臓器不全で亡くなる

竹村さんは引退後、9年の老後を送りました。それは静かで幸せな生活だったようですが、最後の2年間は入退院を繰り返して闘病生活を送ったとのことです。そして2019年7月9日に89歳で多臓器の不全で亡くなりました。都内の病院で家族に見守られながら旅立ったとのことです。

 

竹村さんは89歳という年齢で亡くなったので、大往生と言えるでしょう。いつもパイプを持っていましたが、実は煙草は吸わなかったそうです。89歳まで生きられたのは早めに引退して、テニスなどで適度に体を動かしながら老後を過ごしたからかもしれませんね。

竹村健一さんの葬儀は近親者のみで行われた

多くの著名人と交流した有名人の竹村さんの葬儀は、さぞかし盛大な物だったのではないかと想像します。ところが実際はそうではなかったのです。

竹村さんの葬儀は家族葬だった

竹村さんの葬儀の喪主は、竹村さんの長男で京都造形芸術大学教授の真一さんが務めました。そしてその葬儀ですが、通夜も告別式も、家族だけで行われたということです。

 

これは大変意外に感じます。著名人と交流が多く、自身も有名人だった竹村さんがなぜ家族葬を選択したのでしょうか。お別れの会を催せば多くの人が参列に訪れたはずです。

人生に満足していた竹村さんは盛大な葬儀を望まなかった?

竹村健一さんの長男の真一さんによると、竹村健一さんは80歳で現役引退した後は、時々講演活動を行うものの、それ以外は趣味のテニスや旅行を楽しむ毎日だったそうです。そして時折、知人が訪ねてくると、いつもニコニコしていたそうです。

 

そして亡くなる数年前には、「いい人生だった」と、満足げにつぶやく様子が見られたそうです。真一さんは、「父は現役中は仕事以外にもテニスやスキー、ダイビングやピアノなどで忙しく、過去を振り返ることがなかったので、印象的でした」と述べています。

 

竹村さんは自分の人生に満足していて、死後の盛大な葬儀までを望まなかったのではないでしょうか。静かな生活を送っていて、死後に突然大規模なお別れ会を催すことに違和感があったのかもしれませんね。

ご不明点は、ぜひ
ご相談・お問い合わせください
お客様にピッタリの斎場探しをお手伝いさせていただきます。
見積もりページへ飛ぶ見積もりページへ飛ぶ
freecall-bannerfreecall-banner

今でも竹村さんに出会うことが出来る

しかし、やはり竹村さんと親しかった方で追悼したいと思う人も多かったようです。竹村さんと「報道2001」に出演するなどの交流があったアナウンサーの久下香織子さんは、YouTubeに竹村さんを追悼する動画を公開しています。

 

ニューヨークマンハッタンにあるビルの壁には、今でも竹村さんの肖像壁画が描かれています。これはCM用に描かれたものですが今でも残っています。久下さんは竹村さんが亡くなったことを知った後、その場所を紹介する動画を公開して、竹村さんを追悼しています。

 

このようにマスコミ業界でも竹村さんを想う人は確かに存在していて、多くの人に慕われた竹村さんの人柄を偲ぶことが出来ます。

 

評論家として大きな業績を残した竹村健一さん

多くの業績を残した評論家の竹村健一さんの人生とその最期を紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。とても有名だった竹村さんが家族葬を選んだのは意外でしたが、自分の人生に満足していた竹村さんは死後多くを望むことがなかったのかもしれませんね。