ジャニー喜多川さんの葬儀|総勢150人で執り行われた“家族葬”
公開日 : 2020/5/28
更新日 : 2020/9/9
2019年7月9日にくも膜下出血で亡くなられた、ジャニー喜多川氏の葬儀が同年7月12日に都内で執り行われました。総勢150名のジャニーズ事務所のタレントが参列しましたが、どのメディアも「家族葬」と報道しました。本当にたくさんの方に慕われたジャニー喜多川さんの経歴と、葬儀、お別れ会のご様子をお伝えします。
公開日 : 2020/5/28
更新日 : 2020/9/9
目次
ジャニー喜多川氏の死
2019年7月9日、男性アイドルグループ事務所「ジャニーズ事務所」社長であるジャニー喜多川氏がお亡くなりになりました。ジャニー喜多川氏は87歳でした。
ジャニーズ事務所は日本のエンターテイメントの中でも他に類を見ないほど多くの人を魅了し、楽しませ、笑顔を与えています。
そんなジャニーズ事務所を一から作り上げたジャニー喜多川氏の葬儀、そのお別れの会の様子についてこの記事では解説をしていきます。ジャニー喜多川氏がどれほどの人から慕われていたのか、どんな人物だったのかをお伝えできれば幸いです。
ジャニー喜多川氏の最期
ジャニー喜多川氏は87歳で鬼籍に入られましたが、その死因は解離性脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血でした。
ジャニーズ事務所の発表によると、ジャニー喜多川氏は2019年6月18日に自宅で体調の異変を訴え、病院への道中で意識を失い救急搬送されました。
ICUでの懸命な治療のおかげで家族や所属タレントと言葉を交わすことができるようになりましたが、完治することは叶わず、同年7月9日に息を引き取りました。
ジャニー喜多川氏にとっては所属タレントという“子供たち”と会話をすることが何よりの薬になったようで、一時的に容体が回復するなどの出来事もありました。
ジャニー喜多川氏の家族葬
ジャニー喜多川氏の葬儀は7月12日に執り行われました。その場所は、ジャニーズのタレントたちが練習を行う都内の稽古場でした。
著名人が亡くなられると、大規模なお葬式が行われるか、近親者のみでの葬儀の後、「お別れの会」のようなものを行うことが多いですが、ジャニー喜多川氏の場合は、家族葬を選びました。それは、ジャニーズ所属タレントという家族全員が参加する「家族葬」でした。
総勢150名で行われた葬儀
家族葬と言うと、基本的には子供や孫、親戚筋の方など少人数で執り行われる式のことをさしますが、実は家族葬には厳密な定義というものはありません。
ジャニー喜多川氏とジャニーズ事務所に所属するタレントたちは家族という関係で硬く結ばれています。ジャニーズ事務所は「代表取締役社長ジャニー喜多川 家族葬に関するご報告」と訃報を発表しました。
各メディアは家族葬の部分にカッコをつけて強調しました。ジャニー喜多川氏の葬儀は、血縁関係はない、しかし家族のような絆で結ばれた「150人の家族葬」でした。
葬儀に参列したタレントたち
葬儀に参列したタレントは誰がいたのでしょうか。総勢150名以上と言われていますが、ジャニーズ事務所に所属しているタレントのほとんどが参列したようです。
具体的には、近藤真彦さん、少年隊、木村拓哉さん、TOKIO、V6、嵐、NEWS、KAT-TUN、関ジャニ∞などです。所属タレント、という線引きをおいたため、新しい地図の3人は参列されなかったようです。他にも移籍をした郷ひろみさんなどもいませんでした。
中居正広さんは、当時はジャニーズ事務所に所属していましたが、彼は仕事の都合がどうしてもつけられず欠席したようです。
葬儀後はジャニーズタレントで飲み会!?
ジャニー喜多川氏の葬儀が大変湿っぽく、みんなが悲しみに暮れているかというとそうではなく、故人を偲びながらも、ジャニー喜多川氏が残してくれたものを明るく語らおうという雰囲気があったようです。
葬儀後はジャニーズ事務所所属タレントで宴会が開かれました。司会を務めたV6の井ノ原さんは、KAT-TUNの中丸さんにボイスパーカッションを無茶振りするなど、とても朗らかな会でした。
中丸さんのボイスパーカッションは病室でジャニー喜多川氏本人に向けても披露されていたようで、いい思い出になったそうです。
ジャニー喜多川氏のお別れの会
ジャニー喜多川氏の葬儀は7月12日に「家族葬」で執り行われましたが、一般の方も進行のあった芸能人の方も参加できるお別れの会が、9月4日に行われました。「ジャニー喜多川 お別れの会」はなんと東京ドームで、一般公開で行われました。
ジャニー喜多川氏の祭壇はドーム球場のバックスクリーン側に設けられました。横幅が35メートルもある巨大な祭壇が作られ、彼が生前好きだった白い胡蝶蘭がたくさん並べられました。大変盛大で華やかな会場設営がなされました。
所属タレントで行われた第一部
午前11時からはまず所属タレント、そして親交あった芸能界の方らが参加をされました。滝沢秀明さんがプロヂュースをしたジャニー喜多川さんの映像が流れましたが、そのナレーションを担当したのは少年隊の東山紀之さんでした。
映像にはタレントのライブ映像やジャニー喜多川氏の誕生日会の様子が盛り込まれていたといい、いつも裏方に徹していたジャニー喜多川氏が今日だけ主役になった、象徴的なものでした。
映像の後、ジャニーズ事務所を代表して、近藤真彦さんがジャニー喜多川氏への感謝の言葉を述べました。
安倍晋三首相から弔電
ジャニー喜多川氏の存在の大きさは計り知れません。ジャニー喜多川氏は「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」としてギネスブックにも載っています。
そんなジャニー喜多川氏の影響力の強さは弔電にも表れていました。日本の内閣総理大臣である安倍晋三首相から弔電が届いたのです。
近藤真彦さんが代読をしました。それほどまでに日本という国にとって大きな存在だったということです。日本中の笑顔を支えたのがジャニー喜多川氏でした。
約9万人が詰めかけた第二部
ジャニー喜多川氏のお別れの会は午後2時から第二部が始まりました。この第二部では一般の方も参列をできたため、なんと3.3キロメートルもの列ができたそうです。日本全国からおよそ9万人もの方が詰めかけ、長い人は献花まで3時間以上も待ったそうです。
参列をした一般の方には全員にお礼状と祭壇の写真のポストカードが配られました。どれほど多くの人間がジャニー喜多川氏に勇気づけられてきて、直接ありがとうの思いを伝えたかったかがわかります。
ジャニー喜多川氏に所属タレントが伝えたいこと
ジャニー喜多川氏が生み出した男性タレントは数え切れないほどたくさんあります。最初のタレントは「ジャニーズ」で、最後にジャニー喜多川氏が関わったのは「King&Prince」ですが、それぞれにジャニー喜多川氏に思い入れがあります。
ジャニー喜多川氏はどのタレントにも自分の子供のように接し、等しく愛を注ぎました。ジャニーズに所属するタレントは皆、ジャニー喜多川氏を慕いました。
全てのタレントではありませんが、各アイドルがジャニー喜多川氏に伝えたかったことをご紹介していきます。紹介の並びは順不同です。
嵐が葬儀でジャニー喜多川氏に伝えたいこと
嵐のリーダーである大野智さんはジャニー喜多川さんと喧嘩をしたことがあるといい、後からジャニー喜多川氏に「さっきはごめんね」と謝られた、というエピソードを話しました。
二宮和也さんは、「ジャニーさんが注いでくれた愛情を後輩たちにも伝えていかなければいけない」と話し、ジャニー喜多川氏の思いやりの深さについて改めて感謝の思いを伝えたいとしました。
櫻井翔さんはジャニーさんから電話で、「ユー、バレーボールのイメージキャラクタ―にならない?」と言われたことが今の場所につながっている、と話しました。
TOKIOが葬儀でジャニー喜多川氏に伝えたいこと
TOKIOのリーダーである城島茂さんは、ジャニー喜多川氏を芸能界という世界の育て親だけでなく、人生の師と慕い、その感謝を述べました。
城島さんは奈良県のあまり都会ではない地域から上京してタレントになったため、ジャニー喜多川氏にお世話になった部分が多いそうです。
井ノ原さんとともに家族葬の司会を務めた国分太一さんは、「YOU,やっちゃいなよ」という言葉が常に自分の心の中にあるといい、新たな挑戦をする励みになったといいます。
長瀬智也さんは、ジャニー喜多川氏のことを「最高以外の言葉が見つかりません」と評しています。
東山紀之が葬儀でジャニー喜多川氏に伝えたいこと
東山紀之さんは少年隊の一員として、ジャニーズ事務所の第一の全盛期ともいえる一時代を築いた立役者です。俳優としても活躍され、近年では報道番組のMC務めるなど活躍の幅をどんどんと広げています。
そんな東山紀之さんも、ジャニー喜多川氏への感謝を述べています。また彼は、お別れの会で流されたジャニー喜多川氏の映像のナレーションを務めました。
また、家族葬で司会を務めた国分さんと井ノ原さんにも「明るい司会をしてくれた」と感謝を述べています。
Kinki Kidsが葬儀でジャニー喜多川氏に伝えたいこと
Kinki Kidsの二人もジャニー喜多川氏に対する思いを口にしました。
堂本剛さんは、ジャニー喜多川氏について、家族よりも長く一緒にいて、父親の代わり、友達の代わりのような役割を果たしてくれたと話しました。また、ジャニー喜多川氏の物真似をやりすぎたことについて謝りたい、と冗談めかした様子で話しました。
堂本光一さんは、お別れの会のような盛大な会は、照れ屋で恥ずかしがり屋なジャニー喜多川氏は嫌がるだろうといいつつも、感謝の思いをどうしても伝えたかったから、絶対に必要な時間だったと話しました。
元SMAPが葬儀でジャニー喜多川氏に伝えたいこと
ジャニー喜多川氏が亡くなる前に、SMAPは解散を決めました。この時、草彅剛さん、稲垣吾郎さん、香取慎吾さんはジャニーズ事務所を退所したため、所属タレントが参加した家族葬には参列できませんでしたが、連盟でジャニー喜多川氏への追悼文を発表しました。
特に香取さんは小学校4年生で入所されており、ジャニー喜多川氏に対する思いは人一倍強かったようです。「心より、ご冥福をお祈りする」という文面が家族葬から一週間後の7月19日に発表されました。
山下智久が葬儀でジャニー喜多川氏に伝えたいこと
山下智久さんは、自分が多くの現場に呼んでもらえるようになったきっかけとなったエピソードを話しました。
初めての収録がある日に、山下さんは学校の体育の授業で腰の骨を折ってしまったそうです。ですがこの日を欠席したらもうチャンスが回ってこないのではないかと思った山下さんは、無理やり現場に向かいました。この根性がその後の活躍につながりました。
ジャニー喜多川氏はそんなことも覚えてくれていて、いつも背中を押してくれる存在だったそうです。
ジャニー喜多川氏の生い立ち
ジャニー喜多川氏はジャニーズ事務所の代表取締役社長として、抜群の知名度を誇りますが、あくまでも裏方に徹していました。そのため、名前は知っていてもその生い立ちをご存知の方はあまりいません。
裏方に徹していたジャニー喜多川氏は自分お写真もほとんど公開しておらず、家族葬やお別れの会でも遺影はサングラスにキャップをかぶったいつもの写真でした。
これほどまでに多くの人を笑顔にした彼がどのような人生を歩んできたのか、少しですが解説していきます。
ジャニー喜多川氏の出身地
ジャニー喜多川氏はアメリカ・ロサンゼルス生まれです。両親はともに日本人ですが日系二世で、二重国籍を持っていたためジャニー喜多川氏にもミドルネームがありました。ジョン・ヒロム・キタガワというのが本名です。
ジャニー喜多川氏の父親はロサンゼルスで日本の仏教である真言宗の米院の僧侶でした。ジャニー喜多川氏は次男です。兄はNASAに勤める科学者でした。姉のメリー喜多川氏はジャニー氏とともにジャニー事務所の運営に関わっています。
ジャニー喜多川氏 日本へ
ジャニー喜多川氏は2歳ごろまでロサンゼルスにいましたが、日本(当時は大日本帝国)に帰国しました。大阪府大阪市で生活をしていましたが、間も無くして母親が亡くなります。世界は第二次世界大戦の最中で、平穏とは遠い時代でした。
戦争のこともあり家族は大日本帝国に帰国をしました。第一次世界大戦は主な戦闘国ではなかった日本も、どんどん戦争に巻き込まれて(あるいは自ら起こして)いきます。そして1941年、日本は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が勃発します。
太平洋戦争を経験
ジャニー喜多川氏が人々を楽しませるエンターテイメントの世界に入ったのには、間違い無くこの戦争体験が大きく関係しています。
太平洋戦争が始まると子供たちだけで和歌山県に疎開をしました。疎開をしたものの和歌山の大空襲に巻き込まれ橋の下に逃げ込んで命を守ったというエピソードもあります。
ジャニー喜多川氏はジャニーズ事務所の若手タレントなどに自身の戦争帝権を話し、平和の大切さを訴えてきました。アメリカの陸軍軍属として朝鮮戦争に赴いたこともあります。
ロサンゼルスに帰国 美空ひばりとの出会い
戦争が終わってから、ジャニー喜多川氏は子供たちだけでロサンゼルスに帰国しました。高校時代をロサンゼルスで過ごし、そのまま姉と同じロサンゼルスのシティー・カレッジに進学します。
美空ひばりがアメリカで講演を行う際、父の勤務先であるお寺が会場となり、ここで美空ひばりと出会います。この出会いが、エンターテイメント、芸能の世界にのちに進む契機となりました。
この時ジャニー喜多川氏は19歳でしたが、ステージマネジメントを担当しました。
ジャニー喜多川氏の情報員時代
ロサンゼルス・シティー・カレッジを卒業後、ジャニー喜多川氏は再び日本にやってきます。駐日アメリカ合衆国大使館で、陸軍犯罪捜査局の情報院として勤務しました。
戦闘員としてではありませんが、アメリカ軍の一員として、英語を教えに朝鮮戦争の場にも立ち会いました。
そのような経験を経た後、再び日本にきたジャニー喜多川氏は上智大学に進学します。国際部、現在の国際教養学部で学んだのちに卒業、そのまま日本に永住をしました。
ジャニーズ事務所の設立
1960年台前半にジャニー喜多川氏は近所の野球チームのコーチを務めていました。野球が好きだったジャニー喜多川氏は熱心に指導を行い、チームの名前も「ジャニーズ少年野球団」になりました。
雨で練習ができなかったある日に、ジャニー喜多川氏は4人のチームのメンバーを映画館に連れていきました。「ウエスト・サイド・ストーリー」を見て全員が感動し、エンターテイメントの世界に進むことを決意、この4人が最初のグループ、ジャニーズとなりました。
はじめは芸能プロダクションに所属していましたが、すぐに自分の事務所「ジャニーズ事務所」を設立しました。
SMAPによる成功
郷ひろみ、シブがき隊、少年隊などで一斉を風靡した後、ローラースケートで踊りながら歌うひかるGENJIで世間に与えたインパクトは多大なものがありました。
しかし何と言ってもSMAPが納めた成功は他とは一線を画すものがありました。SMAPは歌って踊れるアイドルというだけで無く、バラエティでも活躍できるアイドルになり、持続性のあるタレントという立場を勝ち取りました。
ジャニーズ全盛期
SMAPが残した功績は大きく、その後のTOKIO、V6、Kinki Kids、嵐などのジャニーズ全盛期を迎えるこことなります。中でも嵐は最も動員力があり最もチケットの取れない日本のアーティストになりました。
その後もタッキー&翼、NEWS、関ジャニ∞、KAT-TUN、Hey !Say!Jump!など次々と人気グループが登場しました。
2010年代になってもその勢いは衰えず、NYC、Kis-My-Ft2、Sexy zone、A,BC-Z、ジャニーズWESTなどが次々デビューしましたが、ジャニー喜多川氏が最後に関わったのはKing&Princeになりました。
多くの人に慕われたジャニー喜多川氏
ここまでの記事を見ても分かるように、ジャニー喜多川氏が日本に与えた影響は計り知れないほど大きいものです。
ジャニーズ所属タレントはもちろんのこと、現在は違う事務所にいる人たちや、退所をした人もジャニー喜多川氏から受けた愛情を誰一人として忘れていません。
また、全国から9万人が参加したお別れの会は、日本がどれだけジャニー喜多川氏に元気づけられたかを象徴するものでしょう。これほどまでにたくさんの人から慕われた、ジャニー喜多川氏のご冥福をお祈りいたします。
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