大橋信夫さんの葬儀 |涌谷町のために生きた町長の最後とは?

公開日 : 2020/5/16

更新日 : 2020/9/10

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涌谷町の町長として大橋信夫さんは「金のいぶき」のブランド化などの功績を残して2019年4月4日に死去されました(享年69歳)。死因は自殺とされています。2019年8月の町長選にも出馬予定だった大橋信夫さんはなぜ亡くなり、どんな葬儀になったのかをご紹介します。

公開日 : 2020/5/16

更新日 : 2020/9/10

目次

大橋信夫さんのプロフィール

大橋信夫さんは意欲的に涌谷町長としての仕事をこなしていました。その彼がなぜ自殺をし、葬儀はどのように行われたのかをご紹介する前に、大橋信夫さんの詳しいプロフィールをご紹介します。

1991年、涌谷町の町議員に初当選

大橋信夫さんは宮城県遠田郡涌谷町(わくやちょう)出身で、1991年に生まれ育った涌谷町の町議員に初当選しました。涌谷町は日本で初めて金が産出した場所です。町の中央には箟岳山(ののだけ山)があり、黄金山神社(こがねやまじんじゃ)や涌谷城跡(城山公園)などの観光名所があります。

 

大橋信夫さんは初当選後、1992年1月から2016年10月まで連続6期、23年間を涌谷町の議員として務めました。その間、2004年には議会副議長、2008年に議会議長に就任しました。

2015年8月、涌谷町の町長に当選

大橋信夫さんは2015年8月に涌谷町長に当選しました。その後、2019年4月まで町長として活躍し、涌谷町長を子育てのしやすい町とするために尽力しました。その、真面目で優しい人柄と偉ぶった態度を見せないことから、町民に人気があった町長でした。

 

大橋信夫さんは、涌谷町長にしてから初登庁した8月31に訓示を述べています。訓示では、涌谷町が抱える問題である「働く場所の確保」『産業の衰退の改善」「人口減少問題の解決」などを目標とし、子どもたちが自信と誇りを持って暮らせる涌谷町を目指すと述べられました。

 

また、それには職員が失敗を恐れず、一貫となった町づくりを行う必要があると話し、「自分に力を貸してもらい共に涌谷町を創り上げましょう」と締めくくりました。涌谷町の未来に希望が持てるような立派な訓示でした。

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大橋信夫さんが涌谷町長として行ったこと

大橋信夫さんは涌谷町長として主に3つの施策を行いました。大橋信夫さんの業績をご紹介します。

玄米食専用品種「金のいぶき」を町の特産品に

大橋信夫さんが町長を務めた、宮城県遠田郡涌谷町は天平二十一(七四九)年、奈良時代に日本で初めて金を産出しました。発掘場所は、黄金山産金遺跡(こがねやまさんきんいせき)として現在も残されています。その金は、当時、奈良で造られていた東大寺の大仏の表面に塗布する金として奉納されています。

 

大橋信夫さんは、涌谷町が日本で初めて金を産出したことにちなんで、玄米食専用品種「金のいぶき」のブランド化を計りました。また「金のいぶき」を奈良時代に金を納めた、奈良の東大寺に献納しました。

 

「金のいぶき」は通常、白米よりも食味が落ちる玄米ですが、十分な食味があり炊き上がったときに金色に輝くことから「金のいぶき」と名前がつけられています。大橋信夫さんがブランド化した「金のいぶき」は現在でも人気商品として流通しています。

黄金山工業団地を造成

大橋信夫さんの町長としての第一の目標と言える「子育てしやすい町」を作るために、黄金山工業団地を造成しました。黄金山工業団地は新しい就業場所となり、雇用を生み出します。働く場所が確保できることで、安心して子育てができる町になります。

 

大橋信夫さんは宮城県と連携して大規模な黄金山工業団地を造成し、三重県の松本産業有限会社を誘致しました。松本産業有限会社はプラスチック射出成形やパーツの組立、製品の試作・量産・小ロット生産などを行う企業で、2019年5月から黄金山工業団地の工場の従業員の募集を開始しています。

 

子育ての支援の充実を実現

大橋信夫さんは、学校や職場、地域が一丸となって子育てを支援することで「子育てしやすい町」になり、少子化対策にも繋がるとして福祉課内に子育て支援室を設置しました。また、子どもの医療費や児童手当、保育料の助成にも尽力しました。

 

町立の幼稚園では全て預かり保育を行いました。また、お弁当給食も実施しました。おべんとう給食は栄養のバランスを考えて作られた幼稚園児向けのお弁当で、アレルギー対応食もあります。涌谷町では、土曜や学年始・学年末などの長期休業期間中もおべんとう給食を提供しています。

大橋信夫さんは涌谷町のために生きた

大橋信夫さんは涌谷町のために人生を捧げ、涌谷町を子育てがしやすい、働きやすい環境へと変えていきました。勢力的に涌谷町を変えていった大橋信夫さんですが、その死因は自殺と考えられています。ショッキングな死因と葬儀の様子をご紹介します。

お通夜・葬儀は涌谷町のエニシア葬祭会館で実施

大橋信夫さんのお通夜は、2019年4月10日(水)午後5時より涌谷町のエニシア葬祭会館で実施されました。葬儀は4月11日(木)午後12時より、同じく涌谷町のエニシア葬祭会館で実施されました。

 

大橋信夫さんの葬儀には、生前中の人柄や人望の高さ、死亡原因のショックの大きさなどから、自治体関係者など県内外約600人が参列しました。

 

大橋信夫さんの死因は自殺

大橋信夫さんは2019年4月4日(木)午後6時に死去しました。享年69歳。死因は自殺と考えられています。大橋信夫さんは亡くなった日に登庁せず、連絡がつかない状態にありました。町長として真面目に働く大橋信夫さんにしてはおかしいと思い、町と家族が警察に連絡しました。

 

その後、町内の林道に駐車していた車の側で、死亡した大橋信夫さんが発見されました。発見者は町の住民で、110番に連絡しました。病院に運ばれた大橋信夫さんの死亡が正式に確認されたのは、それから2時間後になりました。

 

警察は死亡場所の状況から死因は自殺の可能性が高いと見ていました。しかし、遺書がないことからはっきりとした死因はわかりません、事件性は低いと警察は見ています。

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自殺原因は町政運営の行き詰まりか

大橋信夫さんの自殺(推定)原因は、涌谷町の町政運営の行き詰まりが原因と見られています。涌谷町は税収減や社会保障費の増大のため「再来年度に財源不足に陥る可能性がある」として、2019年1月に「財政非常事態宣言」を出していました。

 

また、2018年9月には2017年度に納付された固定資産税、約31万円がなくなっていたことが判明しています。その責任を取って副町長が辞職、大橋信夫さんは2019年1月から給与を半分にしていました。

 

大橋信夫さんは固定資産税がなくなった事件が起こった2018年9月あたりから、まわりに「眠れない」と言っていたそうです。涌谷町長としての心労が重なり、大橋信夫さんは自殺に至ったと考えられています。

涌谷町を良い方向へ導いていた大橋信夫さん

大橋信夫さんの葬儀は涌谷町のエニシア葬祭会館で行われ、たくさんの関係者の参列がありました。涌谷町生まれで、涌谷町を良い方向へ導いていた町長であっただけに、自ら命を絶って亡くなったことが惜しまれます。