宮城まり子さんの葬儀 |歌手や女優から「ねむの木学園」の園長へ

公開日 : 2020/5/15

更新日 : 2020/9/10

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2020年3月21日、ご自身の誕生日である日に逝去された宮城まり子さん。新型コロナウイルスの影響もあり、葬儀は学園の子供たちと職員とで温かく行われました。女優・歌手から障害者支援施設園長になった宮城まり子さんのやさしい人柄がわかる葬儀をご紹介します。

公開日 : 2020/5/15

更新日 : 2020/9/10

目次

宮城まり子さんのプロフィール

氏名:宮城まり子さん(本名:本目 眞理子)

生年月日:1927年3月21日生まれ

出身地:東京府東京市蒲田区(現:東京都大田区上野毛)

23歳で歌手デビュー

戦時中に宮城千鶴子の芸名で初舞台。 戦後に浅草の舞台に立ち始めます。

1950年 宮城まり子さんが23歳の時にテイチクから「なやましブギ」で歌手デビュー。

 

その後、ビクターに移籍し、「あんたほんとに凄いわね」、「毒消しゃいらんかね」がなどがヒットし、名前が知れ渡ります。

1955年 28歳の時に「ガード下の靴みがき」が大ヒットし、その後もヒットを連発しました。

 

 

31歳で活躍の場を広げていく

1958年 宮城まり子さんが31歳の時、日本で初めてのカラー長編アニメ映画「白蛇伝」で声優に挑戦。

 

その後、東宝劇場で出演している時にスカウトされ、女優業にも進出。 ミュージカルなどの舞台でも活躍の場を広げていきました。

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31歳で数々の受賞

1954年~1960年の間にNHK紅白歌合戦にも全8回出場。

1958年 宮城まり子さんが31歳には文化庁主催の「芸術祭」で受賞。

1959年 32歳では東京演劇記者会が主催していた演劇賞「テアトロン賞」を受賞。

 

宮城まり子さんは、歌手としても女優としても実力を認めらていき、数々の賞を手にしていきます。実力をつけたことで演技の幅も広がっていったことが最終的に「ねむの木学園」のきっかけになったのかもしれません。

 

 

41歳で「ねむの木学園」を設立

1968年 宮城まり子さんが41歳の時に静岡県浜岡町(現・御前崎市)に日本発の肢体不自由児養護施設である「ねむの木学園」を設立。

 

ミュージカルの役作りで脳性麻痺の子供がいる施設を訪れたことがきっかけで、このような子どもたちにも教育の場を与えたいと強く思い設立を決意したそうです。この頃を境に芸能活動は事実上引退となりました。

47歳から自ら脚本や監督も手掛け映画を製作

宮城まり子さんは、47歳から、監督・製作・脚本・作詞・作曲・編集・語りなどを手掛けて映画を製作しています。

 

1974年1月完成 「ねむの木の詩」ヴェルナ国際赤十字映画祭銀賞、文化庁優秀映画奨励賞、各国の国際映画祭に参加。

1977年1月 完成 「ねむの木の詩がきこえる」ブルーリボン賞特別賞など数多く受賞。

 

1980年1月 完成 「虹をかけるこどもたち」フランスのシダラック大賞など海外でも受賞。

1984年3月完成 「A Big Hand for All Children」ねむの木学園のドキュメンタリー映画。

1986年3月完成 「Hello Kids!」ヴァルナ国際赤十字映画祭特別功績賞。

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48歳から積極的に世間に訴えていく

1975年と1981年に近畿放送で「宮城まり子のチャリティーテレソン」を通し、身体障碍者の社会参加を積極的に訴える。

1979年 宮城まり子さんが52歳の時に総理大臣表彰。

 

1982年 55歳の時、テレビ朝日「ハウスこども劇場」で「小さなラブレター まり子とねむの子供たち」としてアニメ化。

 

1991年 64歳の時、NY、ケルン、ローマにて「ねむの木学園美術展」と「障害児における幼児教育シンポジウム」を開催。辻村教育賞、エイボン女性大賞受賞。

 

52歳で「ねむの木養護学校」を設立

1973年 宮城まり子さんが46歳の時に、日本の文化活動に貢献した人に贈られる公益財団法人・吉川英治国民文化振興会主催、講談社が後援の「吉川英治文化賞」を受賞。

 

1974年 47歳の時、記録映画である「ねむの木の詩」を監督・製作。第6回国債赤十字映画祭で銀メダルを受賞。

1979年 52歳の時に「ねむの木養護学校」を設立。

72歳に「ねむの木学園」を移転

1990年 宮城まり子さんが72歳の時、事故が起きた時に子供を安全に避難させることができないことを理由に「ねむの木学園」を静岡県掛川市に移転。同時に「吉行淳之介文学館」、「ねむの木こども美術館」を文化施設として開設しています。

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80歳で自伝を執筆

2007年3月 宮城まり子さんが80歳の時、日本経済新聞「私の履歴書」という自伝を執筆し掲載。その他にも「ねむの木学園」のことや心理学などを中心に数多くの本を出版しています。

 

  • 「ねむの木の子どもたち」講談社文庫
  • 「リーダーの仕事力を高める7つの心理学」生産性出版
  • 「人間関係がよくなる誰からも信頼される聴く技術」生産性出版
  • 「愛の風景―ねむの木学園 」 ねむの木学園
  • 「やさしくね―やさしいことはつよいのよ」海竜社 など多数に渡ります。

宮城まり子さんの誕生日である3月21日に永眠

宮城まり子さんが92歳であった2019年4月に肺炎で入院。それ以降、体調が優れなく、入退院を繰り返しますが、そのような中でも「ねむの木学園」の仕事をやめずに打ち込んでいきます。

 

2020年2月始めに急激な体調の悪化があり、掛川市内の総合病院に緊急入院し、間質性肺炎と診断されます。

 

その後、20年ほど前に患った悪性リンパ腫の再発があるということで、東京の医療機関に転院しました。しかし、ご自身の誕生日である2020年3月21日、午前6時55分に永眠しました。満93歳でした。

最期の最期まで子供を思う

宮城まり子さんは亡くなる数日前まで、自分の体調が良くないにも関わらず、体調を崩していた生徒の体を気遣っていたそうです。職員に様子を尋ねたりと、最期まで子供たちのことを気にかけていたとのことでした。

 

2020年8月には静岡市のグランシップコンサートが行われる予定で、宮城まり子さんが指揮を執っていました。子供たちの頑張りを多くの人々に届け、認め合う大切さを感じあえる場所にしたいと語っていたそうです。

心温まる「いってらっしゃい会」

3月27日、園長を務める静岡県掛川市の養護施設である「ねむの木学園」で「いってらっしゃいの会」という名のお別れ会が営まれました。

 

非公開の学園葬儀

この日は、非公開で学園葬として静かに行われました。教職員約80人と学園の子供たち約70人が参列し、最期の別れを惜しんでいたそうです。

心温まるお別れの場所に

宮城まり子さんが亡くなって、大泣きして大きな悲しみを抱えている子供もいれば、まだ実感がわかなくボーっとしている子供もいたようで、ショックは非常に大きかった様子が伺えます。

 

「いってらっしゃい会」では、子供たちが宮城まり子さんを思って描いた色とりどりの絵が飾られて温かい雰囲気に包まれていました。

 

また、学園の生徒たちが選んだ宮城まり子さんが大好きだった黄色い花々が飾られ、祭壇の右側には親交があった上皇后陛下からの真っ白い清らかな花が飾られていたそうです。子供たちは祭壇に1本ずつピンクのバラを供えていき、心温まるお別れの場所となった

一般の献花はしばらく開放していた

新型コロナウイルスの影響もあり当分は、吉行淳之介文学館にて午前9~午後6時まで一般開放していましたが、感染拡大を防ぐため、4月5日をもって一旦終了となっています。

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午前中から一般の人たちが並ぶ

3月28日には、当初は一般参列者の献花台を学園に設置する予定でした。しかし、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、同市内になる吉行淳之介文学館に変更になっています。

 

午前中から多くの人たちが献花に訪れており、「このように貢献した人の葬儀には訪れたいと思った」「これからもまだまだ必要とされる人なのに惜しいことだ」など、非常に残念といった声が多く上がっていました。

 

また、松井掛川市長や県幹部も弔問に訪れ、別れを惜しんでいたとのことで、日本の社会に貢献してきた姿を感じる一面です。

 

 

障害福祉関係者からも悼む声多数

宮城まり子さんの悲報を受け、障害福祉関係者や看護関係者からも数々の悼む声が上がっています。 宮城まり子さんは、「常に子供たちのためという言葉を繰り返していた」とのことで、その想いを次代に伝え続けていきたいとのことです。

 

「平和ややさしさを大切にする気持ちが強い女性だった。」「全力で実践した方なので非常に残念に思う。」など、宮城まり子さんの人柄がわかるような言葉を述べているのが印象的です。

上皇上皇后両陛下からも弔意

上皇、上皇后両陛下は、1976年から宮城まり子さんと交流があったとのことで、悲報を受け取ると同庁上皇職を通じて「ねむの木学園」の弔意を伝えたそうです。


上皇、上皇后両陛下は、宮城まり子さんと長年の親交があり、たびたび「ねむの木学園」をご訪問していました。2018年11月にも私的旅行で「ねむの木学園」を訪れ、園の子供たちが描いた絵画やダンスなどを観覧しています。


皇太子妃時代に東宮御所に招かれた宮城まり子さんが、園の子どもたちが描いた絵を披露しことがきっかけで、以来、東京近郊で開いた学園の作品展に訪れて交流を深めてきたとのことです。

 

宮城まり子さんのやさしさが伝わる葬儀

やさしくね やさしくね やさしいことはつよいのよ

出典:https://www.nemunoki.or.jp

宮城まり子さんは、「平和ややさしさ」を信念に障害者支援施設である「ねむの木学園」を運営してきました。やさしさをモットーとしており、ホームページ(HP)にも記載されています。

 

常にやさしく、強く、感謝することを学園の子供たちに伝えてきた宮城まり子さん。80歳になった時に後継者について、「きちんと物事を考え、感じ、愛の多い人が継いでくださる。私の心は子供たちが継いでくれる」とおっしゃっていたそうです。

 

葬儀では、子供たちが宮城まり子さんを思って描いた心温まる明るい絵などが飾られており、やさしさが溢れている葬儀になっていました。宮城まり子さんがおっしゃった通り、心は継がれているように感じます。

宮城まり子さんの葬儀から学ぶ

宮城まり子さんの葬儀を見ると、人生の在り方を考えるきっかけになるのではないでしょうか。自分自身のことだけでなく、少しでも子供たちが平和に、やさしさで包まれるように小さくでも貢献していきましょう。