松本勝也さんの葬儀 |多くの涙に見送られた競艇のトップレーサー

公開日 : 2020/6/10

更新日 : 2020/9/10

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レース中悲劇的な事故により亡くなった松本勝也さん。競艇のA1トップレーサーとして長きに渡りファンを魅了してきた松本選手は、人柄も良く人望も厚かっただけに、多くの人が悲しみに打ちひしがれました。松本選手の最期や葬儀について詳しくお伝えします。

公開日 : 2020/6/10

更新日 : 2020/9/10

目次

松本勝也さんのプロフィール

ファンからも「勝ちゃん」の愛称で親しまれていた松本選手は、温厚な性格で誰からも信頼される一流選手でした。

 

突然の悲劇により旅立ってしまった松本選手は、どのような人生を送ったのでしょうか。

尼崎出身

1971年9月1日に誕生した松本選手は、大阪湾に面した兵庫県尼崎市出身。尼崎は昭和の雰囲気が残る銭湯や、城下町としての歴史にも触れられる街並み、地元名物のホルモン焼きなどで知られている街です。

 

そんな魅力満載の街で育った松本選手がボートレーサーを目指すきっかけとなったのは、父親の勧めだったと言われています。名誉とお金を得ることが目標だったと本人が公言していたことからも、松本選手の正直な性格が見て取れます。

養成所を68期生として卒業

松本選手は、福岡県柳川市にあるボートレーサー養成所(旧やまと学校)の厳しい訓練を受け、68期生として卒業しました。同期には高橋勲選手や野沢大二選手などがいます。

 

ボートレーサー養成所は国内唯一の養成機関ということもあり、入学難関校としても知られています。厳しい訓練に耐える強い精神力も必要で、たとえ卒業できても必ず一流選手になれるというわけでもありません。松本選手はレーサーの「光る原石」として鍛え上げられました。

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19歳で競艇レーサーとしてデビュー

養成所卒業後の1991年5月、松本選手が19歳の時に競艇レーサーとしてデビューしました。デビュー戦は地元でもある「尼崎競艇場」で、松本選手の最期となった場所でもあります。

 

デビュー後はさまざまなレースに出場を続け、着々と素晴らしい成績をおさめていきました。

2000年「グランドチャンピオン」に出場

2000年には「第10回グランドチャンピオン決定戦」に出場。競艇は行われるレースそれぞれにグレードがありますが、このグランドチャンピオン戦はボートレース界でも最高のスペシャルグレードにあたります。

 

誰もが出場できるというわけではなく、厳しい出場条件を満たしているレーサーのみが参加を許される特別なレース。そのため、ハイレベルな選手ばかりが集まる戦いとして競艇ファンからも人気があり、松本選手がいかに素晴らしい選手だったかを改めて知らされることとなりました。

長きに渡りA1レーサーとして活躍

ボートレーサーには「B2」「B1」「A2」「A1」と4つの階級があり、松本選手は最高ランクのA1級レーサーでした。この階級は勝率によって決まり、A1級レーサーは全レーサーの上位20%と決して多くありません。

 

さらに級別審査は年間2回行われ、成績や走りが思わしくないレーサーは降格になることもあります。そんな厳しい審査をものともせず、松本選手は1996年から24年もの間、最高ランクのA1級レーサーとして活躍し続けました。

松本勝也さんの最期

競艇ファンがレースを見守る中、誰もが予想もしなかった事態が起きました。松本選手の最期となってしまった事故は、どのようにして起こったのでしょうか。悲劇の詳細についてお話します。

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事故の概要

悲劇が起きたのは、2020年2月9日に尼崎競艇場で行われた「G1近畿地区選手権競争」。6日から11日まで行われ、3月のスペシャルグレード戦である「ボートレースクラシック」への出場権をかけたレースでした。

 

松本選手は予選最終日である9日の第9レースに6号艇で出走。1周目の2回目カーブを周りきった時に減速してバランスを崩し、後方からきた5号艇の大平史明選手のボートが松本選手に乗り上げる形で接触しました。

 

両選手ともボートが転覆。大平選手に怪我はありませんでしたが、松本選手は救助艇に引き上げられた時はすでに心肺停止という危険な状態でした。

死因

救助された松本選手は、ただちに兵庫県西宮市にある「兵庫医科大学病院」へ救急搬送され、医療チームによる懸命な蘇生処置がされました。しかし松本選手の鼓動が戻ることはなく、同日の午後4時12分に、48歳という若さで短い生涯に幕を閉じました。

 

特に目立つ外傷はありませんでしたが、松本選手がレース時に装着していたヘルメットには大きな傷があったそうです。翌日の10日には、松本選手の肺に水が溜まっていたことから、死因は溺死であると発表されました。

 

 

死と隣り合わせの過酷なレース

壁際にある消波装置への激突や、失速による他艇との接触など、競艇レース中の死亡事故は過去にも31件起こっていて、尼崎競艇場では松本選手の事故が2件目です。常に死と隣合わせという過酷な状況下で、選手達は命を懸けてレースに挑み、松本選手も例外ではありませんでした。

 

どんなに経験が豊富で優秀なレーサーでも、今回の松本選手のように突然起こりうるのが事故。地元であり、デビュー戦の会場でもあった尼崎競艇場が最期となってしまったのは、残念でなりません。

松本勝也さんの葬儀

あまりに突然旅立ってしまった松本勝也選手。競艇関係者やファンなど、多くの人が涙しながら松本選手を送り出しました。

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涙の葬儀

松本選手の葬儀がどこで行われたかなど、詳細については公表されていません。しかし大阪市会議員であり、競艇レーサーである中野次郎選手を夫に持つ佐々木りえさんが、松本選手の葬儀の様子について自身のブログに投稿しています。

 

松本選手の師匠であった沼田嘉弘元選手による松本選手との思い出話や、同じプロペラグループだった金子龍介選手による「松本選手に褒められて育てられた」という話など、松本選手の人柄の良さや競艇に対する熱心さが伝わる内容が語られたようです。

 

また松本選手の最愛の妻から「いつも家族のために一生懸命走り、空き時間には子供の相手もしてくれる満点の父親であった」という内容の話しもあり、松本選手が競艇選手としても父親としても素晴らしい方だったことがうかがえます。

 

競艇関係者や近しい方々の涙とともに葬儀が行われ、松本選手は旅立ちました

多くの花が供えられた献花台

レース中に目前で起きた事故だったこともあり、ショックを隠し切れない大勢の競艇ファンがいたことは言うまでもありません。尼崎競艇場内の第2マーク付近には松本選手の死を悼んで献花台が設置され、多くのファンから花が供えられました

 

また記帳台も置かれ、素晴らしい走りを見せ続けてくれた松本選手への感謝の気持ちや弔意を表するたくさんのメッセージも寄せられました。

 

当初は献花台の設置を2月11日(火・祝)までとしていましたが、その後設置期間が延長され、さらに多くの方が松本選手との別れを惜しみ、献花台の前で手を合わせました。

悲痛な思いが込められたメッセージの数々

松本選手の事故はすぐにメディアで放送され、突然の訃報に国中が驚き涙しました。競艇選手、関係者、一般の方など、さまざまな人が松本選手の死を受けて、悲しみの声を上げています。

選手たちの悲しみの声

普段から松本選手と付き合いがあり、面識のあった選手が受けたショックは計り知れないものでした。選手の悲痛な思いをまとめたものを、いくつか紹介します。

吉村誠選手(静岡支部・A2級)

とても気さくで、誰とでも分け隔てることもなく接してくれました。悔しくても態度に出さない紳士的な姿に感銘を受けたことを覚えています。ボートレーサーは危険で命に関わることもあると分かっていますが、こんなにもつらいとは。心からご冥福をお祈りします。

中西宏文選手(滋賀支部・B1級)

同僚の殉職は本当に辛いです。ボートレースの世界に入ってから、試運転中の事故やレース中・レース後の体調の悪化、帰宅途中の事故、私傷病などで何人が亡くなったことか。辛いです。松本くんは模範的で立派な選手でした。

高田ひかる選手(三重支部・A1級)

ボート操縦や考え方など多くを教えてもらい、支部が同じではないのにいつも気にかけてくれました。いつも優しく、自分が落ち込んでいると笑わせてくれました。本当に大好きでした。ご冥福をお祈りします。

鎌田義元選手(2017年引退 元兵庫支部・A1級)

いつでも自分達の中心にいて、一番笑顔で一番かっこよかった。兄さん、ありがとうございました。

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大勢のファンからも悲しみの声

兵庫支部の代表的レーサーだった松本選手は、温厚な性格とおごり高ぶることのない謙虚な姿勢から、記者や関係者からも好かれ、たくさんのファンが松本選手を応援していました。そんな皆さんから寄せられた悲しみの声をまとめ、いくつか紹介します。

 

「積極的で果敢なレースをありがとう。若い頃に松本選手のレースを見て競艇ファンになりました。俊敏レース時代を築き上げた、第一線で活躍したレーサー松本勝也を決して忘れません。ご冥福をお祈りします。」

 

「かっちゃんのレースが大好きでした。もう見ることが出来ないと思うと辛いです。もう少し落ち着いたら尼崎へお参りに行きます。ゆっくり休んで下さい。」

 

「競艇を始めて、最初に惹かれたのが松本選手でした。殉職の訃報を受けショックでした。心よりご冥福をお祈りします。そしてありがとうございました。」

 

「突然すぎて驚いています。明日の出走表に名前がないのが信じられません。かっちゃん、今まで優しい笑顔と熱い闘志をありがとう。かっちゃんのファイトは全ボートレーサーの瞳にやきついています。今までありがとう。」

涙と感謝の言葉で見送られた松本勝也さん

不慮の事故で亡くなった松本勝也選手は、長年に渡り好成績をおさめ続けたトップレーサーで、その人柄の良さからも多くの人から愛されていました。

 

たくさんの涙と感謝の言葉で見送られ、松本選手亡きあともその闘志と教えは他の選手に受け継がれています。

 

ボートレースの勝敗の影には、レーサー達の命がけの出走があるということを忘れてはいけません。そしてこのような悲しい事故が起きないよう、安全対策などの見直しがされることを切に願っています。

 

松本勝也選手のご冥福を心よりお祈りします。