片平晋作さんの葬儀 | 一本足打法にこだわった名選手の最期は?

公開日 : 2020/6/15

更新日 : 2020/9/10

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南海、西武、大洋で活躍し、一本足打法による好打で球場を沸かせてきたプロ野球選手の片平晋作さん。指導者や解説者としても成功した片平晋作さんの死は多くの方々から惜しまれました。この記事ではその片平晋作さんの人生と、葬儀の様子について詳しく解説します。

公開日 : 2020/6/15

更新日 : 2020/9/10

目次

片平晋作さんのプロフィール

片平晋作さんの葬儀について触れる前に、まず片平晋作さんの野球人としての人生を知っておくべきでしょう。一から説明しますので、是非ご覧ください。

ドラフト4位で南海ホークスに入団

片平晋作さんは1949年8月5日に大阪府大阪市港区で生まれました。片平さんは地元の上宮高校の野球部に入り、高校2年の時に同じ左打者の王貞治さんに憧れて、王選手と同じ一本足打法を始めました。

 

片平さんが通学していた大阪の上宮高校はプロ野球選手の出身者が多く、読売ジャイアンツに入団した元木大介さんが在籍していた頃には甲子園に出場したこともありますが、片平さんの時は出場できませんでした。

 

片平さんは東京農業大学に進学し、野球は続けていましたが東都大学リーグでは2部どまりでした。ところが片平さんは左の大型打者としてプロのスカウトに注目されていて、南海ホークスから4位指名を受けてプロ野球選手になることができたのです。

病気の苦難を乗り越えてレギュラーに定着

片平さんは身長が184cmと大柄で、「ダンディー」というニックネームをもらって、後に名将と讃えられる古葉竹識コーチのもとでみっちり指導を受けました。1年目は1試合の出場にとどまるも、2年目後半からは1軍に定着し、南海のリーグ優勝に貢献しました。

 

3年目から名前を伸作から晋作に改め、背番号も22から25に変えました。この頃から王選手と同じ一本足打法で注目されるようになりました。片平さんは打撃フォームだけでなく、ユニフォームの着こなしまで王選手を見習う程に、王選手に心酔していたのです。

 

1976年にはホームランを12本打ってレギュラーに定着しましたが、翌年にバセドウ病を発症して低迷が始まります。しかし病気を1年で克服し、1978年にはレギュラーを奪還、15本のホームランを打ちました。

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西武ライオンズに移籍し、活躍を続ける

片平さんは1979年に初めて規定打席に到達し、打率.329・ホームラン16本・打点68という素晴らしい成績を残しました。名実ともに一流選手となったのです。この年の打率と打点は片平さんの最高成績となっています。

 

そして翌1980年にはホームラン21本という成績を残し、南海ホークスの主力選手として活躍しました。ところが1982年にドン・ブレイザー監督との確執により、西武ライオンズにトレードに出されてしまいます。それでも片平さんは新天地でも活躍を続けます。

 

片平さんは広岡達朗監督に高評価されて1塁のレギュラーを掴み、日本シリーズで決勝打を打つなど、2度の西武の日本一に貢献します。ダイヤモンドグラブ賞を受賞し、リーグ一の名一塁手となりました。

清原和博入団後、大洋ホエールズに移籍

順風満帆に見えた片平さんの野球人生ですが、1985年に同じ一塁手の超大物選手、清原和博が西武ライオンズに入団します。清原さんにも競争をさせたい森監督の方新により開幕から43試合までは片平さんが一塁を守りました。その後は清原さんが一塁のレギュラーとなったため、片平さんは指名打者に回ることになりました。

 

しかし片平さんはその年に打率.292、ホームラン17本と好成績を残します。片平さんはあの清原和博にとっての最初に乗り越える壁の役割を果たしたのです。しかし清原さんと同ポジションの片平さんはチームの方針により、投手と交換で大洋ホエールズに移籍することになりました。

 

片平さんは清原さんを「自分が10年かけて得た打撃技術を18歳で持っていてぞっとした、自分では全く相手にならなかった」と語っています。高卒新人で3割30本を打った清原和博がいかに凄い存在だったかがわかります。

大洋ホエールズでも活躍し引退、西武のコーチに

大洋ホエールズに移籍した1年目も、片平さんは打率.298、ホームラン13本と優れた成績を残します。その後は後に首位打者を取ったパチョレックにレギュラーの座を譲りましたが、代打の切り札として活躍して横浜を沸かせます。40歳になり打撃コーチ兼任となった年に引退しました。

 

引退後、西武の森監督から声がかかり一軍打撃コーチに抜擢されます。かつて競っていた清原さんを指導をすることになったのです。これは森監督が片平さんを高く評価していたからであり、片平さんもそれに応えて、鈴木健など多くの選手を育成しました。

 

森監督は後に片平さんが亡くなった時に、新聞で真面目でプロ意識が高く若手の手本になる人で、亡くなったのが残念でならないとコメントしています。片平さんは西武を8度優勝に導いた名勝森監督に高く評価されるほどの野球人だったのです。

 

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二軍監督や解説者としても活躍

片平さんは1995年からは西武ライオンズの二軍監督を務めます。自らパソコンで二軍の試合の結果や選手の成績などの分析データを入力して一軍スタッフに送るという、ITにも強い指導者でした。

 

二軍監督を退任した後は解説者として活躍し、テレ玉などで西武戦の解説を務めています。選手を貶すことのない優しい解説がファンに好評でした。その他にも女子プロ野球の監督を務めて見事に優勝を果たしています。

片平晋作さんの最期

3球団で活躍してファンを魅了し続け、コーチや二軍監督、解説者としても成功した片平晋作さんの最期はどのようなものだったのでしょうか。

死因はすい臓がん

片平晋作さんは2018年1月22日に、68歳ですい臓がんで埼玉の自宅で亡くなりました。同じ月の4日に野球人の星野仙一さんもすい臓がんにより70歳で命を落としています。膵臓は胃の後ろにある20センチの細長い臓器で、早期のがん発見が難しい場所です。

 

片平さんも星野さんも長生きとは言えない年齢で亡くなりました。すい臓がんは「癌の王様」と言われるほど重い病気で、5年生存率は5%以下です。あのアップル創業者のスティーブ・ジョブスもすい臓がんで亡くなっていて、治療費を費やしても治るというわけではありません。

 

ファンや野球人から愛されていた片平さんを早くに死に追いやったすい臓がんが、医学が発達して治る病気になる日を願わずにはいられませんね。

片平晋作さんの通夜には300人の野球人が集まった

充実した野球人生を送った片平晋作さんの葬儀はどのような様子だったのでしょうか。片平さんに相応しい、多くの有名選手や指導者に惜しまれての最期となりました。

一本足打法をやめなかった片平さん

68歳ですい臓がんで亡くなった片平さんは「新歸元貫徹晋道居士」という戒名が付けられました。片平さんが南海ホークスに入団した当時の監督は野村克也さんでしたが、難しい一本足打法をやめるように何度指導しても、片平さんは王選手へのあこがれからやめようとしませんでした。

 

野村さんはそんな片平さんをとても頑固な人だったと葬儀の時にコメントしています。また同じ南海に2年在籍した大投手・江夏豊さんは、片平さんが一本足打法をやめていれば倍の成績を残せただろうと述べていますが、片平さんは一本足打法だからやってこれた、江夏さんは自分の事を分かっていないと言っています。

 

「新歸元貫徹晋道居士」という戒名は、そんな頑固で一徹な片平さんの人柄をしのんで住職によりつけられたのでしょう。

 

野村さんも今は亡くなられましたが、当時は沙知代夫人や星野仙一さん、そして片平晋作さんといった自分より若い知人が次々に亡くなることをボヤいています。

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片平さんの通夜には300人の西武ライオンズ関係者が集まった

片平さんの通夜は2018年1月29日に、埼玉・所沢の昌平寺別館でしめやかに営まれました。喪主は妻洋子さんが務めています。片平さんは長い間西武ライオンズに貢献し、多くの若手を育成したため、ライオンズの監督・コーチ・選手が300人も集まりました。

 

集まった方々は当時の辻発彦監督、後に監督とゼネラルマネージャーを務める渡辺久信さん、伊原春樹さん、石井丈裕さん、鈴木健さん、笘篠誠治さん、西口文也さん、秋山翔吾さんといった多くのライオンズの名選手が一同に集まりました。

 

辻監督は「寂しい気持ちになりました。早いな、と。昨年もグランドに足を運んでくれて、お元気だったのに」と片平さんを悼む言葉を述べています。

 

辻監督は「頭が低い人で、『監督、お話を聞かせて下さい』と、気を使われて。優しい方でした。当然、今年もグラウンドに足を運んでくれると思っていたのですが」とも語り、片平さんの優しい人柄を偲んでいます。

片平さんの告別式には200人の方々が集まった

2018年1月30日には片平さんの告別式が通夜と同じ昌平寺別館で営まれました。参列者は西武ライオンズの潮崎哲也2軍監督、読売ジャイアンツの片岡治大2軍内野守備走塁コーチらが集まりました。さらに片平さんが監督を務めた女子プロ野球団の埼玉アストライアの監督や選手も参列しています。

 

また西武OBの石毛宏典さんや伊東勤さんといった往年の名だたる名選手の方々も参列しました。伊東さんは食事や自宅に招待された事を話し、目を赤く腫らしていたということで、多くの西武ライオンズ関係者に慕われていたことが伺われます。

 

斎場には片平さんの使用したグラブやユニホーム、ゴールデングラブ賞の盾と言った思い出の品々が飾られました。片平さんは棺の中で西武ライオンズのユニフォームに身を包み、遺族の希望で白星を意味するという白い霊柩車で出棺されました。

 

片平さんは3つの球団で活躍しましたが、最も深く関わった西武ライオンズに一番思い入れがあったのでしょう。元プロ野球選手ならではの告別式が営まれ、亡くなった片平さんもきっと満足してくれたという思いを、参列者の方々は感じることができたのではないでしょうか。

一本足打法で活躍し多くの人に慕われた片平晋作さん

プロ野球選手として活躍し、多くの野球人に慕われた片平晋作さんの生涯と、その最期について記述しましたがいかがでしたでしょうか。病気やライバルの出現といった苦難を乗り越え、引退後も指導者として成功した片平さんの人生は、野球人として理想的と言えるかもしれませんね。