小出義雄さんの葬儀|五輪金メダリスト、Qちゃんの流した涙とは

公開日 : 2020/5/28

更新日 : 2020/9/9

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女子陸上長距離界の名指導者である小出義雄さんが、2019年4月24日に亡くなりました。29日に行われた葬儀・告別式では小出義雄さんの愛弟子である高橋尚子さんが弔辞を読みました。名将と呼ばれる小出義雄さんの素顔や、シドニーオリンピックの裏側に迫ります。

公開日 : 2020/5/28

更新日 : 2020/9/9

目次

小出義雄さんの葬儀

小出義雄という名前は、普段陸上競技の世界にの興味がない人、箱根駅伝と世界陸上ぐらいでしか長距離走を見ない人にとっても聞き覚えがあるのではないでしょうか。

 

バルセロナオリンピック女子マラソン銀メダリストの有森裕子さんや、シドニーオリンピック女子マラソンで日本人女子初の金メダルを獲得した高橋尚子さんを育てた指導者が、小出義雄さんです。

 

小出義雄さんはその後もずっと陸上競技の世界で尽力し続けていましたが、2019年に入ってから体調が思わしくなく、小出義雄さんが大好きなお酒も断っていました。3月下旬から入院し、一時回復を見せたものの、80歳という年齢で鬼籍に入られました。

高橋尚子の弔辞

小出義雄さんの葬儀は28日に通夜、29日に告別式が営まれました。場所は、小出義雄さんの居住地であった千葉県の佐倉市です。さくら斎場で行われました。小出義雄さんの告別式では、小出さんの一番の愛弟子である高橋尚子さんが弔辞を読み上げました。

 

この記事ではその一部をご紹介します。弔辞に立った高橋尚子さんは「監督。高橋です。Qです。」と呼びかけました。高橋尚子さんは、「オリンピックの金メダルを取らせてくださって、世界記録を出させてくださって、ありがとうございました。」と感謝の言葉を述べました。

 

高橋尚子さんはまさに、小出義雄さんと二人三脚で陸上長距離界を歩んで、駆け抜けてきました。その想いはひとしおです。

小出義雄さんの生い立ち

ここからは、小出義雄さんの生い立ちについて見ていきます。小出義雄さんは知名度の高い方ですが、フォーカスされるのはやはり有森裕子さんや高橋尚子さんなどのスポーツ選手側です。指導者の側に焦点を当てている記事はなかなかありません。

 

指導者の生い立ちを知ることで、その人がなぜどのような指導法になったのかを知ることができます。大きなサングラスがトレードマークの彼ですが、どんな人生を送ってこられたのでしょうか。

 

陸上選手時代、高校の教員時代、陸上の指導者時代の三段階に分けて、お話ししていきます。小出義雄さんは千葉県佐倉市出身です。居住地も千葉県佐倉市でした。

陸上選手として

1939年に生まれた小出義雄さんは、千葉県の地元の高校に進学します。千葉県立武農業高等学校を卒業したあと、実家が農家だったためそれを継ぎましたが、陸上に対する熱意が途絶えず、昭和高圧という会社のの駅伝部で走ることを再開しました。

 

アルバイトをしながら駅伝をする生活はかなり苦しかったようですが、勉強もし、22歳で順天堂大学の体育学部に入学を果たしました。箱根駅伝に三年連続で出場し、一年時は5区、二年時は8区、三年時も8区を任されました。

 

高校卒業後は一旦農業に従事していたというブランクがありながら、一年目から名門順天堂大学の駅伝のレギュラーとして活躍していたのは、ひとえにその練習量に所以があります。

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教員時代

1965年に順天堂大学を卒業した後は、体育科の教員となりました。千葉県の公立高校に勤務、千葉県立長生高校、佐倉高校、市立船橋高校で教え、各学校で陸上競技部の顧問を務めました。箱根駅伝にでた顧問ということで人気が高かったようです。

 

市立船橋高校はスポーツが強いことで有名ですが、陸上の部分でも名門です。教員時代の最後に務めたこの船橋高校で、小出義雄監督は、全国高校駅伝大会で全国優勝に導きました。この記録は2時間6分30秒で、当時の高校最高記録でした。

 

このような手腕を買われて、高校の教職を辞めて、リクルートの社会人チームの指導者に就任しました。

指導者時代

高校の体育科の教員を辞めた後、小出義雄さんはリクルート・ランニングクラブの監督に就任しました。社会人チームの監督に就任することは非常に難しいことです。リクルートからその後積水化学に移籍しました。ここでも女子陸上競技部の監督に就任し、辣腕を振るいます。

 

小出義雄さんの教え子は有名な方がたくさんいらっしゃいますが、そのほとんどはリクルートの監督時代の出会いです。リクルートで出会った教え子たちは、積水化学に移籍した小出監督について、同様に移籍をしました。

 

ここからも、いかに小出義雄さんが慕われていたかが分かるでしょう。積水化学で4年間監督を務めた後、地元佐倉で佐倉アスリートクラブ(SAC)を設立しその活動に力を注ぎました。

小出義雄さんの指導法

小出義雄さんといえば、その独自でユーモアのある指導法が有名です。スポーツ選手とコーチとの関係は、競技によってその深さが違いますが、陸上競技は(特にその中でも長距離は)指導者と選手の関係は深いです。

 

長嶋茂雄監督と松井秀喜選手との関係のように、小出義雄監督と高橋尚子選手との師弟関係は、世間一般の方も知るところでしょう。小出義雄監督の指導方法は、当時の女子陸上長距離界の中では異例とされることもありました。

 

ですがそれについていく選手が大勢いたのは、小出監督の人柄が、愛情がその指導ににじみ出ていたからです。小出義雄監督の指導法は、褒めて伸ばすこと、圧倒的な練習量をこなさせること、高地トレーニングを行うこと、に特色が見られます。

褒めて伸ばす

小出監督の指導法の特徴は、なんといっても「褒めて伸ばす」ということに尽きるでしょう。今現代でこそ部活動や、スポーツの指導では褒めて伸ばしたり、休憩を取ったり、選手自身の意思を尊重することが大切とされていますが、まだ小出監督が指導者になった頃は、いわゆる昭和の体質が残っていました。

 

あるいは過渡期ともいえるでしょう。その中で小出監督はいち早く選手の欠点よりも長所を伸ばす指導方法を取りました。褒めて伸ばすこの指導は、選手の力を伸ばすことにつながりました。

 

今「褒めて伸ばす」という指導法が確立されているのは、実は小出監督の影響があるともいえるでしょう。新しい指導を導入したのです。

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圧倒的な練習量

しかし、小出義雄監督の指導は、褒めて伸ばすという優しい面だけではありません。スパルタな面ももちろんあります。小出義雄監督は、教えている選手に圧倒的な練習量を課すことでも知られています。

 

「世界一の選手になるためには、世界で一番練習をするしかない」このモットーのもと、選手たちにはとにかく練習をさせました。小出義雄監督が指導を始めた頃、女子に42キロを走らせるのは無理がある、という話者もいました。

 

しかし小出監督は違いました。日本人が長距離陸上で活躍する上で、女子のマラソンには可能性が秘められていると考えたのです。小出義雄監督が練習量が大切だと考えたのには、円谷浩吉という選手の影響があります。

円谷幸吉の存在

円谷幸吉の名前をご存知の方はそう多くないでしょうか。円谷幸吉さんとは、1964年の東京オリンピックで銅メダルを獲得した伝説のランナーです。ある年齢以上の方にとっては忘れられない名前でしょう。

 

円谷幸吉選手は東京オリンピックの後大人気となり、しかしそれは人気を超えたプレッシャーになり、円谷選手はその後、自殺という道を選んでしまいます。それはなんと27歳という若さでした。

 

小出義雄さんは、順天堂大学時代、円谷選手と同じ区間を走りました。その時、小出さんは円谷さんにどんなトレーニングを聞きました。「朝練だけで、二キロのコースを10本全力で走っているという答えが返ってきたそうです。

 

彼が強いのは、他が追いつけないほどの努力をしているからに他ならないのです。

異例だった超高地トレーニング

小出義雄監督の指導法の最後の特徴は、当時としては異例だった超高地トレーニングを取り入れたところです。この時代のマラソン界では、高地トレーニングは存在しましたが、標高1600メートル程度が一般的でした。

 

しかし小出監督は高橋尚子選手がシドニーオリンピックに挑む前、3500メートル級の場所で高地トレーニングを行いました。過酷なトレーニングには、必ず結果がついてくる、無駄になる練習なんて一つもない、というのが小出監督のモットーです。

 

過酷な練習の中でこそ、褒めて伸ばすという指導が生きてきます。ただ厳しいだけの指導者であれば選手がついてこないでしょう。小出監督の愛情が伝わるからこその過酷な指導といえます。

主な教え子

小出義雄監督の教え子はたくさんいらっしゃいますが、そのほとんどはリクルートのチーム時代に指導を受けた選手です。まず挙げられるのは有森裕子選手でしょう。有森選手はバルセロナオリンピックで銀メダルを獲得し、4年後のアトランタオリンピックでも銅メダルを獲得しました。

 

高橋尚子選手もはじめは有森二世と呼ばれていました。高橋尚子選手はシドニーオリンピックで金メダルをとって国民栄誉賞を贈られました。他に有名な選手は鈴木博美選手もいます。また、千葉真子選手、新谷仁美選手なども小出義雄監督の教え子です。

 

女子長距離陸上競技界において小出監督が残した功績は計り知れません。

シドニーオリンピック金メダルの裏側

小出義雄監督の指導を語る上で、シドニーオリンピックでの金メダルの話はどうしても外せないでしょう。日本の女子マラソンが世界で戦えることはすでに有森裕子さんが証明していましたが、だからこそオリンピックで金メダルを欲していました。

 

高橋尚子選手は、強い選手でした。シドニーオリンピックでの金メダルは、決して奇跡でもなんでもなく、高橋選手が自分の実力を出した結果です。その前のタイで行われたレースでは、圧倒的な勝利を収めていました。

 

そんな高橋尚子さんと小出義雄監督の関係、シドニーオリンピックの裏側をお話ししていきます。

小出義雄さんと高橋尚子さんの出会い

小出義雄監督と高橋尚子選手との出会いは、実業団のリクルートのチームでのことでした。高橋尚子選手は大学を卒業後、進路に悩んでいました。高校時代、大学時代も陸上に打ち込んでいましたが、実業団で続けるか、教師になるか決めかねていました。

 

当時高橋選手には8つほど実業団から誘いが来ていましたが、陸上競技に身を埋める覚悟がありませんでした。しかし、高校時代の恩師に小出監督を勧められ、覚悟を決めます。誘いの来ていた実業団を全て断り、大学生を取る方針のなかった小出監督に直談判して、リクルートの契約社員としてなんとかチームに入ることになりました。

 

高校や大学では中距離の選手だった高橋尚子選手に、小出監督は「お前はマラソンで世界一になるんだ」と言い続けたそうです。当時エリートチームだったリクルートの中でそのような言葉をかけられ続けた高橋選手は、徐々にエースランナーとしての自覚を持ち始めます。

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シドニーオリンピック本番

シドニーオリンピック本番、高橋尚子選手は優勝候補でした。ライバルは二人いましたが、もちろん、高橋選手も小出監督も勝つ気しかありませんでした。レース本番、小出監督は十七キロ地点までは足を温存しておくように指示していました。

 

その指示通り高橋選手は足を温め、18キロメートルを超えたところでまず動きを見せました。このスパートについてこられたのはわずかに三人。給水を取り忘れていたにもかかわらず、走りは快調そのものでした。

 

27キロ地点で先頭は高橋選手とシモン選手の二人に。そして35キロ地点で今も語り継がれるあの名シーンが生まれます。沿道にいた父親に向かってサングラスを放り投げ、最後のスパートをかけました。シモン選手はついてこられず、高橋選手はそのまま1位でゴールイン。

 

見事金メダルを獲得しました。この時の記録は当時の世界新記録でした。高橋尚子選手は、まごうことなき女子マラソンの最速ランナーでした。

金メダルの前夜

高橋尚子選手はマラソン本番の前夜、小出義雄監督の部屋に呼び出されました。何か大事な話があるのか、身構えて高橋選手が言ったところ、小出監督は「思いっきり走ってきていいぞ」とだけおっしゃったそうです。

 

高橋選手は拍子抜けし、しかしそのおかげで力むことなく走れたと言います。選手が緊張しない空気を作るところが、やはり一流の指導者であるのです。当時の小出監督は、高橋選手の走りぶりを見て、「これは優勝する」と確信したそうです。

 

レースを最後まで見ずに祝杯をあげはじめました。そのために、小出監督は高橋選手のゴールの瞬間にゴール地点にいませんでした。高橋選手は走り切った後、そのままの勢いで小出監督の元まで走り、42.195キロプラス400メートルを走りました。

名将 小出義雄さん

小出義雄さんの葬儀について、そしてその指導法について見てきました。小出監督のどのエピソードをとっても、彼がどれほど人間的に優れていたか、どれほど多くの人間に慕われていたかがお分かりいただけるでしょう。

 

名称であり、名伯楽であった小出監督は、お酒を大変愛しましたが、体調が思わしくなくなった時には大好きなお酒を断ってまで陸上の現場に立とうとしました。残念ながら回復されることはなかったのですが、愛弟子たちとお別れをすることはできたそうです。

 

小出義雄監督が陸上界に遺したものはきっといつまでも消えないでしょう。