保岡興治さんの葬儀 |自由民主党との合同葬を選んだ真意とは

公開日 : 2020/6/10

更新日 : 2020/9/8

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法務大臣を2回も歴任し、多くの議員立法成立に尽力してきた保岡興治さん。2019年4月19日、すい臓がんのため逝去されました(享年79歳)。保岡興治さんは、なぜ自由民主党との合同葬儀を選んだのでしょうか。保岡興治さんの葬儀の真意について迫っていきます。

公開日 : 2020/6/10

更新日 : 2020/9/8

目次

保岡興治さんのプロフィール

自由民主党との合同葬儀を選んだ保岡興治さんとは、どのような政治家だったのでしょうか。まずは、保岡興治さんの歴史や人となりをチェックしていきましょう。

29歳、司法の道を歩むも退官

1964年、中央大学法学部を卒業した保岡興治さんは、24歳で司法試験に合格します。その後は、判事補や鹿児島地方裁判所の裁判官として活躍されていました。しかし、29歳で退官し、弁護士として登録することとなります。

 

30歳のときには、政治家だった父親の武久氏が第32回衆議院議員総選挙での落選し、政界を引退します。このことをきっかけに、保岡興治さんは父親の跡を継いで政治家に転身する覚悟を決めたのです。

33歳、第33回衆議院議員総選挙で初当選

1972年、保岡興治さんは父親の武久氏の地盤を継ぎ、奄美群島区から無所属で立候補し初当選を飾ります。当選後には自由党からの追加公認を受け、田中派に所属することになります。1976年に起きたロッキード事件では、逮捕された田中角栄氏の弁護士としても尽力しました。

 

その後は国士政務官や大蔵政務次官、衆議院建設委員長など政界の要職を任されていきます。田中派が分裂の危機を迎えた際には、小沢一郎や竹下登の各派ではなく、同郷の二階堂進氏のグループに所属することを選んだのです。

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51歳、保徳戦争に敗れ落選

司法と政治の両方で活躍してきた保岡興治さんでしたが、1990年の第39回衆議院議員総選挙では長期戦化していた保徳戦争に僅差で敗れて落選してしまいます。戦った相手は、徳洲会グループの理事長・徳田虎雄氏でした。

 

この選挙で保岡興治さんの所属していた二階堂グループは、消滅してしまいます。しかし、1993年の第40回衆議院議員総選挙で返り咲き、新進党から自民党へと復党しながら、憲法調査会の幹事として再び政界の要職で活躍することとなるのです。

61歳、第2次森内閣にて法務大臣として初入閣

2000年、保岡興治さんは第2次森内閣でついに第69代法務大臣として初入閣を果たします。凶悪事件の犯人の死刑執行にも臨みました。2008年には、福田和夫改造内閣にて第81代法務大臣に再任されます。

 

その後も、自由民主党憲法改正推進本部長に就任するなど、保岡興治さんは法務族議員として国政に大きな貢献を果たしていくのです。

79歳、すい臓がんにて死去

2017年、すい臓がんが見つかった保岡興治さんは療養生活に入るため政界を引退し、第48回衆議院議員総選挙への出馬を取りやめ、息子の宏武氏に地盤を譲ります。その後は、憲法改正推進本部の特別顧問として憲法改正の策定にあたるのです。

 

2018年には、国や公共に大きな功労を残した人を称える日本の勲章・旭日大綬章を春の叙勲で受賞します。そして翌年の4月19日18時44分、保岡興治さんは東京都内の日本医科大学付属病院ですい臓がんのため、その生涯に幕を閉じたのです。

パチンコ業界との深いつながりとは?

高潔な人物だったと評される保岡興治さんですが、意外なことに「パチンコ」というキーワードとつながっているのはなぜでしょうか。その理由は、保岡興治さんが議員連盟である「時代に適応した風営法を求める会」の会長だったからです。

 

これは、パチンコの利用者から換金時に1%の課税分を徴収できるようにしようという考えを持つ会です。「時代に適応した風営法を求める会」の試算では、換金税を導入すれば2000億円もの税収を国が得られるようになるそうです。

 

しかし、パチンコ税の導入には様々な問題が山積していました。そのため、保岡興治さんの存命中に、会の願いが達成されることはなかったのです。保岡興治さん亡き後の「時代に適応した風営法を求める会」の動向は、多くの国民に注目されています。

 

 

保岡興治さんとGLAとの関係は?

保岡興治さんのつながりには、パチンコ以外にもGLAというキーワードがあります。これはいったいどういうことなのでしょうか。GLAとは、東京都台東区雷門に本部を置く宗教法人です。創立は1969年で、以前の会名は「大宇宙神光会」というものであったそうです。

 

保岡興治さんは、GLAの「魂の学」という教えに感銘を受け、とくに晩年は主宰者の高橋桂子氏に師事されていたようです。保岡興治さんは、亡くなる前日にも主宰者の方と会話されていたといいます。

 

保岡興治さんにとって、理想の考えを掲げる宗教であったのでしょう。GLAを信仰する有名な信者には、保岡興治さんだけでなく、政界はもちろん、芸能界からも著名な方がたくさんおられるようです。

 

 

 

 

保岡興治さんの手がけた改革とは

保岡興治さんは元内閣総理大臣だった田中角栄氏に続いて、多くの議員立法を成立させてきた政治家です。そんな保岡興治さんの着手してきた改革とは、どのような内容だったのでしょうか。ひとつめは、「伝統的工芸品産業振興法(伝産法)」です。

 

伝統産業である大島紬などの保護制度を成立させ、奄美の振興に大きく貢献されたのです。金権まみれの保徳戦争の熾烈な経験から発案・成立にいたった「選挙腐敗防止法」もそのひとつです。犯罪被害者の人権を守る「犯罪被害者等基本法」にも尽力されました。

 

保岡興治さんの議員立法として最も有名なのは「裁判員制度」の創設であるでしょう。日本の司法は海外と同じように、一般市民もその場を広く共有できるようになったのです。保岡興治さんの手がけた改革は、あまりにも大きすぎる功績だったといえるでしょう。

保岡興治さんの葬儀について

法務族議員でありつつも、さまざまな方面についての法改正も着手していた保岡興治さんが選んだのは、自由民主党との合同葬儀です。そこにはどのような思いがあったのでしょうか。ここでは、保岡興治さんの葬儀について詳しく迫っていきます。

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鹿児島県で自由民主党との合同葬を行う

保岡興治さんの葬儀は、保岡家と自由民主党との合同葬です。通夜は2019年4月23日に、告別式は翌日の4月24日に行われました。喪主は奥様で、葬儀委員長には自由民主党鹿児島支部の幹部の方が務められています。

 

斎場は、鹿児島県にある吉田葬祭の典礼会館です。吉田葬祭は、大規模の葬儀が可能な斎場であるようです。息子の宏武氏が「父の意志に沿った葬儀を執り行う」旨を自身のFacebookで述べられています。

 

 

保岡興治さんが合同葬を選んだその真意とは

保岡興治さんが密葬や家族葬ではなく自由民主党との合同葬を選んだのは、息子さんの将来や鹿児島県の発展を願ってのことだったのではないでしょうか。もちろん、保岡興治さんの政治家としてのこれまでの華々しいご活躍に対する功績もあるでしょう。

 

しかし、残された息子さんと政党の結びつきを強くしてあげたい、地方の発展は政治による介入が必要という最後の政治家としての親心もあったはずです。保岡興治さんの選んだ葬儀のかたちは、最後まで政治家一筋ということだったのでしょう。

お別れ会は東京と奄美で開催

保岡興治さんのお別れ会は、東京と鹿児島の奄美の2か所で行われました。東京の開催日程は2019年5月30日にザ・キャピトルホテル東急で、奄美では6月9日に名瀬小学校体育館で執り行われました。

 

東京のお別れ会には安倍総理大臣、二階俊博氏、山崎拓氏などそうそうたる政界のメンバーが出席しています。祭壇も盛大で、華やかな仏花とともに天皇陛下から賜った正三位の勲記や旭日大綬章が供えられていました。

 

奄美会場でも自由民主党の森山国対委員長を始め、国会議員や県議など総勢700名ほどが参列して保岡興治さんを追悼したようです。奄美会場の祭壇には、開催地らしく奄美群島を模した美しい装飾が施されたとのことです。

 

 

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お別れ会は鹿児島県の和泊町上手々知名公民館でも

東京と奄美でのお別れ会開催に先だって、4月24日には奥様の出身地である鹿児島県の和泊町上手々知名公民館でも有志主催で、保岡興治さんのお別れ会が開かれました。保岡興治さんは和泊町の敬老会とも親交が深く、そのご縁からであったようです。

 

保岡興治さんは、かつて所属していた田中派が分裂したときも、同郷の二階堂グループを選んだほど地元愛の強い政治家でした。そんな保岡興治さんは、地元である奄美の人たちのため、奄美の産業振興のために全力投球した政治家でもあったのです。

保岡興治さんの跡を継いだ息子の宏武氏とは

保岡興治さんの政界引退にバトンタッチをするように、息子の宏武氏が第48回衆議院議員総選挙に出馬しましたが、願い叶わずの結果となってしまいました。 現在では、保岡興治さんの後継ぎとして、自由民主党の鹿児島県ふるさと創生支部長に就任されています。

 

宏武氏は政策としても父親の跡を継ぎ、鹿児島県の振興や少子高齢化や社会保障への取り組み、憲法改正議論への推進などが掲げられています。保岡興治さんの亡き後、息子の宏武氏のこれからの活動に、政界からも多くの期待が寄せられています

 

 

 

 

保岡興治さんは最後まで政治家であることを選んだ

保岡興治さんの人生を振り返るとともに、最後に選んだ葬儀のかたちも解説いたしました。保岡興治さんの選んだ最後は、「政治家としての最後」です。最後のかたちに迷っているなら、保岡興治さんのように天職を全うしてみるのもひとつの選択肢となるでしょう。