赤崎義則さんの葬儀 |鹿児島市長を20年間務めた名市長の最期は?

公開日 : 2020/5/13

更新日 : 2020/9/7

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鹿児島市長を史上最長の20年間務め、人生を鹿児島市の発展に尽くした赤崎義則さん。2019年4月12日に胃がんで91歳で亡くなられましたが、その葬儀の様子はどうだったのでしょうか。その生涯を鹿児島市のために尽くした赤崎義則さんの功績とその最期をお伝えしましょう。

公開日 : 2020/5/13

更新日 : 2020/9/7

目次

赤崎義則さんのプロフィール

20年もの間、鹿児島市長を務めた赤崎義則さんの葬儀の様子に興味がある人は多いかもしれません。それをお伝えする前に、赤崎義則さんの生涯について詳しく説明しましょう。

地元の鹿児島市役所に長年勤務し57歳で助役に就任

赤崎義則さんは鹿児島県に生まれ、現在の鹿児島大学農学部を22歳で卒業された後に、鹿児島市役所に採用されました。市役所では大学の専門分野を生かした農林部経営課だけでなく、指導課、財政部管財課、行政部職員課などの多くの課の課長を歴任しました。

 

そして57歳で市役所のトップの助役に就任したのです。1984年3月のことでした。赤崎義則さんは鹿児島市に長年の間、尽くしてきた叩き上げの公務員だったということです。ところがこれは赤崎義則さんの鹿児島市に捧げた人生の、まだ序章に過ぎなかったのです。

57歳で鹿児島市長に初当選

赤崎義則さんが助役についた同年の12月、鹿児島市長だった山之口安秀さんが病気のため市長職を辞職しました。そして行われた鹿児島市長選に赤崎義則さんは立候補し、見事に初当選したのです。

 

昨今では若い市長も多い中、57歳での当選は遅く感じるかもしれません。ところが赤崎義則さんはその後3選され、鹿児島市長を5期20年もの間続けることになったのです。これは現在までの、鹿児島市長の在任期間の最長記録です。

 

この20年という長い期間を見ても、赤崎義則さんがいかに鹿児島市民から高い支持を得てきたかがわかりますね。

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平成5年8月豪雨では災害復旧の指揮を執る

赤崎義則さんが66歳になった1993年、「平成5年8月豪雨」と言われる集中豪雨が鹿児島市を襲いました。これは今でも鹿児島では8.6豪雨、8.6水害と言えばすぐわかるほどの、鹿児島市民の記憶に強く残っている大きな災害です。

 

この水害は死者・行方不明者49名、重軽傷者52名、家屋全壊284戸、半壊183戸という甚大な被害をもたらし、そのほとんどが鹿児島市でした。この時の警官の奮闘の様子がNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』フジテレビ『奇跡体験!アンビリバボー』に取り上げられるほどの、全国的にも注目された大災害だったのです。

 

この時に赤崎義則さんは陣頭指揮を執り、災害復旧の指揮や石橋の移設などを的確に指示して被害を抑えたのです。この後も再選を果たしていることから、鹿児島市民に支持された優れた対応だったことが伺えます。

1999年に全国市長会会長に就任

赤崎義則さんは71歳の1999年に、第23代の全国市長会会長に就任しました。この組織は日本の全ての市長と区長が参加していて、その中からリーダーとして選ばれるほど、赤崎義則の功績は高く評価されていたということです。

 

赤崎義則さんは会長を2年間務めました。その間に「内閣総理大臣と市町村長との懇談会」を実現させ、これは画期的な事績だったと評価されています。その後は総理大臣が全国市長会総会に出席するようになり、赤崎義則さんが改革者としても優れていたことを示しています。

 

また介護保険制度の発足にあたっても、赤崎義則さんは会長として国に働きかけ、その成立に大きく貢献しています。

 

2004年の市町村合併で鹿児島市の拡張に貢献

赤崎義則さんが76歳の2004年、鹿児島市で「平成の大合併」と言われる市町村合併がありました。吉田町、桜島町、松元町、郡山町、喜入町が鹿児島市に編入されたのです。これほどの大きな合併は過去に無い事でした。

 

この大合併にあたって主導的な役割を担ったのが、赤崎義則さんだったのです。合併の費用の3分の2を国が補填する「合併特例債」により、鹿児島市は315億円の交付を受けることができました。これも赤崎義則さんの政治手腕の賜物と言えるでしょう。

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5選は目指さず引退し、悠々自適の日々を送る

鹿児島市に多大な貢献をした赤崎義則さんですが、大合併があった2004年の市長選には出馬せず、引退を決意しました。鹿児島のために70年以上の人生を捧げてきましたが、最後は一人の人間としてゆったりと暮らすことを決めたのです。

 

引退の翌年、旭日重光章を受章するなど赤崎義則さんの功績の評価はとても高いものでした。そして赤崎義則さんは15年間の老後の人生を楽しみ、91歳で胃がんで亡くなられたのです。

 

長年の間、鹿児島市役所に勤め、そして20年間鹿児島市長として活躍した赤崎義則さんの地元に尽くした人生は、多くの人が見習うべき生き方だったと言えるでしょう。地方分権が叫ばれる今、赤崎義則さんのようなリーダーは今の時代にも求められる人物像と言えます。

赤崎義則さんの葬儀は吉田葬祭典礼会館で行われた

鹿児島市のために長年の間、尽くした赤崎義則さん、その葬儀の内容はどのようなものだったのでしょうか。それは赤崎義則さんに相応しい物だったと言えます。

告別式では300人の参列者が集まった

赤崎義則さんの葬儀は、鹿児島市大竜町の吉田葬祭典礼会館でしめやかに行われました。喪主は妻の島子さんが務められました。本葬の後の告別式には300人の方々が集まり、その中には現職の森博幸市長や国会議員の姿も見られました。

 

森博幸市長が弔辞を読み上げ、先月に赤崎義則さんを訪ねた時に、「鹿児島市政を頼むね」という言葉を頂き「トップとしての決断力や判断力、リーダーシップのありようを学ばせて頂いた」と赤崎義則の功績を讃え、その死を偲んでいます。

 

また赤崎義則さんが市長となった後に助役として赤崎市長を支え、40年以上の間にわたり親交があった戸川堅久さんは、「やっぱり永遠の別れはさびしく、何の言葉も無い」と涙ながらに赤崎さんとの別れについて語っていました。

 

参列者は皆手を合わせて赤崎義則さんのご冥福を祈ったということです。赤崎義則さんが多くの人に慕われていたことが伺えます。

死後に従四位に叙せられるなど数々の褒章を受章

赤崎義則さんは死後、多大な功績により従四位に叙せられました。また赤崎義則さんは鹿児島市で4人しかいない名誉市民にも選ばれています。さらに鹿児島市と友好都市の関係にある中国の長沙市の名誉市民にも選ばれています。

 

先に述べたように存命中の2005年には旭日重光章受章も受賞していて、赤崎義則さんは日本のはずれの市長でありましたが、全国的に高い評価を受けた不世出の名市長と言えるでしょう。鹿児島市民にとっては今なお誇りと言える存在となっています。

一生を鹿児島市の発展に尽くした赤崎義則さん

鹿児島市にその生涯をかけた赤崎義則さんの一生と、その最期について記述しましたがいかがでしたでしょうか。赤崎義則さんの葬儀は決して大規模なものではありませんでしたが、現市長や国会議員も訪れ、多くの人にその死を惜しまれた鹿児島市の誇る名市長だったと言えるでしょう。