田中弘邦さんの葬儀|「全特のドン」の人生と葬儀、生い立ち、業績から最期まで

公開日 : 2020/5/31

更新日 : 2020/9/10

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2019年4月、田中弘邦さんが92歳で亡くなりました。郵政民営化に真っ向から反対したことで知られる田中弘邦さんは、どのような人生を送り、亡くなり、弔われたのでしょうか。田中弘邦さんの生い立ち、仕事の詳細から最期までを見ていきます。さらに、葬儀の様子も確認します。

公開日 : 2020/5/31

更新日 : 2020/9/10

目次

田中弘邦さんのプロフィール

まずは、田中弘邦さんのプロフィールを確認しましょう。生い立ちから、特定郵便局局長になり、影響力を獲得していくまでを見ていきましょう。田中弘邦さんはどのようにして「全特のドン」と呼ばれるようになっていったのでしょうか。

田中弘邦さんの生い立ち

田中弘邦さんは1926年生まれ、新潟県上越市出身です。新潟県立高田中学校を経て、麻布獣医専門学校(現麻布大学獣医学部)を卒業しました。その後、家業である造り酒屋の「田中酒造」を継ぐと同時に、特定郵便局(谷浜郵便局)の局長になります。なお、この局長の職は曽祖父の代からの世襲でした。 地元の有力な家系に生まれ、それを引き継いでいった経歴ですね。この先、田中弘邦さんはさらに大きな影響力を獲得していくことになります。そして、それを地元の上越市の発展のために行使するようになります。

特定郵便局局長として

田中弘邦さんは特定郵便局局長を46年にわたって務めました。そして、特定局長のOBで組織される大樹全国会議の会長を務めました。「全特のドン」として知られ、郵便局関係者に多大な影響力を持ち続けました。 豪放磊落な人柄で知られ、郵便局の在り方に対する持論を訴え続けました。長く郵便局の事業に携わり、その経験から強い信念を持つに至ったようですね。郵政民営化をめぐる議論の際にはその主張を強く訴えました。それは「国営ではなぜいけないのですか 公共サービスのあり方を問う」という著書の形で残っています。

田中弘邦さんの活動

この項では、田中弘邦さんの仕事の内容を確認します。郵便局事業においては、国営維持論者として知られた田中弘邦さんの主張の詳細はどのようなものだったのでしょうか。また、地域の発展に貢献した活動も見ていきましょう。 これらの活動は、田中弘邦さんが亡くなった際に、振り返られ、讃えられることになります。また、その功績の故に惜しまれることになります。

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国営維持論

田中弘邦さんは小泉内閣で進められた郵政民営化に反対したことで知られています。郵政民営化の議論において、特定局長会の「顔役」としてメディアに頻繁に登場し、国営維持論を訴えました。 田中弘邦さんは、全国均一のサービスを貫徹すべきである郵政事業は国営で手掛ける公共サービスだと主張しました。採算の合わない場所へも入り込んでサービスを徹底するには民営化は得策ではないと断定しました。また、特定郵便局が地域のコミュニティーに貢献してきたことも重視し、持論を展開しました。 また、明治時代にさかのぼって、特定郵便局の成り立ちを説明し、多くの特定郵便局長は私利私欲で郵便事業に関わっているわけではないと主張しました。郵便事業に関して、確固たる信念があった事がうかがえますね。

上越政財界の重鎮として

田中弘邦さんは上越政財界の重鎮として、様々な方面に影響力を発揮しました。2016年まで7期19年、上越商工会議所会頭を務め、北陸新幹線開業に向けた施策や上越火力発電所の建設など、地域の産業を推進しました。 また、上越市長選においては、副市長だった村山秀幸氏に立候補を要請するなど、地元の市政にも大きな関わりを持ちました。義理人情に厚く、強く優しい人柄でおおいに頼りにされていたようです。影響力を行使すると同時に、その人格が慕われていたということですね。

田中弘邦さんの最期と葬儀

田中弘邦さんはどのようにして亡くなり、どのような葬儀が行われたのでしょうか。この項では、田中弘邦さんの最期とその葬儀について見ていきます。大きな功績を残した田中弘邦さんを、家族はどう弔ったのでしょうか。

田中弘邦さんの最期

田中弘邦さんは2019年4月11日午前5時53分に、上越市内で92歳で亡くなりました。病気療養中だったということです。病気の詳細など、詳しいことは発表されていないようです。 上越市の村山市長や上越商工会議所の高橋会頭が、田中弘邦さんの生前の功績を偲び、追悼のコメントを発表しました。遺族は、生涯を現役で終えられたのは皆様のおかげ、と関係者に対する感謝のコメントを発表しました。地域にとって大きな存在が失われたことが分かりますね。

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家族による密葬

田中弘邦さんの葬儀は、家族と近親者のみで密葬が行われました。後日に別途、葬儀が行われましたが、まずは密葬という形を家族の方々は選んだようですね。多くの人に悼まれた田中弘邦さんですが、まずは親しい人間だけで弔いたいという気持ちだったのでしょうか。 田中弘邦さんのような著名な方の場合、まずは家族だけで弔い、後日大規模な式を行うという方式が最も一般的かもしれません。この方式をとれば、家族のみでじっくり追悼することと、多くの人々が別れを告げるという二つの側面を満足させられます。

田中弘邦さんの葬儀式

家族による密葬の後日、大きな葬儀式がとりおこなわれました。この項では、その葬儀式について見ていきます。多くの人々が参列したこの葬儀式はどのように行われたのでしょうか。また、弔辞についても解説します。

大規模な葬儀式

田中弘邦さんの葬儀式が2019年5月29日、上越文化会館大ホールで行われました。政財界、郵政関係者など約1300人が参列し、故人を悼みました。全国郵便局長会の山本利郎会長が葬儀委員長を務め、祭壇には花に囲まれた遺影が飾られ、読経が行われました。 やはり田中弘邦さんのような著名人には、このような大きな葬儀式が必要だったようですね。政財界の要人を含め、多くの人が田中弘邦さんを追悼していました。

弔辞の内容

この葬儀式では、全国郵便局長会の青木進顧問と、元県知事の泉田裕彦衆議院議員、村山秀幸上越市長の3人が弔辞を読みました。泉田氏は生前の田中弘邦さんとの日々を振り返り、田中弘邦さんのリーダーシップやアドバイスを讃え、追悼しました。また村山市長は、人間関係を大事にし、行動力に長けた田中弘邦さんの人柄を偲びました。 弔辞で業績だけでなく、人柄や性格を讃える言葉が多かったことからも、田中弘邦さんが愛され、頼りにされていたことが分かります。このような大きな会場で、田中弘邦さんを悼む言葉を多くの人が共有できた意義は大きかったのではないでしょうか。

田中弘邦さんの旅立ち

政財界において、大きな影響力を持った田中弘邦さんの人生と葬儀を振り返ってみました。最期までお付き合いいただき、ありがとうございました。非常に頼りにされた田中弘邦さんは、多くの人々に見送られ、旅立っていきました。その功績に触れる度、世の人達は田中弘邦さんの存在を思い出すのではないでしょうか。